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昭和の初めのヨーロッパ~日本航路

NHKの前畑ガンバレを見ました(水泳金メダリスト)。当時(昭和11年)、ベルリンオリンピックのあったドイツなどのヨーロッパから日本までは船で40~50日かかったそうですが、彼らは日中、どのようにして過ごしていたと思われるでしょうか? それと、当時は燃料はすでに重油だったのでしょうか?

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  • oska2
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回答No.2

>ドイツなどのヨーロッパから日本までは船で40~50日かかったそうです その通りですね。 当時は、客船での移動が一般的でした。 洋行って言葉もありますよね。^^; >彼らは日中、どのようにして過ごしていたと思われるでしょうか? 他にも回答がありますが・・・。 映画・ダンスパーティー・食事・生演奏などです。 武漢ウイルスを運んできた豪華客船と、同じですね。 当時は、判断力を持った責任感が強い船長も社交的ですし、船医もしっかりしています。 外国航路の船乗りは、花形職業だったのです。 これが、残念ながらゴールデンプリンセス号には居なかった。 1月25日に香港で下船した乗客がウイルス感染していても、横浜入港後も船内で(何事も無かった様に)船長主催のさよならパーティーを開催していました。 未だに、船長も船医も「雲隠れ状態」です。 もしかすると、既に感染していて下船しているかも? >当時は燃料はすでに重油だったのでしょうか? 重油です。 余談ですが・・・。 横浜港に係留している「日本郵船・氷川丸」は(太平洋航路の)貨客船ですが、「当時の外国航路客船の趣を残している貴重な船」です。 興味があれば、一度見る事をお勧めします。

tahhzan
質問者

お礼

氷川丸は、そんなに古かったんですか。そうですか。機会があれば見たいと思います。それと、結構、豪華だったんですね。なるほど。参考になりました。ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • f272
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回答No.1

日中は退屈しないようにプール,映画館などの施設もありました。もちろん一番の楽しみは食事ですが,日本を出港してシンガポールくらいまでには日本の食材はなくなってしまい,その後は養殖中心となります。船の中を見学するツアーもあります。また途中に寄港するところでは上陸して市内見物なども楽しみになっています。 重油を燃料とした船は明治末期に登場し,大正時代にどんどん増えていきました。昭和初期であれば重油が燃料ですね。

tahhzan
質問者

お礼

プールや映画館が、すでに船中にあったんですね。いやはや、驚きです。それに、すでに重油が使われていたんですね。日露戦争の絵を見ると、石炭でも炊いて居るような煙が上っていますが、それから間もなく重油に変わっていったんですね。なるほど。勉強になりました。ありがとうございました。