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漱石の「草枕」で
山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。 智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。 (以上青空文庫より) 夏目漱石の「草枕」の有名な冒頭の文章ですよね。 しかしわたしには以下に続く文章がすごく気になります。 住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。 (以上青空文庫より) この文章をどのように解釈されますでしょうか。 教えていただければ幸いです。
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#3です。 ほかの方のお礼欄を拝見して、ご質問の趣旨がわかりました。 この部分の解釈、というのは、字義通りの解釈、この部分に何が書いてあるかがお知りになりたいわけではなく、この部分の背後にどのような思想が込められているか、ということなんですね。 『草枕』が何を扱った作品であるかは、#3ですでに書きましたが、漱石はこのなかで、みずからの芸術観を声高に語ろうとはしない。 その姿勢は、第一章にすでにあきらかにされています。 「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である」 詩や絵画がそうしたところから「生まれる」のではなく、「写す」、つまり芸術家の目を持って写し出す、創造するのだ、と漱石が考えていたことがわかります。 『草枕』はそれを散文の世界でやろうとした。 漱石がこの世を住みにくいと感じていたのはなぜか。 『漱石とその時代 第三部』で江藤淳は、『草枕』の以下の部分を引いて、この背後に、ちょうどこの時期現れた養父塩原昌之助の存在があった、と推定します。 「世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴で埋っている。……五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える」(11) 漱石は幼い時期に古道具屋に里子に出され、いったん生家に引き取られたものの、二歳から九歳までの七年間、塩原家に養子に出されます。その後、昌之助の離婚などがあって生家に帰るのですが、このとき漱石は生家に240円で買い戻された、といいます。 生家に帰った後も八年間ほど、塩原家に行き来することは続いたのですが、その間の養育費の問題をめぐって実父と塩原家は断絶、漱石自身も十七、八年、昌之助と顔を合わさずにいた。 ところが「ホトゝギス」に『吾輩は猫である』の連載が始まって、一躍漱石の文名があがったころ、ふたたび昌之助は漱石の下を訪れるのです(この経緯は『道草』のなかで漱石自身が書いています)。自分が養育費として受け取ったのは七年分でしかなく、八年分はまだ受け取っていない、といって。 一度は「親」であった相手から金をせびられる。「人の世」はそんな相手でも「親」として扱えという。 漱石はそんな「人の世」の塵外に去り、まったく別の世界、「難有い世界」を作品の中に創造しようとしたのではないか。 漱石は明治三十九年、『吾輩は猫である』を脱稿してから、わずか二週間ほどで『草枕』を書き上げています。 その背後には、そうした「人の世」に対する怒りが激しいエネルギーとしてあったのではないか、と江藤は推測しています。 ここからはあくまでもわたしの感想なのですが、漱石の芸術観というのは、きわめて具体的なものだったと思うのです。 哲学者のように「美」を観念的にとらえるのではなく(たとえば近代美学の祖といわれるカントは、現実の芸術に関しては、きわめて貧弱な趣味しか持ち合わせていなかったことが知られています)、具体的に、書画や詩、俳句を味わい、みずからのうちに取り込むことによって、芸術観を確立していった。 漱石は絵を描かせてもうまかったというし、以前『連句の楽しみ』という本の中で虚子と交わした連句を読んだことがあるのですが、これにしても、ほとんど虚子と較べても遜色ない(というか、個人的には一番好きだった)冴えを見せています。 「これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である」(1) ある種苛酷な人間関係に翻弄されつつも、一方で「第三者」の地位に、おそらく相当早い時期から立つことを通して漱石は鑑賞眼を鍛えていったのではないか。 そうした漱石の「芸術活動」の系譜として、この『草枕』はあるのではないかと思います。 のちに、専業の作家となった漱石は、作品におけるこうした方向性を捨ててしまうのですが。
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- ghostbuster
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解釈といってもたいしたことが書けるわけではないのですが。 >住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。 ここは問題ありませんね。 あまりに人の世は住みにくいので、どこか住みやすいところへ行きたい、といっていることはこれだけです。 >どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。 この部分は「人の世」をめぐる文章ののちにもういちど展開されます。 「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい」 だから、住みにくい世を少しでも住みよくするために、詩が生まれて、画が出来る、ということになるんです。 つまり冒頭部分を構造分析すると、 1.人の世は住みにくい。 2.住みにくくないところはない。 3.どこまで行っても住みにくいのが人の世だから、少しでも住みよくするために、芸術が生まれる。 という三つのテーマが、二回繰り返して変奏されています。 こういう創作の方法を「低回」もしくは「低回趣味」といい、初期の漱石に多用されます。 この小説は万事その調子で進んでいきます。 