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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:protection of natureにthe?)

the protection of natureについての議論

このQ&Aのポイント
  • 派生名詞Aがof Bに後続されて名詞句を作るとき、Aには通常theがつく。
  • ただし、the protection of natureにはtheがつかないケースがある。
  • protection of natureは「自然を保護する」というカテゴリー的行為を表す場合にtheをつけない。

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  • Nakay702
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回答No.3

補足とお礼ありがとうございました。 字数制限オーバーですので、例によって2つに分けてお送りします。 (その1) @英作文指導の現場においては文法的指導が必要とされるため、〔1〕の動因の説明 <人によっては、このprotectionにはof natureという限定がかかるのでtheが必要と考え、別の人は、of natureは複合名詞「自然保護」の一部であって限定機能はないと見なし、theは不要と考える。>を使うのが良さそうですね。これだと無冠詞のprotectionが概念であることや、A of Bの内部構造についての話をしなくてもすみますから。 @ところで、複合名詞ととらえるということは、概念(内包)に近い表現になることだと言ってよいのでしょうか。一つ気がかりがあります。A of B (Aが動詞の派生形で、BがAの意味上の目的語になっているパターン)においてすべての事例が複合名詞として認められるかとなると何とも言えないという気がします。/A of B (Aが動詞の派生形で、BがAの意味上の目的語になっているパターン)においては、of B による限定がかかるのでtheが必要とされるという考えと、A of B が複合名詞またはそれに準じるもの(慣用的なもの)と見なされてtheがつかないという考えとどちらも許容される-というふうに指導するのが無難だろうと思うのですが、これに関していかが思われますか。 ⇒「theを笑う者はtheに泣く」といった感慨しきりですね。確かに、英作文指導に関しては、動因関係を主軸として説明することにして、特に質問があった場合のみ誘因について触れるというスタンスが良いかも知れません。門外漢の私が専門家のfeedersさんに提案するなどおこがましい限りですが、次のような指導の手順をご提案申しあげます。 (1)伝統的・形式論的には、A of Bのof Bは限定修飾語句なので、本来Aにtheがつく。しかし、現代英語法では、このAにつくtheはしばしば省略される。例えば、the protection of natureのof natureは限定修飾語句なのでprotectionにtheがつく。ところが、実際にはprotection of natureとすることがよくある。 (2)theの省略の理由は、A of Bの頻用によりof Bの限定感が薄れると、全体が一塊となった複合名詞の慣用表現として意識されるようになるからである。例えば、the protection of nature「自然の保護」が、protection of nature「自然保護」となるような場合である。 (3)この変化の原因としては、環境保護活動などが盛んに叫ばれるようになって以来、protection of natureが成句のような感覚を抱かせるようになったこととの関連大いに考えられる。また、英語法史上でtheの限定機能が薄まってきたという言語変化の実体も、それに拍車をかけているという状況が無関係ではないと見られる。 (4)したがって、例えば、英作文において、the protection of natureとしてもprotection of natureとしても(現代語法としては)間違いではないが、伝統文法を重視して後者(つまり、冠詞なしの用法)を誤りとする教諭もいるので、意識に留めておくように。 (5)実は、この種の問題では、いずれか一方が「より正しい」とは言えても「絶対に正しい」とは言えない。なぜなら、どの語法がよしとされるかの基準は、「どのくらい大勢がそれを使うか」という統計に準拠せざるを得ないからである。したがって、現行の状況に疎い場合などは、しばしば伝統文法に従うのが無難と判断されることや、A of Bの言い方において、Aが動詞の派生形で、BがAの意味上の目的語になっている構造の表現は無尽蔵にあるが、その多くが複合名詞化、慣用化していない、という状況なども合わせて留意しておきたい。  以上です。ほとんど、feedersさんのお考えと同じと思いますが、いかがでしょうか。 @もう一つつけ加えたいことがあります。~ご意見を頂けるとうれしいです。* *この長い部分につきましては、浅学のゆえ全面的なコメントはできませんので、誠に勝手ながら、私の気になったことのみ言及・敷衍させていただきます。 @ハイデッガーの哲学(「存在と時間」)は、前半においては世界内存在という基盤を背景にしたものであり、後半においては本来性を標榜しながら共感を取り扱っていないという、明確な欠陥を持つものであるというのが私の感想かつ意見かつ批判です。「存在と時間」において他者に対する共感という問題が一切言及されていないことに対する批判はレヴィナスやアーレントによってなされています。 ⇒ハイデッガーが本来性を標榜しながら共感を取り扱うことをしなかったのは、百パーセント私の憶測ですが、アポリアに陥ることを回避し、「神頼み的言表」を忌避したかったからではないかと思います。先端を行く者の宿命かもしれませんが、物事の洞察が究極的な局面に至ると、いつの間にか曖昧で神秘的な語調に変わることがあります。自然科学系では、分野の性質上、この変わり身の分岐点が明確なヘアピンカーブとなって浮き上がることがあります。例えば、「神よ、助け給え」的な心的態度への移行点です。無神論的ハイデッガーがこれを忌避したかったであろうことは、想像に難くありません。 (少し逸れますが、例えば、天文学分野で)  かつて佐藤勝彦(東大)は、アインシュタインの「一般相対性理論」に基づいて「宇宙は無限に再生産される」という仮説(インフレーション理論)を提唱して世界の学者に衝撃を与えた。その所説はだいたい次のとおり:「最初の宇宙(母宇宙)から、たくさんの子供宇宙が生まれる。これを宇宙のインフレーションという。同時にブラックホールなども生まれる。子供宇宙からはさらに孫宇宙が、孫宇宙からはさらにひ孫宇宙が生まれてゆく…。新しい宇宙が生まれる際のインフレーションの速度は光よりも速く、一瞬のうちに1ミリが1千億光年にも広がる…」。この親宇宙と子供宇宙とをつなぐ「へそ」つまり接点は「ワームホール」とか呼ばれるが、「アインシュタイン=ローゼンの橋」という別名を持つことからも推測されるように「究極の方程式」の意外な予言の一つだという。ところでこの佐藤の所説そのものは、当該領域の最先端を行く卓見らしいが、納得しにくいのは、すぐその後で「神」を持ち出すことである。上の説明に続き、「では最初の母宇宙はどこから来たのでしょう?」というインタビュアーの質問に対して、こともなげにこう答えている。「それは神様につくっていただくしか仕方がないでしょう」。こういう場面で神様などという「術語」を聞かされると、まるで、目隠しでもされて見知らぬ世界へ連れていかれ、突然放置されたような気分になってしまう。神の存在を証明する手法として本体論的証明法を使うのは神学や哲学での議論ならいざ知らず、この分野で「神の業、造物主、最高精神」などの術語に頼るとなれば、それはもはや、天文学ならぬ「天・文学」(!?) の世界ではないだろうか。フレッド・ホイルは、天文学の中に神の類を持ち込むことをこう批判している。「究極の第一原因とか造物主とかの考えを持ち込むと、そのとたんに私たちは思考停止に陥ってしまいます。何でもかんでも神のせいにするのは、これ以上先に考えを推し進めるのがいやだという意思表示にすぎません」。  確かに、このような形の神の持ち込みは、いわば、思考における「省エネルギーの無自覚的表現」とも言えるだろう。少なくともそう受け取られる可能性のあることは否定できない。舞台が自然科学分野だけに余計である。それにしても、最前線を行く科学者たちが、いや、そういう科学者ほどこの種の誤謬-あえてそう呼ばせていただく-に陥ることが多いのは何故だろう。考えるに、それはまさに「最前線を行くこと」自体に起因するのではないだろうか。つまり、彼らは、いわば前人未到の地へ分け入っているわけで、前例も見本も指針もない。頼るべきは自分の頭脳と感性だけである。そこで、可能な限り感性を研ぎ澄まし、可能な限り自己を「精神化」して対象に迫ろうと試みる。しかし、それでもなお、対象の姿は一向に見えてこない…。「一体、極限にまで精神化したものを超えるような存在とは何か? 消去法で、考えられないものを取り除いていくと、すべてが消えて、後には『精神を超えるもの=最高精神』という図式しか残らない。ゆえにそれは、『神の御業』に違いない」といった思考プロセスの結果であろうか? もしそうだとすれば、その「解決」は、つまるところ体のいい逃亡で、探求の放棄に他ならない、と言いたい。ただ徒に、病んだ「感性の安楽死」をさせるに過ぎない、ということになるだろう。

