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お坊さんに言われた言葉で傷ついたことはありますか?
ずっと二人で暮らしてきた身内が亡くなりました。 亡くなってから葬儀が終わるまでずっと泣き通しで、今もふとしたときに涙が止まらなくなります。 先日、中陰の最初の法要を行ったのですが、 ・読経前の最初の世間話で既に涙が止まらない私に 『泣くような話はしてないんですが』 ・読経後の会話で、遺骨を枕元に置いて寝ていることを話すと 『骨は故人ではない、あくまで体の一部である、だから執着しないほうがいい』 ・上記に伴って、『今、遺骨でアクセがはやっていますが、最終的に処分に困るだけ 故人のことを考えるなら作らないほうがいい』 (実はアクセは検討中でした。生前、旅行計画を立てていたのですが、結局行けずじまいだったので、せめて骨だけでも連れて行ってあげたい、と思ってのことでした) ※『』内はすべてお坊さんの言葉です。 とすべて笑いながらお話されました。 一部正論であることは理解していますが、葬儀からまだ日も経っておらず、葬儀中にずっと泣き通していた私を見ていたはずなのに(別の方に「お坊さんが泣いてる私を気にしていましたよ」と教えていただいていました)、私にとっては、自身の悲しみを軽んじられ、心ない言葉で傷つけられたようで胸が痛いです。 子供の頃にみていたお坊さんは、別のお寺ですが、とても尊敬のできる優しい方でしたので、“お坊さん”という存在に初めて傷つけられ、とても動揺しています。 正直、今後の法要も気が重いです。 お坊さんに言われた言葉で傷つけられたと思った経験はありますか? また、もし本職の方(葬儀に関わる仕事の方)がみえましたら、法要の際に親族と話すときはどんな気持ちでお話されるのでしょう? 私としては、言葉自体もさることながら、“笑顔”でお話されたことが胸に蟠りを残しています。 これからも関わりのあるお寺との出来事なので、身内に話すわけにもいかず、 こちらで質問いたしました。 よろしくお願いします。
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- zabusakura
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傷つくとは違いますが、「この人、解ってないな。」とは思いました。 嫁姑問題で、いい加減、仲直りをして・・・とかって (恨みは捨てて・・・とか)見当違いも甚だしい。 もう少し、人間を見て、知りましょうって思いました。 宗教によるけども、亡くなったら皆、極楽に行けるから、めでたいとか 病気や事故で亡くなったら、もう苦しまなくていいとか 亡くなったことで、お釈迦様のお弟子さんになれるから喜ぶべきこととか その他もろもろ・・・だから傷つくことでは、ないと思うけど 骨は分骨もあまり宜しくないって、どの宗教も言うと思うけども・・・ 火葬場では全部の骨を骨壺に入れて、さしあげて下さいとも言われるし、 故人目線で考えたら、骨が全部、揃ってないのは、どうなんだろうね? 骨を持ち歩くのは、どこの宗教でも、良くないことってされてると思うけど 悪いことが起きるとか・・・ 写真でいいんじゃないの?写真持って旅行すれば。 故人にしてみたら、見世物にされてる気がすると 思う。家族が、見世物にするっていうのは、ちょっと引く。
- cactus48
- ベストアンサー率43% (4480/10310)
ココで僧侶の名と寺名を書いちゃなさいよ。そんな僧侶は僧侶を する資格はありません。 なんて泣いているのか、普通なら察しはつくはずです。その事が 分からないような僧侶は僧侶をする資格はありません。 遺骨を枕元に置いて寝るのは、それは故人と別れたくない気持ち が強いからです。その事を察し出来ない僧侶は僧侶としては失格 です。単に覚えた知識を自慢気のように話しているだけです。 僧侶ってそんな事は言っては駄目なんです。それさえ分からない 僧侶とは、今後は付き合いを止められ、現在と同じ宗教の御寺に 鞍替えされた方が良いと思います。
- fujic-1990
- ベストアンサー率55% (4505/8062)