互いに重なり合う小さなテーマが、行きつ戻りつしながら、タペストリーを織り上げるように綴られていく。そしてそれぞれのテーマが、さまざまな色合いのヴァリエーションを持ちつつ、美と芸術と芸術家という大きなモチーフに収斂されるのです。 漱石は『草枕』を前例のない小説である、と言っています。 その前例のなさというのは、どういうところか。 E.M.フォースターは『小説の諸相』のなかで、小説におけるストーリー、物語性というものをこのように言っています。ストーリーの唯一の武器はサスペンスである。それからどうなるんだろう、という好奇心で読者を引っ張ってゆくものである、と。 さらにこんなふうにも言っている。 「物語が、すべての小説に共通するいちばん重大な要素です。そしてわたしは、そうでなければいいのにと思います。もっと別なものが――たとえば美しい旋律や、真理の認識などが――小説のいちばん重大な要素ならいいのにと思います。物語などというこんな下等な、原始時代に戻ったようなものでなければいいのにと思います」 (もちろんこの部分、フォースターは諧謔を交えてこう言っています) そして、E.M.フォースターの言葉を借りれば「もっと別なもの」を重大な要素にしたのが『草枕』です。 この作品には、俳句が出てきます。書が出てきます。さまざまな絵や、詩が出てきます。 こうしたものは、作品の単なる背景ではありません。 ストーリーがないわけではない。けれどもそれよりも大きな比重が、書画や俳句におかれている。 個人的な感想なんですが、こうしたものがよくわからないんです。 隠元禅師や木庵の書がどのようなものか、もちろんGoogleでイメージ検索すれば出てこないわけではないのだけれど、こうしたものが現物とどれだけ違うか。 しかも見る眼もない。 正直、『草枕』はわかっってないのだと思います。 ただ『草枕』をひとつのガイドとして、時間をかけながらそうしたものを少しずつ見ていけたら、と思っています。
- zuita88
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私なりの解釈ですが、、、 漱石の晩年に「則天去私」という境地にたどり着く時期があると聞きます。冒頭の文章の時代、漱石の人生の若いころの夏目家からの離籍、各時代の人々との出会い、別れを経験しそれまでの大きな「俗世のような世界」のまとまりを感じたのではないでしょうか。そして上記の世界から少し離れた心境の世界の入っていったことを感じる。俗の世界を味わいとおして新しい世界にある(それまでには無かった)「画」であり「詩」に触れたものだと思います。私(わたし)を離れ天に則する(おおいなるものに自分をまかせきる心境、境)を示す文章でしょうか。
お礼
回答有り難うございました。 「則天去私」。漱石はもうこの頃から「則天去私」の思想があったのでしょうか? 確かに漱石は、若い頃から家庭内の問題などで、回答者さんの言われる「俗世のような世界」に嫌気がさしていたのかも知れませんですね。ただ「草枕」が初期の頃の 作品なので、もし漱石にこの頃から「則天去私」的な思想があったとしたら、漱石は、総てを達観したといえば 語弊がありますが、世の中をある程度見極めたうえで、 創作活動を始めたのだろうかと、わたしなりに考えるのですが。 普通わたしたちは、日常生活の煩わしさから逃れるために、音楽とか、映画とか、本の世界へはいっていきますよね。そして、なんとなくまた日常の世界へ戻って くる訳ですが、詩や画(芸術)が生成されるには、こうした日常生活(現実)を否定したかたちからしか成り立たないのか、その辺の理解がわたしには不足しているように思います。 有り難うございました。大変参考になりました。
- 大明神(@bathbadya)
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「この世を作ったのは神でもなければ鬼でもない、向こう三軒両隣をちらほらする人である。人の世が住みにくいからと行って行くところは無かろう。有るとすれば人でなしの国である。人でなしの国は人の国よりなお住みにくかろう」と言う言葉(うろ覚えですが)を受けて、開き直って悟りをひらくとか?
お礼
回答有り難うございました。 確かに回答者さんの言われるように開き直りがあるかも 知れませんね。「草枕」が「坊っちゃん」の後に執筆されている事を考えますとなるほどと思います。 漱石は松山に赴任したときに、そうとう嫌な事があってそれを「坊っちゃん」でかなり書いていますよね。 悪意はないのでしょうけど、平気で人の生活に土足で入ってくるような人間関係に嫌気がさしていたのかもしれませんね。 ただわたしが疑問に思ってるのは、仮に人生を開き直った にしてもなぜそこから、詩が生まれたり画ができるのか という事がどうしても理解できないのです。 有り難うございました、大変参考になりました。
お礼
ご回答有り難うございました。 まず最初にお礼が遅くなりました事をお詫び申し上げます。実をいいますと、せっかく丁寧なご回答をいただきましたので、この機会にともう一度「草枕」を読み返しているうちにお礼文が遅れてしまいました。 またわたしの質問の不手際から、回答者さんはじめ他の 回答者さんにも、ご迷惑がかかりました事を、場違いとは思いますがこの場でお詫び申し上げます。 「草枕」を再読して感じたことは、この本は、それ以前に興味をもっていた俳諧(俳句)の世界の延長上にある ものというか、俳諧(俳句)の創造の世界を散文化しているものなのかな、と考えました。 漱石の言われる「人情の世界」から「非人情の世界」に 、ある種の精神的な高みに登る事によって、詩とか画が生まれくる、あるいは創造できると考えたのでしょうか。 そういう意味では「草枕」は漱石にとって、異質の作品であり、また実験的な作品であったのかもしれないですね。 >のちに、専業の作家となった漱石は、作品におけるこうした方向性を捨ててしまうのですが。 文中の中でも「非人情」の世界を追い求めながらも 「人情」の世界がちらりちらりと描かれていますね。 やはり漱石は、こういった問題に正面から取組んでいったところに文学としての魅力があるのだろうと思いますし、わたしがこの質問をさせていただいた根底にはこのようなものもあるのだろうと思います。 最後に#3で「草枕」の文学手法までも、ご回答いただき、大変参考になりました。 ご丁寧なご回答に、なにもお返しできませんが、大変有意義でした。有り難うございました。