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  • Nakay702
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回答No.4

(その2) @共感という現象において、心だけでなく身体の働きも何らかの形で関係しているはずだということもつけ加えておきます(例えば、何かに感動した時に身体が震えたり、涙を流したりとか)。でないと、二元論的な対立から論理矛盾が生じます。メルロポンチの失敗*は避けなければなりません。当たり前のことですが、そうした矛盾は論理的に考えようとするから生じるのであって、生の現実においては、人間はうまくやってゆけるようにできていると私は考えます。うまくやってゆくことを妨げるものが多すぎるのが問題なのだと思います。 *メルロ・ポンティはむしろ二元論的な対立を排して、実存をより総合的に捉えようとしたのではなかったでしょうか? ⇒できれば私も、「生の現実において、人間はうまくやってゆけるようにできている」と考えたいです。しかし私は、このことに関してはかなり悲観的です。 (共感ということからは少し逸れますが、例えば、グローバルな共生について)  カルネアデスの板:大海中で小さな板にしがみついている遭難者が、それにすがろうとする別の遭難者に対して取る排除の行動について倫理的側面からどう考えるかという問題提起である。永遠に解の出ない問いかも知れないが、あえて一観点から答えれば「どんな美名の下でも他者の自己保存の侵害を是認するような大義名分はない」となろうか。自己犠牲など奇特なケースもあり得るが、通常我々は自己の生命を確保できて初めて他人の生を慮り、共生などのことへも思慮が及ぶ。自分の身の安全が保障されなければ、他人を配慮する意識も持てない。ところが個の存続は常に保障されているとは限らず、いついかなる脅威に晒されるか分からない。だから、個が他の存在を受け入れ、協調すること、すなわち共生する仕組みはあらかじめ存在したり自然発生したりするものでないことは明白である。不安な現代、いかに歴史や立場の違いを乗り越えた協調関係が求められるといえども、地球上の人類が自発的に共生するような構図を描くのは至難である。そもそも、そういう形態が簡単に出現するようなら、問題そのものが起こっていないだろう。では、諸民族が共生を志向する気になるのは、どんな場合があるか。そこへ至る契機は、過当単純化の嫌いがあるかも知れないが、次の二つくらいしか考えられない。一つは、やや唐突な発想だが、人類に共通する敵、例えば宇宙人が現われたような場合である。強力な武器を携えた宇宙人が地球を襲撃してくるようなことが仮にあれば、地球人は利害を共有することにより結束せざるを得ない。しかし、これは共生でなく共闘である。利害の一致が前提される臨時の協力体制である。では緊急事態でもなく、利害の一致もないような場合はどうか。自発的な共生があり得ないなら、残る手立てとしては契約・協定の類があるのみである。これが二つ目の方法である。ある意味で、共闘は自己保存のための方便であり、現状維持が基本目的だが、契約・協定の場合はもっと複雑で、別の考察が必要となる。  「本音」と「建前」の階層構造:人間同士の諸関係には、個・家族・共同体・組織・企業・地域・民族・国など様々なレベルが想定されるが、その関係を表す一様式として、「本音・建前」という用語がある。ある観点から捉えれば、本音とは個の自己保存のための心情、すなわち「要不要」に基づく発想であり、建前とは共同体全体の秩序維持のための規範、すなわち「正否」に基づく判断と言える。ところが、ここでレベルを移してみるとどうなるか。つまり、個と共同体(ゲゼルシャフト)の関係を一つ上の次元へ平行移動して、共同体とそれを含む地域社会や国との関係として考えてみる。そうすると今度は、共同体が個的な心情としての本音を地域社会や国に対して抱くという構図が現われる。つまり共同体は、内に対しては成員に秩序を求め(簡単に図式化すれば、それが成員にとって建前となる)、外に対しては共同体の自己保存や自己増殖(すなわち共同体にとっての本音)を主張する、という格好になる。個や共同体にとって、本音は自己保存や自己増殖の願望から由来し、上位団体や外部に向けられる。建前は秩序維持の願望から由来し、所属の成員に向けられる。なお、個にとっての本音は基本的に自己保存であるが、共同体にとっては、その存在理由などに照らして考えるに、むしろ自己増殖に重心がある。では、個と共同体の関係はどうあるべきか。(1)必要に応じて変形可能な柔軟構造をもって旨とし、小異を捨てずに大同につくことができるような関係のあり方が理想だろう。(2)異質性を排除せず多様性を良とする、つまり文化相対主義的な姿勢で、異文化親和を高めることが共生思想の基底として重要である。(3)そのためには、従来型の位階構造でなく、『リゾーム』(ドゥルーズとガタリ)が描くような「根茎ないし網目結合構造」が望ましいだろう。そこでは離接がより自由で、管理でなく相互支援が基本である。(4)何より個を中心に据えるべきである。従来、契約・協定の類は個の頭越しに上位団体レベル(国家間等)で行われるのが通例だが、団体レベルで行われる交渉関係は不可避的に当該団体の本音すなわち自己増殖的願望を基本に持つため、常に政治力学で動き、大国(的存在)の思惑に引きずられる傾向がある。これは可能な限り個的本音のレベルで、つまり自己保存の論理に即してなされるべきである。雑念を排するべく、生身の人間を基本に据えるべきである。少なくともその精神は汲むべきである。 グローバルな共生のために:以上は、やや現実離れした原理的な考察ではあるが、今日の混迷する国際関係などに鑑みるに、このような基本に返る発想が必要ではないだろうか。そして、文化的位相差による軋轢や煩雑化を最小限に抑えるべく、単純な個の普遍化、所属団体から求められる役割等に拘束されない裸の人間としての関係に可能な限り肉薄すべきである。こういう基盤に立つ関係性のありようは、地球上の多くの共同体に通底する要件である。そしてそれは、成員が対等の関係を享受し維持しつつ共に生きるための人間共同体の理想型とも言えよう。 以上、3大別のテーマでお答えしました。後半は我田引水気味で本題から離れましたが、ご関心外でしたらどうぞ無視なさって、最初の回答(英作文指導の現場におけるtheの存否をめぐる問題)のみをお読みいただくだけで十分です。

