• ベストアンサー

武家が公家風の華美な生活を嫌った理由

 平家が源氏に負けたのは平家が公家の美的・快楽的な文化に染まって軟弱になってしまったからだと思います。事実源氏以来武家政権は平氏の真似はいっさいせず質実剛健な生活をしています。前例を重視するなら当然そうなります。  豊臣政権は少し違うようですがその豊臣政権が短期で終了したのをみて改めて武家の華美な生活は政権維持に有害と思い知ったのだと思います。  こういうことから武家には公家風の華美な文化は似合わない、などという思い付きの次元ではなく、はっきりと平家の前例からかなり自覚的に「忌避すべき」と決めた鉄則のように思えるんですがどうでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1498/3648)
回答No.2

敵と戦う「戦闘集団」としてだけ武家をとらえるならご指摘の通りでしょう。質実剛健で武の備えを怠らないことが必要で、武将が家臣や子弟に対してぜいたくを戒めた例は多数あります。 ただし、その一方で「武家の華美な生活は政権維持に有害」かどうかは別に検討すべき問題です。昔から言われた表現を借りるなら、「馬上で天下を取ることはできても、馬上で天下を治めることはできない」からです。政権を確立したのちは、「武」一辺倒ではどうにもならず、「華美」かどうかは別にしても、「文」の部分も必要となり、「政権のあり方」は変わらざるを得なくなります。 また経済の発展も考慮する必要があります。あとの時代になる程、武家といえども貨幣経済・商品経済に組み込まれています。江戸時代の武士がいくら個人的に鎌倉時代の武士にあこがれたとしても、(家康の愛読書の一つは「吾妻鏡」だったそうですが)時計の針は逆には戻せません。江戸時代の武士はほとんどの場合いわば「鉢植え」のようなもので、自分の領地から切り離されてしまっていたため、「自給自足の暮らし」がやりにくく、武士としての体面を維持する生活のためにはそれなりの金銭が必要になります。 諸大名や幕府にとってはなおさらで、家格を誇り支配者の権威を示すためには、居城一つにしても、豪勢にする必要があります。戦う砦としての意味しかなければ、居城に有名絵師の豪華な障壁画など全く不要ですが、そうはいきません。太平の世が続いたことで、武士に求められるものも、武士が求めるものも変わったのです。 これは、ある意味では武家政権が続く中の矛盾であり、当時の武士自身もある程度は気づいていましたが、「武家の窮乏は武士がぜいたくな暮らしに慣れてしまったからだ」というとらえ方では、その背景にある社会経済の発展にまでは思い至らないことになります。商品経済(商工業)が発展しているにもかかわらず、武家政権(幕府と諸藩)が主要な収入を年貢(農業)に頼っていた点に最大の問題があったのですが…。(幕末に諸藩の改革が成功した事例はこの点に着目しています) 大づかみに結論をまとめるなら、武家政権が長期間存続して、経済が発達したことにより、武士も豊かな暮らしが可能になっていったが、そのことで幕府や大名、さらに個々の武士も金が足りなくなってしまった。ということになるでしょう。江戸時代を考えるなら、「武家の華美な生活は政権維持に有害」というより、「武家政権が安定的に維持され、社会経済が発達したことで武家も豊かな生活が可能になったが同時に財政難・窮乏も招いた」ということになるのではないでしょうか。

katakana1956
質問者

お礼

広い視野による鋭い解釈ですね。経済のことを考慮にいれないと社会文化の正しい理解ができないことを教えていただきました。文章も立派ですしそのまま教科書にも載せられます。繰り返し読んで勉強させていたたきます。ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.1

隆盛がほんの一瞬でしたが北山文化も煌びやかじゃないですか。 奥州藤原氏も華やかな都を作ってたらしいし、私個人的には単に北條氏や徳川家の家風ではと思っております。

katakana1956
質問者

お礼

そういわれてみればそうですね。源氏は平家を意識して確かに質素でしたが、それ以後は徳川家くらいですか。北山文化はいうまでもなく、足利家本宅も「花の御所」と言われたくらい華やかだったらしいですから。やはり徳川家の長い平和な時代がやたらと強く印象づけられているのかもしれません。江戸時代の武家の質素な生活が華やかな町人文化と対比されてより強く印象に残っているのかもしれません。ご回答ありがとうございました。