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江戸参府について

江戸参府ルートが長崎から江戸に行く道も帰る道もほぼ同じ、なぜ唯一な旅行なのに新幹線(大阪ー東京)経路と同じルートを利用するのでしょうか? 長野、金沢、福井 日本海側の方にもいくことが可能なのではないでしょうか?

みんなの回答

  • cse_ri3
  • ベストアンサー率25% (165/640)
回答No.2

No.1さんの回答もごもっともですが、特に参勤交代する藩側の事情として、経費の節約もあったかと思います。 参勤交代には金がかかりました。特に江戸初期の頃は、幕府が諸藩の財政を悪化させる政策としていたほどです。 そのため、諸藩の側は、なるべく短期間で参勤交代し、経費を削ろうとしたことでしょう。 その結果、平地が多くて行き来しやすい、東海道重視になったかと思います。

  • kifimi
  • ベストアンサー率72% (425/586)
回答No.1

阿蘭陀カピタンの江戸参府は、自由旅行じゃありませんからね。幕府の厳重な監視下の元で実施された、重要な外交行事です。 なぜ新幹線(大阪-東京)経路と同じルートかと言えば、東海道新幹線が、旧・東海道(京都~江戸)とだいたい重なるルートを走っているからですよ。 東海道は、江戸時代の交通の大動脈です。一番メジャーなルートだったんです。もちろん、京都からは中山道で江戸に出るルートもありますが、険しい峠などの難所が多く、安全最優先の江戸参府には向かないルートと判断されたのでしょう。 江戸参府は、最初の頃は長崎~下関間で海路でしたが、危険だと言うことで陸路に変更になりました。日本海や太平洋などの外洋は、天候が良くても波が高く、荒天になれば命がけです。内海で穏やかな瀬戸内海航路とはまったく条件が異なります。 安全第一でこのルートに定まった、と考えれば良いのではないでしょうか。 また、ルートが固定化しているのは、天候や街道の状態による安全面の他に、警備や宿泊などの問題があると思います。東海道のように整備されていて、参勤交代に使われる大きな街道には、大きな宿場町と、カピタン一行の宿泊に適した宿(本陣など)があります。 瀑布は江戸参府一行と一般人の接触を固く禁じていましたから、警備体制も厳しいものだったでしょう。ルートが固定化すれば、その準備も滞りなくできます。 毎回ルートを変更するのだと、宿泊地とその手配、警備計画を、位置から考え直さなければなりません。数年に一度であっても、前例があれば対応はスムーズにできますが、初めてとなると、大変です。 現代でも、皇室やVIPがよく訪れる京都市の警察は、公安警備は非常に慣れていますが、滅多に来ない市町村では、他から援軍を募るなどして準備が大変になります。

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