feeders
質問者

お礼

残りです。  -先ほども言いましたが、人間が人間である限り思考の限界があります。かつてヴィトゲンシュタインが思考の限界を論理の限界として策定したことがありましたが、われわれも、今度は論理を超えた次元での思考の限界を策定すべきだと考えます。思考は、それが論理を媒介する限り宗教的な事象には無縁なものだと思われます。宗教的というと語弊があるやもしれません。論理が一切届かない場面での思考と言うべきなのかも知れません。  そもそも学問が学問であるかぎりにおいて、論理は必須のものです。それは学問において探求され理解されたことを蓄積するためにどうしても言語と論理が必要とされるからです。ということは最小限度の客体化は引き受けるしかないということになります。 こうした意味での思考の限界は哲学者の観点からは比較的見えやすいのではないかと思いますが、物理学者や生物学者にとっては、当該の学問分野がどんどん発展してゆくものであるだけに、限界の策定がしづらいのではないかと思います。宇宙の神秘を次々に解き明かしても、入れ子細工のようにさらに次ぎつぎに新たな神秘が姿を現すという仕組みにいい加減で気づくべきだと思います。どこまで行ってもきりがない。貴重な資源(精神能力とその使用者)をもっと有意義なことに向けてほしいと思います、 <では緊急事態でもなく、利害の一致もないような場合はどうか。自発的な共生があり得ないなら、残る手立てとしては契約・協定の類があるのみである。これが二つ目の方法である。ある意味で、共闘は自己保存のための方便であり、現状維持が基本目的だが、契約・協定の場合はもっと複雑で、別の考察が必要となる。>    -前回の返信で述べさせて頂いた通りですが、私には<合意>という考え方の方がピンときます。ただし、ハーバーマスやロールズや井上達夫(共生の作法)を読んでも、<契約>という考えが不要だという結論は出てこないような気がします。<契約>にしろ<合意>にしろ、いずれにしても、皆が共感的であろうとしない限りこうした問題の解決はないと思います。私自身はこの件に関して楽観的な考えは一切持っていません。うまくいかなかったら、人類が人間として生きてゆくことはいずれ永久に不可能になるだろうと思っています。その可能性が大きいと考えます。 だとすると、いかにして人間が共感的になれるか、共感的であることを阻害するものを排するにはどうすればいいのかを突き詰めて考えなければならないと思います。もちろん共感的行動と並行してのことですが。今こそ学者の出番だと考えます。 <通常我々は自己の生命を確保できて初めて他人の生を慮り、共生などのことへも思慮が及ぶ。自分の身の安全が保障されなければ、他人を配慮する意識も持てない。ところが個の存続は常に保障されているとは限らず、いついかなる脅威に晒されるか分からない。だから、個が他の存在を受け入れ、協調すること、すなわち共生する仕組みはあらかじめ存在したり自然発生したりするものでないことは明白である。>   -相当難しい問題ですね。少なくとも、現今の状況を見る限り、共生する仕組みが自然発生するとは思えませんね。でも、私見ですが、共生する仕組みが上からの声によって始まるものではなく、日常生活の庶民レベルから始まるものでなければ持続しないのではないかと思われます。 <個と共同体の関係はどうあるべきか。>について読ませて頂きました。どれももっともな御説だと思います。ルソーの考えに対してよりもこちらの方に共感を覚えます。昔読んだ「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」を思い出しました。ありがとうございました。 今回は超長文の回答をいただき大変感謝しています。私なりの返信もしたためさせて頂きました。参考になるかどうかわかりませんが。とにかくありがとうございました。  次回の質問投稿は<固有名詞に対する限定・非限定>というテーマのものです。 普通名詞用法としてのa beautiful Parisと固有名詞用法のbeautiful Parisの違いについての質問です。よろしければ、またご意見を頂けるとうれしいです。