> お坊さんに言われた言葉で傷ついたことはありますか? 傷ついたと自覚はしていませんが、非常に腹を立てて、いまだに引きずっているというか、宗教家に対する見方を変えさせた(ある意味、私の人生を変えた)ことならありますね。 高校の修学旅行で唐招提寺へ行った時のこと、高校生の私より5から10年くらい年上の坊主が説明をしているときに、私は天井にひかれて上を見ていたのです。 すると「いい年をしてバカみたいに口をあけてんじゃねえよ」と言われたのです。え?と思って坊主を見たら、まっすぐ私を見ていました。その後しばらくの間、彼は私と目を合わせ続けたのです。彼は私に言ったのです。 坊主がそういうことを、そういう言葉遣いで言うか、と思いましたね。私が期待していた宗教家とは違ったんです。ああ、坊主もタダの人間だなと思いました。腹も立てれば、屁もたれる。坊主だから尊敬する、敬意を払うべしというのは間違いだ。人によるのだ。未だにその思いを引きずっています。 彼(ヤツ)も、今頃は大層な袈裟でも身につけて、偉そうなことをしゃべっているんだろうな、という思いが抜けません。 なので、このサイトにもいますが、宗教めいたことを質問して、実はえらそうに、啓蒙しようとするような人物を見ると、虫唾が走ります。なにをえらそうに、と。 高校生ですよ。天井に感動して、我を忘れて見上げていたら、口は開くものじゃないですか? 自分の説明と違う所を見ていたので腹を立てたのかも知れませんが、坊主には一般の凡愚とは違う対応があってしかるべきだった、とは今も思っています。生涯、唐招提寺には行かないでしょう。 やっぱり、傷ついたのかな?
- kappa1zoku
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あなたの悲しみを否定をするつもりはないのですが、違う見方もあると考えて下さい。 「執着をしないように」と諭された話ですが、仏教の教えにあるものです。 この世で我々が苦しむのは物事に執着する心があるからです。 仏教で教える悟りは、その執着の心から自由になることです。 以前、読んだ本に出てきた詩人の話をします。 その詩人には幼い女の子がいました。 しかし、十歳になる前に病気で亡くなったのです。 詩人はそのことを哀しみ、それからは泣いて過ごしていました。 とある夜の夢に、亡くなった小さな娘が出て来たそうです。 その女の子は、泣いて暮らしている父親にこう懇願します。 「お父様がいつもいつも泣いているので、私はもう天国に行きたいのに行けません。お父様の涙が私の羽を濡らして重たいのです。どうかもう泣かないで下さい」と言っていたということです。 それから、その詩人は亡くなった娘のために泣くことをやめたそうです。 あなたの話を読んで上記の話を思い出しました。
- marukajiri
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大切な方を亡くされ、滅入っている時に、自分の考えを否定されるようなことを言われて傷つけられたと思われているようですが、お互いに誤解があったようです。 そのお坊さんは、次のようなことを言いたかったのだと思います。 肌身離さず故人の骨を持ち歩き、骨に執着し、故人に執着し過ぎると、その思いは重いしがらみとなり、故人の身体には重い枷(かせ)となります。極楽浄土へと旅立たなければならない故人を、重い鎖で縛りつけこの世にとどめてしまうことになるのです。当然のことながら、故人は重く苦しい思いに縛られ、苦しみもがき、楽になって成仏したい、極楽に行きたいと思うのですが、生きている人のエネルギーや想念は凄まじく、生きている人が悲しみを深めれば深めるだけ、故人のことを思って嘆けば嘆くだけ、故人にはずっしりとした重りとなって、成仏を妨げてしまうのです。この場合、故人にとっては、地獄の苦しみが身内によってもたらされることになります。 そして同時にそれは、あなた自身をも苦しめることになります。大切な身内を亡くし、毎日故人のことを思い、嘆き悲しみ、夢枕に立った故人が地獄の苦しみにもがいている姿を見ることになるかもしれないのですから。 この世の科学では明らかになってはいませんが、あの世はこの世と裏表であり、密接に結びついているのです。亡くなられた方は、ある程度の期間この世をさまよいます。一般的には四十九日といわれていますので、四十九日の法要があるのはこのためです。 