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ペリー再来航、日米交渉の「筆談」。
1854年3月8日(嘉永7年2月10日)以降、横浜応接所において日米は交渉し、日本側は、前年受け取ったアメリカ大統領の親書に対して回答しています。 日常会話なら英語でもオランダ語でもよいですが、外交交渉の回答の細部の文言については、誤解があったではすまされず、「漢文による筆談」で練り上げたのだと、聞いたことがあります。 そのために首席代表として漢文の第一人者である、林大学頭が選ばれたのだと。 質問ですが、交渉の最重要部は、漢文と英語で詰めたのですか。 よろしくお願いいたします。
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すべて漢文の筆談ではないですか? 日米和親条約はこれで条約締結と呼べるのだろうか?と疑いたくなるような条約で、日本は日本の作った日本語の条約文書に日本の交渉担当者が花押(サインみたいなもの)を入れて渡し、アメリカは英文の文書にペリーのサインを入れて日本に渡しています。 両者が合意して共通の文書を作り両代表のサインを入れたものを二部作り双方が持つのが本来の条約です、そういった作業がなされていません。そのため第11条が双方食い違った内容になっています。 おそらく日本側に十分な英語力があればこれで条約調印はしませんし、日本側に英語で条約交渉をする能力はとてもじゃないがなかったでしょう。またわざわざ自分に不利な英語の土俵に乗ることもありえないでしょう。おそらく漢文以外の意思疎通はほとんどできなかったと思われます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 まさかと思っていましたが、やはり「漢文の筆談」ですか。 もやもやしていましたが、すっきりしました。 >またわざわざ自分に不利な英語の土俵に乗ることもありえないでしょう。 なるほど、そうですよね。 Wikiによれば、英語よりオランダ語を多用しているようです。