feeders
質問者

補足

長文の回答ありがとうございました。 (1)~(5)の手順には賛成です。ありがとうございました。  <(5)実は、この種の問題では、いずれか一方が「より正しい」とは言えても「絶対に正しい」とは言えない。なぜなら、どの語法がよしとされるかの基準は、「どのくらい大勢がそれを使うか」という統計に準拠せざるを得ないからである。>  -私も同じように考えています。例えばdifferent thanという言い方は日本では(different fromしか教えないので)誤りとされますが、国によっては許容されます。昔聞いたあるネイティブの見解(同じような形の表現において二つ以上の用法が存在する場合、30パーセント以上の使用頻度があれば正式な用法で見なされ、15パーセント以上であれば少なくとも誤りとは言えない--どこかの辞書会社の編纂方針なのかも知れません)をそのまま真に受けて、その見解を教室で示し続けてきましたが、最近は、どのくらいの使用頻度なのかを調べるのがおっくうで、大体の目見当で判定を下しています。とにかく一応の基準があることは伝えようと思っています。  ところが、帰国子女の中にはdifferent thanよりもっと使用頻度が低いと思われる表現を使うことがあります。私が誤りだと指摘すると、現地(例えばアメリカ中西部の都市)の先生がその表現を実際に教室で何度も使ったと言ってねじ込んでくる子がいます。英語に関してはアメリカの方が本場なのだから自分の使い方が正しいと思いこんでいるわけでしょうね。英語の指導って大変なのだと思い知る瞬間です。 ----------------- 哲学めいた話題に対してもコメントを頂き感謝しています。  <⇒ハイデッガーが本来性を標榜しながら共感を取り扱うことをしなかったのは、百パーセント私の憶測ですが、アポリアに陥ることを回避し、「神頼み的言表」を忌避したかったからではないかと思います。> アポリアに陥ることを回避し、「神頼み的言表」を行ったデカルトのやり方を、もちろんハイデッガーは批判しています。アポリアに陥ることを回避しようとしたハイデッガーは世界内存在の最終的根拠を<根源の時間性>においています。私のは「神頼み的言表」に近いものがあるように感じます。共感を取り扱うことをしなかったのは空間性より時間性の方に優先権を与えたためだと私には(個人的見解ですが)思われます。 佐藤勝彦のインフレーション理論は私も読みました。多元宇宙論も読みました。実は、永遠回帰説を唱えたニーチェがある時期に宇宙論の本を読みまくったとか聞いいたことがありますが、それを聞いてがっかりした記憶があります。当時の宇宙物理学は、現在と違ってせいぜい望遠鏡で観測してはああだこうだと自説を唱える程度のものでしたから。キリスト教の神を殺したつもりになっていたニーチェは自分自身を<超人>と見なすことができずに、<神的なもの>を求めていたのかも知れないと思ったりもします。 <納得しにくいのは、すぐその後で「神」を持ち出すことである。上の説明に続き、「では最初の母宇宙はどこから来たのでしょう?」というインタビュアーの質問に対して、こともなげにこう答えている。「それは神様につくっていただくしか仕方がないでしょう」。---> -最先端の宇宙物理学者に信仰心の厚い人が多い、あるいは無神論だった人が宗教に帰依しているという話を聞きます。日本でも、ハイレベルの大学の物理学科の学生や院生が宗教心を起こす、それも新興宗教に興味を持つものが増えていると、ある物理学科のドクター課程の物理講師から聞いたことがあります。宇宙物理や生命科学などは、科学の論理に還元できないものをもともと抱えていますかから無理もないと思います。 <こういう場面で神様などという「術語」を聞かされると、まるで、目隠しでもされて見知らぬ世界へ連れていかれ、突然放置されたような気分になってしまう。神の存在を証明する手法として本体論的証明法を使うのは神学や哲学での議論ならいざ知らず、この分野で「神の業、造物主、最高精神」などの術語に頼るとなれば、それはもはや、天文学ならぬ「天・文学」(!?) の世界ではないだろうか。フレッド・ホイルは、天文学の中に神の類を持ち込むことをこう批判している。「究極の第一原因とか造物主とかの考えを持ち込むと、そのとたんに私たちは思考停止に陥ってしまいます。>  -私も同様に考えます。そもそも、自然科学から<神>を排除したのは、フレッド・ホイルが言うように思考停止に陥ってしまわないようにという気構えを持つためだったはずです。それと、自然科学を応用した結果得られる個人的利得と教会の教えとが相反するということも理由の一つだったと思います。  ただし、ここで言う<神>とは論理上の要請として据えられる神であって、信仰上の神ではありませんから、欧米の科学者の多くはキリスト教の神に対する信仰をちゃんと持っています。ただ、自然科学の場面で<神>を持ち出すのはルール違反だと思います。学問と信仰を連続的なものと考えるのであれば、あらかじめそうした意見表明が必要だと思われます。連続的なものだと考える学者が増えているのかも知れません。 物理定数やfine tuningの問題を考えると、ついそのような議論に向かう物理学者もいるでしょうね。fine tuningは、地球に生命が発生し進化することを可能にするように宇宙において精密な微調整(fine tuning)が行われているように思われるという考え方ですが、この世における基盤の一つである<合理性>の存在について考えあわせると、それほどおかしな議論だと思えません。ただし、その考えを認めると、では、なぜ人類がこの世に生まれさせられたのかとか、この世の、あるいは人生のすべてはあらかじめ決定されているのかなどといった疑問を始めとして、不毛な疑問が次々とわいてきます。きりがないですね。人間には所詮理解不能なことです。人間が人間である限りこれ以上は思考できないという限界が必ずあるはずです。  それよりは、現実のこの世の問題をいかに対処するかにエネルギーを費やした方がよいのではないかと考えます。  ハイデッガーは究極の第一原因とか造物主とかの考えを拒否しています。そうしたものからこの世のものを規定しようとすると客体化がおきます。つまり客体化された疑似真実がまかり通ることになります。だから、ハイデッガーは我々の日常性のレベルの振る舞いや情感・気分の分析から出発しました。そうすることで客体的な発想に陥らないようにしようとしたわけです。  では、本来性という観点を導入した後、どういう場所に向かったのかということですが、「存在と時間」以外の著作も合わせて読むと、哲学のレベルを超えているとしか思えないような記述がいろいろなされます(もちろん、哲学の定義次第ですが)。  彼が求めたものは、人が存在する(生きる)ことがどのようなことなのかを探り、それを言葉で言い表すことだったわけですが、ある日、誰かに「存在」(<存在する>を名詞にかえたもの)とは何かと聞かれて、それは生命だと答えています。だったら、基本的な発想は仏陀の考えと同じようなものだろうと思われますが、彼にとっては、存在とは<究極の第一原因とか造物主>とかから客体的な響きを取り去ったものでなければならないので、いきなり究極の第一原因は生命である、生命を背景として人間がこの世に生きてある、その具体的な存在体勢が世界内存在なのだと言うわけにはいかないわけです。  ハイデッガーはある著作の中であらゆるものの最終的な根拠は「存在」であると主張しています。「存在」は彼によれば生命です。キリスト教の神ではありません。なお、仏陀は涅槃を生命と言いかえることがありました。イエスは聖書の中で<神の国>を天国、楽園、生命というふうに言いかえています。3者の共通点は<生命>です。キリスト教は、私の知るかぎり、そのようなことは一切言っていません。念のため言っておきますが、キリスト教の教えとイエスの教えとでは共通する個所は(私の読解力では)わずかです。 私自身は、「存在と時間」以降のハイデッガーを、その考えがいかなるものであれ、宗教的な(普通に考えられる哲学のレベルを超えた)著述の著者と見なしています。学問的レベルの思考は「存在と時間」までだと思います。この著作以降においては同じ発言の返ししか行っていないように私には思われます。 <彼らは、いわば前人未到の地へ分け入っているわけで、前例も見本も指針もない。頼るべきは自分の頭脳と感性だけである。そこで、可能な限り感性を研ぎ澄まし、可能な限り自己を「精神化」して対象に迫ろうと試みる。しかし、それでもなお、対象の姿は一向に見えてこない…。「一体、極限にまで精神化したものを超えるような存在とは何か? 消去法で、考えられないものを取り除いていくと、すべてが消えて、後には『精神を超えるもの=最高精神』という図式しか残らない。ゆえにそれは、『神の御業』に違いない」といった思考プロセスの結果であろうか? もしそうだとすれば、その「解決」は、つまるところ体のいい逃亡で、探求の放棄に他ならない、と言いたい。ただ徒に、病んだ「感性の安楽死」をさせるに過ぎない、ということになるだろう。> 字数の制約がありますので、ここで2つに分けます。