この猶予期間に、亡くなられた方は、この世に対する執着を捨てて、身軽になって上の方にある極楽浄土へと旅立って行くのです。逆に言うと、極楽浄土は心が風船のように軽くならないと行けないのです。 ところが、故人の家族が、いつまでも故人に執着し「あなた、どうして死んでしまったの?一生一緒にいようって言ったじゃない。旅行にも一緒に行く約束したじゃない。私のことを一人にしていくなんてひどいわ」などと、故人の後ろから追いすがるようなことをしていては、故人もそれを放ってはおけないのが人情というものです。あとに残された人のことを思うのは当然だと思います。 しかし、このお互いの思いが、故人には重い思いになるのです。本当に故人のことを思うなら、そして故人の成仏を心から願うなら、故人に対してそれなりの思いを向けるべきなのです。それは故人に対する感謝の念だったり、敬意の念だと思います。 お坊さんの話に戻りますが、故人の骨に執着するあなたを見たお坊さんは、少なくともこのままでは故人が成仏できないと思ったわけです。坊主の仕事は少なくとも生きている人には説法をして間違ったことは方便を使ってでも正しい方へ導くことなので、骨をアクセサリーにするのはやめた方がいいという話をされたのだと思います。かなり言葉足らずの面があったようですが。(笑) 骨でアクセサリーを作ることを、私は特に否定はしませんが、そこに故人はいませんので、生きている人の自己満足でしかないのです。その骨のアクセサリーを見るたびに嘆き悲しむようなら故人の成仏の妨げにしかならないので、やめておいた方がいいということになります。と、お坊さんは言いたかったのだと思います。 お坊さんの言葉の説明として書いていますが、かなり私自身の主観が入っていますので、実際のところはどうかわかりませんよ。(笑)
辛いときには、同じ気持ちになって欲しい人と、解決策を示して欲しい人がいます あなたは前者で、このお坊さんは後者なんです どちらも間違っていません このお坊さんはたくさんの悲しむ人を見てきた中で、このような態度をとることにしているのでしょう それが残された人に必要なことだとわかっているからです あなたが残りの人生で、また笑える日が来るように、お坊様は導きをしてくださっています そんなことがわからないくらい、あなたは悲しみのどん底にいるのです 亡くなられた方はいつまでもあなたに悲しんでいて欲しいと思いますか? 今は一生懸命生きるのが、残された人の務めです
- vaf326
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傷ついたことはありません。 遺骨でアクセサリーなんて、私は失礼に感じます。 宗派によって考え方は異なるとは思われますが、個人の考え方としては 遺骨はお墓に入れるべきものと考えます。 旅行に連れて行ってあげたいのでしたら、位牌と同行でよいのではないでしょうか。 私も先月四十九日を終えて納骨致しました。 それで一区切りです。 私はお寺との関りは多い方だと思いますが、いろんな住職の方ががいらっしゃるように、門徒であるお寺の方から伺っています。 そのため、お寺をかえられた方もいらっしゃいます。 文章を読ませて頂いた限りでは、お寺の方も悪気があって言われているような印象は受けません。むしろ質問者様を思って言われたように思えます。
- SPS700
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1。お坊さんに言われた言葉で傷つけられたと思った経験はありますか? ありません。 2。また、もし本職の方(葬儀に関わる仕事の方)がみえましたら、法要の際に親族と話すときはどんな気持ちでお話されるのでしょう? 本職ではありませんが、坊さんも職業で、しかも仏教が顔を出すのは葬式だけという特殊な職業です。 いくら職業でも、カニに当たって下痢の尻を抑えた『幸福の黄色いハンカチ』の武田鉄矢のように「笑うな」というのは酷でしょう。 3。私としては、言葉自体もさることながら、“笑顔”でお話されたことが胸に蟠りを残しています。 では、嘘泣きで飯を食っている、泣き女を雇えばいいと思います。 https://plaza.rakuten.co.jp/watam7/diary/200509160000/