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昭和初期の教師について
私(23)の母方の曾祖父は教師をしていたそうです。 祖父は私が幼い頃に亡くなったので、詳しいことは分からず、母が知る限りを聞いたのですが、 曾祖父は大阪から東京へ出ていき(本籍はそのまま)、東京の今の大田区の女性(曾祖母)と結婚し、子どもを5人授かった。(二人は小さい間に亡くなった) 曾祖父は、教師をしながら趣味?で画家もしていて、教師だったからか祖父が小さい頃はずっと転勤続きだった。(岡山とかに転勤したそう) 的な感じです。 記憶ぼんやりですが、確かに祖父は関西弁とはまた違う鈍りが入ってることが多かった記憶があります。 昭和初期辺りの学校の先生は全国レベルで転勤することって多かったのでしょうか?
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- staratras
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No.3です。少し補足しますと、現在の公立高校の教員採用は各都道府県(一部は市)ごとに行われ、異動もその都道府県内(以下県と略)だけであり、本人が希望して他の県の採用試験を受け直すなどの特別な事情がなければ、県を超えた異動はありません。 しかし、戦前の旧制中学校など中等学校の教諭の異動はそうではなく、特にNo.3で挙げた福田氏のような高等師範学校や帝国大学の卒業生に関しては、県を超えた異動がよくありました。ご質問を拝見して、曽祖父の方は当時「図画教師」と呼ばれた美術の先生をされていた可能性もあると感じましたが、図画教師もこれを養成する学校・学科が限られていたこともあり、県を超えた異動があったようです。 また戦前の義務教育は小学校までで、中等学校(男子の中学校、女子の高等女学校、師範学校など)進学率は昭和5年で男子21.1%、女子15.5%に過ぎませんでした。同年齢の人口に占める比率で言えば、現在の大学進学率の半分以下です。 こうしたことも手伝って旧制の中学校・高等女学校の先生の社会的地位は高く、昭和2年の東京朝日新聞の縮刷版を見ると、全国版に兵庫県や福岡県・北海道など地方の中学校と高等女学校の学校長の人事が掲載されていました。現在地方版はともかく新聞の全国版に都道府県立高校の校長人事の定型記事が掲載されることなどありません。(特別な人物が校長になったという個別の記事はあり得ますが)この記事では前職が「公立学校長」となっていて県をまたがる異動かどうかはわかりませんでしたが、全国的な関心事だったことは確かでしょう。
- staratras
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実例を見てみます。大河ドラマ「いだてん」にも登場した福田源蔵氏の場合です。福田氏は明治36年に熊本師範学校を卒業後、東京高等師範学校で学び、その後一時はこの母校で教えていて、金栗四三氏との交流もこのときのことです。福田氏は昭和2年から19年まで県立熊本中学校の校長を務めて名校長と言われ、現在その後身である県立熊本高校には銅像(胸像)が立っていますが、熊本中学校の校長に就任する以前には新潟県立長岡中学校の校長を務めていました。 回答者はたまたま明治36年の熊本師範学校の卒業生が「卒業三十周年」を記念して昭和8年に発行した文集を持っています(正確には京都の古本市で、この文集に旧知の福田氏が出ているのを発見して購入したのです)が、卒業30年当時「熊本中学校校長」だった同氏は「二十年記念の頃は新潟県の高田中学校に奉職中であったが、程なく長岡中学に転じ、昭和2年に帰郷の命を受け爾来、諸兄のお世話になっている」と文集に書いています。またほかの資料によれば、福田氏は新潟県内の旧制中学校のほか、佐賀師範学校の教諭を務めていた時代もあったようです。ですから戦前(昭和の初め)に県を越えた教員(校長)の異動は実際にあったことです。 特に戦前の高等師範学校は数が少なかったため、卒業生はエリート教員として全国の師範学校や旧制中学校の教師に「引く手あまた」だったであろうと思います。(余談ですが、回答者が中学生(もちろん新制)だった1960年代末の九州の公立中学校でも、戦前に東京高等師範学校を卒業した先生は、そのことを誇りにしていました。) なおこの文集に福田氏以外の卒業生が書いている文章を読むと、当然のことながら師範学校卒業後当初は熊本県内の学校に勤めた人が大半のようです。 ただ巻末の「同級生名簿」を見ると、勤務先とみられる校名は熊本県内の学校が13校(内わけは小学校5、中学校・高等女学校6、そのほか(県立盲唖学校)2なのに対し、県外の学校が7校(内わけは石川・福岡・鹿児島の各県が各1、朝鮮2、台湾1、満州1)あります。 一つの師範学校の一つの学年の例ではありますが、現在同様教員を養成する学校の卒業生は地元の学校に就職する者が多かったが、昭和の初めごろには外地(朝鮮・台湾・満州)で教職に就いている卒業生も珍しくはなく、また福田氏のように「高等師範学校に進学したあと県を越えて転勤する教師もいた」とは言えそうです。
昭和初期辺りの学校の先生は全国レベルで転勤することって多かったのでしょうか?……多くなかったと思います。現在でも、ほとんどありません。採用制度の問題もありますし、転勤させるには、お役所も、本人もお金がかかりますし、ましてや昭和初期辺りであれば、転勤というのは大変な作業です。現在でも「引っ越し貧乏」という言葉がありますよ。 それに、現在の先生方も、小学校から、大学まで含めて、ほとんど土着というか、転勤したくない先生方が多いと想像します。昭和初期辺りの学校の先生で「全国レベル」の転勤なんて、ほとんど想像もできません。 ただ、明治時代の夏目漱石だって、彼は、確か東大卒ではないかと思うのですが、「坊っちゃん」という小説で有名ですが、不確かですが、教師として東京から、四国だとか、九州だとか???遠いところに赴任しているはずです。昔は、現代に比べると、志とか、能力を評価してくれる時代でなかったかなぁという気がします。 ご質問の文章から、想像できるのは、昭和初期に、「教師」として、転勤されていたのであれば、相当優秀なお方か、何らかの志を持っておられたお方か、あるいは個性を大切にされた、あるいは評価されていたお方ではないか、という気がします。
- SPS700
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転勤の範囲ですが、その方がどこの師範学校をお出になったか、どこの道府県の(その頃は「都」はありません)教員免許状をお持ちだったかで決まると思います。 下記などを調べましたが、お求めの情報はありませんでした。 https://home.hiroshima-u.ac.jp/cice/wp-content/uploads/2015/01/17-1-2.pdf
お礼
ありがとうございます。いえば、昭和初期でも今の学校教諭と同じ(例えば、大阪で取ったら大阪みたいな)ってことですかね?