  • Nakay702
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回答No.2

(その2) @Pにおいてprotection にtheをつけることもできます。 Q: The President says that the protection of nature is essential. Qにおいて、無冠詞のprotection of natureは間違いだとかよくないとか言う人(ネイティブ)はtheをつけた形を許容します。protection of natureは間違いではないという人でも、theをつけた形の方がnaturalだと言います。しかし、Pの文を読む限りでは、protection of natureにおいてprotectionがof natureに限定されているようには見えません(他のものの保護ではなく自然の保護と言ってるようには見えません)。/protection of nature (「自然保護」)はワンセットで使われる慣用句のようなものではないかと私には思えます。そうだとしたら、of natureは限定力を持たないはずです。よってtheはつかないと思うのですがいかがでしょうか。ただし、例えば、"Protection of human rights? Yes, it's truly important. But there is something far more important. That's the protection of nature. という文が書けそうです。ここでのthe protectionならnaturalだと思います。/The President says that the protection of nature is essential. においてprotectionにtheがつく理由としてof natureによる限定以外に、by the governmentの省略というケースも考えられます。例えば、The President says that the protection of nature by the government is essential. において、the protection of nature by the governmentはThe government is going to protect / has been protecting nature. の簡略化であって、内容的に出来事を表すのでtheがつきます。でも、Qにおいて、それまでにthe governmentが話題に出ているわけではないようなケースも見受けられます。 にもかかわらず、ネイティブ達はtheがつくケースの方がnaturalだと言っています。これはどう考えたらいいのでしょうか。もしかしたら、派生名詞を使ったA of Bの形の名詞句においては Aにtheをつけるのがdefault useだという意識が強いからなのかなと思ったりもしています。 ⇒前節と同じく、お説は実に論理的で全面的に納得できますので、以下は反論ではありません。  また、別の観点から少し追加させていただきます。「外堀」(その2)です。冠詞の用法の通時的変化の現在的帰着点として「theの情報量が少なくなったこと」が1つの参照次項として挙げられると思います。一言で言うと、theの限定能に幅(濃淡)のあることが「問題の根源」ではないでしょうか。その意味では、「A of Bの形の名詞句においては Aにtheをつけるのがdefault useだという意識」は正統派的な見方と言えるかも知れません。  ところで、定冠詞を付加するか否かによる主要な効果は「限定・非限定」の区別ですが、独立の意味をもつ実詞(名詞・形容詞・副詞)に比べ、theはその意味的実体が希薄です。それでしばしば省かれます。この定冠詞脱落の要因は、「theの情報量が少ないこと」に由来したと説明されます。このことから、定冠詞theの「限定」という機能は、今日では「あるかないか分からないほどに薄くなっている」というような状況です。ということは、theの機能は、ゼロすなわち「非限定」に限りなく近いところから、最大限すなわち「明確な特定」までを何となくカバーする。すなわち、「幅広い意味機能がある」ということになると思います。最も明確に限定する場合は、theの母体となった指示詞を使いますが、次に限定を示す場合にtheを使い、弱い限定からゼロ限定までの間は、「theと無冠詞の間を揺れている」、という状況ではないかと思います。  これまで見てきたことから、一つのまとめとして、次のことが言えるでしょう。 〔1〕The President says that (the) protection of nature is essential.については、2つの要因が関わると言えます。 ・誘因:言語自体が持つ原因。通常、theは限定を表す機能を持つが、その働きが弱まってきて、場合によっては、それが省略されてもあまり違和感を与えなくなったことによる。 ・動因:言語主体が原因になる。人によっては、このprotectionにはof natureという限定がかかるのでtheが必要と考え、別の人は、of natureは複合名詞「自然保護」の一部であって限定機能はないと見なし、theは不要と考える。 〔2〕通時的な言語変化の要因はさまざまであるが、大きく分ければ上記の二つ(誘因・動因)に集約できる。言語変化はまた、共時態(平面的分布)としてはまだら模様を描く。(「方言周圏論」なども参考になる)。例えば、α→β→γ→δと変化してきた語形・語法があると、必ずと言ってよいほどそのすべてがどこかに点在する。 〔3〕トレンド、すなわち、過去・現在における変化の推移や、未来における優勢形・地域差、例えばイギリスとアメリカにおける潮流、などはある程度絞り込んだり特化したりすることができる。(「流出言語はアルカイックな傾向がある」などの経験的知識なども役立つ)。  ということで、このprotectionにtheをつけるか否かの問題には「決め手や定説がなく、いずれも正しい」と言うほかなさそうに思います。ただし、これまでの経緯や実態を示したり、今後の未来の変化などを予測したりすることはできるかも知れません。さらに、いずれをとる場合でもそれなりの理由を添えることができるでしょう。 以上、お粗末ながら、ご返信まで。

