- 締切済み
いくさ
「鎌倉殿の13人」で、兵隊を集めたら「うちは4人です」とかいって、結果、24人で夜襲をかけてました。 この数字リアルだなあと思いました。 戦国ドラマとかだと、すぐ「4万の軍勢」とかいいますが、ほんとにそんな数おるんかいなと思います。ましてや当時の人口って、米沢とか10万人とかで大都市だったとききますから、分母的にも不釣り合いです。 殿様の一声で、何万人が動くとかあるんですかね?。 新撰組なんかも隊員の数がせいぜい何十人くらいで、リアルだと思うんですよね。壬生寺に寝泊まりできるくらいで。 ましてや、普段は農民に、「集まれ!」言うても「なんすか?」てなもんで、命掛けて戦うとは思えないんですよね。 100倍くらい水増ししてるのでは?。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
みんなの回答
- nururian
- ベストアンサー率27% (21/76)
前の方も回答しているとおり、中世の軍勢人数カウント単位は「騎」です。 これは本来の武士身分である一人の騎乗の武士に数人の従者が付き従った戦闘ユニットで、原則この単位で行動します。あくまでも戦闘員は騎乗の武士で、従者は主人の戦闘を補助する役割。そして騎乗の武士は、一族郎党などの繋がりで「党」という組織でまとまりました。 軍記物の軍勢数は結構盛った数字だと考えるのが一般的ですが、中世初期に成立したものは概ね近いと考えられています。例えば、保元の乱の場合は在京の軍勢だけだったので、両軍合わせても1000騎程度でしたが、平治の乱では熊野にいた平清盛は紀伊伊勢伊賀の軍勢を動員してから帰京しているので3000騎を超えたといわれています。 ですから、吾妻鏡が記す軍勢数はかなり正確だと考えられます。 軍勢は太平記あたりからかなり怪しくなってきますが、この頃から武士身分のハードルが下がってきて、結構出自が怪しい者も武士身分に上昇するようになります。これは時代を下るに従い戦闘の主戦力が騎馬武者から従者、足軽に移るとともに軍勢の人数カウントも「騎」から「人」になり軍勢規模も膨らみ、身分的には農民だけど武士と主従関係を結んで戦時に動員される「地侍」などが出現し、武士身分が拡大しました。 また、軍事動員は「軍勢催促状」という文書によって行われ、指定された日時までに集合をかけられます。
- oska2
- ベストアンサー率44% (2301/5119)
>この数字リアルだなあと思いました。 リアルな数字ですよね。 >殿様の一声で、何万人が動くとかあるんですかね? 兵農分離が進んだ信長以降では、何万人でも命令で動きます。 が、平安末期では無理ですね。 未だ、兵農分離が進んでいません。 そもそも、戦いは「農繁期に行う」事が前提の時代。 田植え・稲刈り・脱穀など農作業がある時期は、戦う事よりも農作業が優先します。^^; また、集団での戦闘も「卑怯な戦い・作法に反する」と考えられていたので「一対一の戦い」だったのです。 ですから、戦う前には「我こそは、〇〇庄の〇〇なりー」と双方が名乗ってから戦います。 今回の大河は、史実にあっていますね。^^;
- fujic-1990
- ベストアンサー率55% (4505/8062)
> 結果、24人で夜襲をかけてました。 あれは馬に乗る騎士の数で、騎馬の武士に着く足軽的な雑兵も数にいれれば、もっといただろうと思いますよ。 私は「水増ししていない」説です。 NHKの歴史探偵だったか、そんな名前の番組でやっているのをチラリと見ましたが、石橋山の戦いで敗れた頼朝が海路安房(千葉県南部)に逃れたのですが、上陸の際に頼朝に従っていたのが十数人だったのが、100人になった所が「百坂(ももさか)」になり、300人になった所が「三百坂」になり、1000人になったところが「千坂」で、やがて万を超えて、把握できなくなった頼朝は塚(ちょっとした小山)を作ってそこに立って観兵し、鎌倉を目指して行軍したと言っていました。 千葉県には今もそういう地名が残っているそうですので、実際に万を超える兵を集めることは可能だっただろうと思います。 ちなみに石橋山の戦いで、反頼朝方の大庭軍は「3000騎」ということになっています。雑兵は記録に残らないから分からない、そもそも数えないというわけです。
お礼
ありがとうございます。池田屋は、数十人程度で奇襲しています。それならわかります。 何千、何万という人数は、正に、把握も出来なければそもそも指揮が不可能ですよね。足軽や農民たちは、読み書きも知識もなく、政治的背景すら知らないわけで、戦うモチベーションがありません。 アメリカの黒人奴隷は、鎖につないで、ようやく奴隷だったわけで、それでも脱走しました。 戦国時代の足軽だって逃げると思うんですよね。
- gunsin
- ベストアンサー率32% (417/1292)
平安末期の武士は腕っぷしの強い輩が、集まりる豪族集団です。 領地を一族で支配してます、領地を拡大すれば、領地を分け与えて、 勢力を拡大していきます。 北条の様な小豪族は、家来、女、子供を含めても20人程度でしょう。 ドラマでは小競り合いなので、人数はあんなものでしょう。 一族同志の戦になれば普段は百姓している家来と領地内の百姓 を集めます、百姓に給料を払う財力が無いので、乱妨取りで得た物 が百姓の収入になります、その他に有力な武士の首を取ると、褒賞 が与えられます。 この、形態が戦国大名が登場した、室町時代は、人口増えて、豪族 も淘汰され、規模が大きくなり、動員する人数は増えましたが、 百姓を足軽として駆り出す形態は変わってません。 それを、変えたのが織田信秀で熱田神宮関連で得た財で、戦うのが 専門の戦闘集団を作りました、領地でなく給料を払ってました。 織田信長の頃には、2000人を超えていたようです。 今川は、3万の勢力で攻めて来ましたが、寄せ集めの百姓で、 運搬要員などを差し引くと、戦力になったの7000人位で、そのうち から、尾張の砦を攻めに行っているので、本隊は4000人位で、 織田軍の1500人はプロの集団ですから、戦力は充分で、運よく 勝った訳ではないのです。 -------------------------------------------------------------------------- 日ノ本の国で、軍事力を招集、動員出来た、最高の人物は、 「北政所」と思っているのですが、如何でしょう。 「ちょっと来やれ」の声掛けで、翌日には石田三成、浅野長政、 池田恒興が馳せ参じ、少し遅れて、福島正則、前田利家、黒田長政、 加藤清正が来て、軽く5万人は超えるでしょう、そのうち様子見の 大名も来るでしょうから、数え切れずです。 徳川家康が何よりも大切に大切に接したのは当然ですね。 英国の世界覇者の道を切り開いた、ヴィクトリア女王でも、 招集出来ない人数でしょう。
お礼
ありがとうございます。 基本的に敵の大将の首を取るゲームですから、奇襲して今川義元の首を取ったらゲームオーバーです。サッカーが、もし、100人対100人でやると、試合にならないように、いくさも、何万人とか意味ない気がします。五万人の兵隊が、関ヶ原に集まっても、後ろの方の兵隊は、何百メートルも後ろに行列してて、フェスみたいな感じになると思います。
お礼
ありがとうございます。 教えて頂き勉強になりました。 農民は、ほとんど戦わないと思いますね。 エキストラみたいな意識じゃないですかね。 逆に、農民が使える戦闘員だったら、将軍の圧政に反抗してあぶなくてしょうがない。