feeders
質問者

お礼

残りです。 話を戻します。主体によって空間が非客体的にととらえられるとき、情感はマイナスのものも当然含みます。例えば、他者に対する憤りや憎しみもそうです。対象が特定されなくても世の中一般に対する憤りや憎しみもあります。 そうすると、共感が優先的に取り出されるためには、ハイデッガーが「存在と時間」で行ったように本来性という方向づけを行うしかないと思います。それによって、共感を取り出すことが可能になります。 また、こうも言えます。ニュ-トン物理学においては人は空間的な限定を与えられるので一個の単独者として存在しています。ニュ-トン物理学の縛りを無化・還元してしまえば、人は単独者ではありません。他の人間達と結びついているはずです。身体の結びつきはあり得ませんから、心の結びつきがあるはずです。そこに方向性を加味すると共感の存在を見て取ることができます。これはライプニッツの考えではありません。たぶんに文学的・芸術的な考えです。ゲーテだったらそうしたことを唱えそうな気がします。 さて、共感は本来性という補助線的なものを介してやっと取り出されましたが、そもそも、人間は共感がなくては生きていけないものなのかという問題があります。他の基盤(合理性や言語や世界内存在)と違ってそれがないと生きてゆけないというものではなさそうです。実際そうしたものを持たずに生きている者がたくさんいます(もちろん、そのような人たちも本来性の次元では共感を必ず持っているはずです)。  ですから、本来性の次元における共感は他の基盤とは異なるものだと言えます。他の基盤は人間が単に生きてゆくための基盤ですが、共感(愛と言いかえてもかまいません)は人間が真の人間として(人間らしく)生きてゆくための基盤であると言ってよいと思います。 基盤はこのように二種類存在すると考えるべきだというのが私の考えです。このように考えると、ハイデッガーの哲学(「存在と時間」)は、前半においては世界内存在という基盤を背景にしたものであり、後半においては本来性を標榜しながら共感を取り扱っていないという、明確な欠陥を持つものであるというのが私の感想かつ意見かつ批判です。「存在と時間」において他者に対する共感という問題が一切言及されていないことに対する批判はレヴィナスやアーレントによってなされています。 以上、共感が基盤であることの根拠について記しました。さらなる基盤があるやもしれませんんがこれくらいにしておきます。なお、共感という現象において、心だけでなく身体の働きも何らかの形で関係しているはずだということもつけ加えておきます(例えば、何かに感動した時に身体が震えたり、涙を流したりとか)。でないと、二元論的な対立から論理矛盾が生じます。メルロポンチの失敗は避けなければなりません。  当たり前のことですが、そうした矛盾は論理的に考えようとするから生じるのであって、生の現実においては、人間はうまくやってゆけるようにできていると私は考えます。うまくやってゆくことを妨げるものが多すぎるのが問題なのだと思います。  以上です。よろしければご意見を頂けるとうれしいです。

feeders
質問者

補足

回答ありがとうございました。  <〔1〕The President says that (the) protection of nature is essential.については、2つの要因が関わると言えます。 ・誘因:言語自体が持つ原因。通常、theは限定を表す機能を持つが、その働きが弱まってきて、場合によっては、それが省略されてもあまり違和感を与えなくなったことによる。 ・動因:言語主体が原因になる。人によっては、このprotectionにはof natureという限定がかかるのでtheが必要と考え、別の人は、of natureは複合名詞「自然保護」の一部であって限定機能はないと見なし、theは不要と考える。 〔2〕通時的な言語変化の要因はさまざまであるが、大きく分ければ上記の二つ(誘因・動因)に集約できる。言語変化はまた、共時態(平面的分布)としてはまだら模様を描く。(「方言周圏論」なども参考になる)。例えば、α→β→γ→δと変化してきた語形・語法があると、必ずと言ってよいほどそのすべてがどこかに点在する。 〔3〕トレンド、すなわち、過去・現在における変化の推移や、未来における優勢形・地域差、例えばイギリスとアメリカにおける潮流、などはある程度絞り込んだり特化したりすることができる。(「流出言語はアルカイックな傾向がある」などの経験的知識なども役立つ)。> -以上のことはおっしゃるとおりだと思います。ただし英作文指導の現場においては文法的指導が必要とされるため、〔1〕の動因の説明 <人によっては、このprotectionにはof natureという限定がかかるのでtheが必要と考え、別の人は、of natureは複合名詞「自然保護」の一部であって限定機能はないと見なし、theは不要と考える。>を使うのが良さそうですね。これだと無冠詞のprotectionが概念であることや、A of Bの内部構造についての話をしなくてもすみますから。 ところで、複合名詞ととらえるということは、概念(内包)に近い表現になることだと言ってよいのでしょうか。 一つ気がかりがあります。A of B (Aが動詞の派生形で、BがAの意味上の目的語になっているパターン)においてすべての事例が複合名詞として認められるかとなると何とも言えないという気がします。その語句の使用実績・頻度などさまざまな要因が絡んでくると考えられます。 例えばconstruction of the airport building の場合、construction of X を複合名詞とみなされるかということになると微妙だという気がします。他にagreement of ---というパターンもそうです。  複合名詞として認められるかどうかは他動詞と目的語の結びつきの緊密さ次第ということになるのでしょうか。もしそうだとすれば、A of B (Aが動詞の派生形で、BがAの意味上の目的語になっているパターン)のAが無冠詞で使われるケースは、内部構造において主語が存在しないことから始まって無冠詞のconstructionが概念であることまで生徒達に説明するしかないような気がします。そうなると指導側の手間と生徒達の忍耐力が要求されます。 ただし、慣用表現化すると(特定の何かを示すわけではなくなるので)定冠詞が脱落するという説明は生徒達には割とすんなり受け入れやすいもののようです。というわけで、A of B (Aが動詞の派生形で、BがAの意味上の目的語になっているパターン)においては、of B による限定がかかるのでtheが必要とされるという考えと、A of B が複合名詞またはそれに準じるもの(慣用的なもの)と見なされてtheがつかないという考えとどちらも許容される-というふうに指導するのが無難だろうと思うのですが、これに関していかが思われますか。  以前、同僚の英作文担当者がprotection of natureだったかconstruction of ----だったか忘れましたが、文法ミスなのでtheをつけるよう指導しているという話を聞いて、それはやりすぎだと思ったことがありますが、こうした問題を深く考えない指導者が多いようですね。 一つつけ加えたいことがあります。前回の私の返信の中で、このように言いました。 -啓示の主はキリスト教によって論理上および信仰上要請されるものにすぎません。ハイデッガーはキリスト教に対して(特にカトリック教会に対して)批判的でしたが、<指針>が存在しないとは考えていません。<指針>は「存在と時間」における方向性と同じものだと考えられます。 <方向性> ではありません。本来性と言うべきでした。「存在と時間」の文脈においてはどちらでも同じことだとは思うのですが、とりあえず訂正しておきます。失礼しました。 もう一つつけ加えたいことがあります。やはり、前回の私の返信内容についてです。 <前回取り上げた基盤は、どれも(あるいはすべての基盤は)Logosという言葉による置き換えが可能です。Logosは神と同一視されることもありました。基盤は私が示したものだけではないと思います。共感とか愛とかもその一つだと思いますが> 共感が基盤の一つだと思うと書きましたが、そう思う根拠は述べませんでした。難しい議論(反論を含む)が予想されるからです。でも、いったんそのような言明をしたからには一応の根拠を示さなければならないと思います。私自身が普段の暮らしにおいてどのくらい共感的な人生を送っているかどうかと無関係に(その問題はもちろん私自身の問題として常に存在します)、共感というものがいかに基盤たり得るかについて私なりの考えを披瀝させて頂きます。  一般に共感なるものが生じるのは人と人の間でおいてです。これまでの私の質問投稿でも述べてきましたが、対人関係を客体的にとらえる時、情感の交流はありえません。他者との情感の交流は非客体的な関係においてのみ存在すると言えます。この観点から言うと、共感も広い意味での情感と見なすことができます。 また、共感は、共感を感じ取る主体と他者との間に共時的に存在するものでもあります。ということは、認識における空間形式が問題となると言っていいはずです。認識における空間形式という言い方はカントを参考にしたものですが、合理論的観点からも経験論的観点からも空間は認識の際の主要な形式だったはずです。ただし、カントの考えはニュートンの物理学とユークリッドの幾何学の妥当性の根拠を画定しようとするものでした。彼らの考えを始めから正しいはずだと見なした上で、そうした考えを正しいものと判断する理性の側の有り様を述べるのがカントの方法だったと私は理解しています。でも、経験的に獲得されたものを理性の側が受け取り判断するアプリオリな能力があるということを、経験論者はなおかつ否定しようと思えば否定できます。 前回も言いましたが、基盤を一歩外に出ると(付加物が与えられると)疑いの余地が生じます。 付加物は歴史的・相対的・外延的なものでしかないからです。共感を内包としてとりだすには付加物を除去しなければなりません。<事象そのものをして語らしむる>ということですね。現象学で言えば、現象学的還元とそれに続く本質直感です。 でも、私にはニュートンの物理学を外苑化するためにアインシュタインやリーマンの考えを紹介するだけの能力も知識もありませんので、独自のやり方で<事象そのものをして語らしむる>ことを実践してみます。今、独自のやり方といいましたが、私がやっても他の人がやっても結局は同じ結果が出るはずです。昔、そうした考えを実行に移したことがありますが、私のより的確なものがあるので、そちらを紹介したいと思います。 ニュ-トンは空間を無限の均質的な広がりととらえました。これを外延化することは、ちょうど ニュ-トンと同時期の学者でニュ-トンの絶対空間説に異議を唱えた人物、すなわちライプニッツの考えを採用するのとほぼ同じことだと思われます。彼のよれば、空間とはものとものとの関係でしかありません。主体にとって他者が存在することが空間が存在することの意味なのです。主体はこの<私>だけではありませんから、彼は相対空間を提唱したことになります。ライプニッツの現代版がアインシュタインだと言ってよいと思います。 空間が主体と他者との織りなす場であって、主体によって空間が客体的にとらえられていないとすれば、そこに情感が通うのは当然のことと考えられます。ただし、情感の一部として共感が存在するわけで、他に様々な情感が存在します。ハイデッガーは「存在と時間」においてマイナスイメージの漂う気分(特に不安)について言及しました(他の著作で退屈が大いに言及されたことがあります)。プラスイメージの情感は意識的に取り上げられませんでした。死の分析とそれに続く死への決意という議論と合わないからです。 また、共感という言葉はたしか「存在と時間」には登場しなかったような気がします。ハイデッガーが空間の議論をできるだけ抑えようとしたからです。彼にとっては、空間より時間の方がはるかに大事な問題だったからです(死の分析とそれに続く死への決意という議論にとって必要だからです)。 字数の制約があるので残りはお礼の方に回します。

  • Nakay702
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回答No.1

以下のとおり、2つに分けてお答えします。 (その1) @派生名詞Aがof Bに後続されて名詞句を作るときパターンは3つあります。パターン1(以後P 1とします)-- the arrival of passengers パターン2(以後P 2とします)-- the importance of being honesty パターン3(以後P 3とします)-- the protection of nature どのパターンにもAにtheがつきます。/名詞Aがof Bが名詞句を作って文中で言い表される時、Aにtheがつくことはdefault useだと言えると思います。(…)問題は表題に挙げたように protection of natureというふうにtheがつかないケースがあることです。これまで二桁のネイティブに意見を求めてきましたが、文法違反だから使わない方がよいと回答した方が結構いました。問題なく使えるとした人と同じくらいの数でした。果たしてこの名詞句がgrammatically wrongなのかどうかについて意見を聞かせて頂ければありがたいです。 ⇒3つのパターン、見事な好例ですね。焦点を絞るとすれば、「限定を表す冠詞theの存否に関する問題」ということになりますか。(the) protection of natureの「theをつけるべきか否か」という問題に収斂しそうですが、関連して「どういう場合にtheが付けられるのか」、「どういう場合にtheが落ちるのか」、そして「それはなぜか」などですね。 (あとで、「外堀」からこれを考えてみることにします。) @P1のthe arrival of passengersにおいてof passengersの限定が意識されずに、単に「客の到着」を述べただけだとしたらtheがつくはずがありません。それ以外にtheがつくとしたら、the arrival of passengersの内部構造が持つ統語的機能にその理由を求めるしかありません。the arrival of passengersはPassengers arrived / arrive / will arrive. という文を名詞句に転換したものです。これは一つの出来事または事実を述べています。一般に何かの出来事や事実はそれがどのようなものであっても絶対に一つに決まります。特定の出来事または事実です。よってarrival of passengersにtheがつくのは当然と言えます。/同じことがp2にも言えます。the importance of being honestyはBeing honesty is important.を簡略化したものです。これも事実を表しているのでimportance of being honestyにはtheがつきます。 ⇒この部分、お説のとおりと思います。何ら異論はありません。すべて賛同申しあげます。 @the protection of natureはprotect natureという動詞句を簡略化したものだと想定されますが、動作主が明示されていないので文としての構造を持っていません。ということは事実や出来事の表現ではないということです。「自然を保護する」というカテゴリー的行為だと考えられます。(この文を受動文に変換すれば動作主、つまり主語が確保されるので出来事を表します。たとえば、the protection of nature by the governments of developed countriesとすればtheがつくはずです。) /そうした観点から言うと、protection of natureにはtheをつけることができないことになります。the protection of natureにtheがつくのはof natureによる限定による場合だけということになります。ところで、the arrival of passengersはof passengersによる限定を意識することによってtheがつく場合と、そうした意識を持たずに、単に出来事の表現であるためにtheがつく場合があることになります。the importance of being honestyも同様です。the protection of natureの場合は、of natureによる限定によってのみtheがつくと言えるはずです。/the のつかないprotection of natureが出来事を表さないのであれば、「自然を保護すること」という行為を表すことになります。つまり、出来事ではなく概念を表しています。ということは原形(概念を表す)を使ったprotecting nature / to protect natureと内容的に同じものだと言えます。よって、P: The President says that protection of nature is essential. という文はおかしくないと言えます。少なくとも文法的な誤りを見て取るのはやりすぎという気がします。 ⇒お説は、実に論理的で、全面的に納得できますので、以下は反論ではありません。  別の観点、周辺的なことから少し追加させていただきます。「外堀」(その1)です。言語の基本的特徴の一つに「分節」というのがあります。多くの人がヘビを見ると気持ちが悪いと感じます。どこまでが首でどこからが胴か分からないからです。出来事の情景として現実の事柄は事実上連続していますが、それを言語では分節してしか表現できない、言語事実としては不連続となります。つまり、ヘビを見ると気持ち悪いと感じるのは、ヘビのせいでなく言葉のせいなのです!「分節」できないと気持ちが悪いのです。ロボットは、ずん胴のほうがずっと安定するし制作費も安いはずなのですが、なぜか胴体と顔(と思しき部分)の間にくびれがないと親しみが持てない、というのが一般的な感覚です。それで、製作者はアシモのような形にしたがるのでしょう。  前置きが長くなりましたが、お書きのP: The President says that protection of nature is essential.では、the protectionとすべきか否か。人によって、地域によって違うように思います。しかし、おそらく、どちらも正しい、少なくとも、どちらも間違いとは言えないような気がします。ある人は、「ヘビのこの部分は首だ」/「protection にtheがつく」と言うでしょう。また、別の人は「その部分は胴だ」/「theはつかない」と言うでしょう。そして、どちらの人にとっても、それなりの、自前の理由があるでしょう。「その現象・状況をどのように収めるか」ということが、実は、この問題の眼目と言えるかも知れませんね。