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「雨二モマケズ」は詩ですか?
「雨二モマケズ」は詩に分類してよいのでしょか 詩の定義に関わる疑問ですが、私はこれは詩ではないと思います。 これが詩であるなら、万葉集、古今集、和歌、俳句、美妙、藤村、朔太郎、戦後詩、と断絶、継続を繰り返した日本の詩の流れを否定するような気がします 皆様のご意見をお聞かせください。 ー厳重な但し書きー 私は「雨二モマケズ」を読むに値しないとは決して言ってはおりません。 大きく、文学(文字による表現)という括りでいえば、日本語の文学の最上級のものであり、源氏物語に勝るとも劣りはすまいと思っております あくまで、詩の定義、分類に関する質問です
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- staratras
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それは「質問者さまがお考えになる詩ではない」(質問者様の詩の定義には該当しない)ということで、他の人が、それについて論評できることではないでしょう。回答者は「雨ニモマケズ」も詩だと考えています。 要は「万人が一致して認める詩の定義はない」ということに尽きるかと思います。もともと日本では「詩」といえば、「漢詩」のことでしたが、これとは別に和歌や俳諧といった固有の短詩形も社会の隅々まで普及していたところに、明治以降西洋の詩も広く知られるようになっていわゆる「新体詩」が生まれ、さらに口語詩や現代詩が作られるようになって、人々が「詩」として考えているものの範囲が極めて広くなっています。あえてこれに異を唱えるというか、詩の範囲をことさら狭く考える必要はないだろうというのが回答者の私見です。 世の中の「詩」の文学性や表現方法はさまざまですが、別に主流の大河や主脈の高峰だけが「詩」なのではないと考えます。もちろん社会には様々な考え方が存在することは承知していますが…。
私は詩だと思ってます。 本人がどういうつもりでカイたかは解りませんが。 詩を定義とか、流れとかそういう物に縛る必要はないと思う。 俳句や短歌じゃないし自由に表現したのでいいと思う。 型にはめた文章しか詩と認められないなんて心の表現を 硬く制限している気がする。
お礼
回答にお礼申し上げます >型にはめた文章しか詩と認められない・・・・・・ 自由詩(自由律詩)でも定型詩でも、一つの作品には、その作品だけのカタチを持つことが必要条件です。「型」と「形」あるいは、「フォーム」「スタイル」「シェイプ」の違いといってもいいのですが、「雨ニモマケズ」にはそれが感じられないのです。(説明はできそうにないのですが)
芸術とは作り手と受け手が気に入るかどうかだけのことで、正しいか間違っているかという観点が必要ありません。みごとな乳首だ蚊がいるが俳句ではないと主張することは自由ですが、その議論は当該俳句の芸術性に影響しません。芸術は分類するためのものではなく鑑賞するためのものです。用件を伝えることを目的とせず、それを提示することで読み手にある感情を起こさせることを目的とした文字列が広義の詩ですが、詩であることに価値があるわけではなく文字列そのものに価値が有ります。ましてや過去の詩に似ているかどうかは無意味です。俳句短歌と言っても子規をはじめ何度かの変革を経験しており同じではありません。子規のは俳句ではないと言う人もいるのです。言うこともまた自由ですが。アメニモマケズそのものは賢治の理想を詠っておらずむしろやけくそで書いた(グスコーブドリの理想とは言ってることが真逆です)ものですが、鑑賞して気にいる人が居る限りあれは詩です。
お礼
回答にお礼申し上げます >鑑賞して気にいる人が居る限りあれは詩です。 そう言ってしまえば、そのとうりで話は終わりですね
- sz120
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宮沢賢治が斉藤宗次朗をモデルに書いた詩。 宮沢賢治名言集ともいわれる。 宮沢賢治死後に見つかる。
お礼
回答にお礼申し上げます 「雨ニモマケズ」の由来は、今回の質問ではないので・・・ 言外の意は・・・・・・・
お礼
回答にお礼申し上げます >別に主流の大河や主脈の高峰だけが「詩」なのではない そのとうりです。 古今東西の名詩、傑作詩とよばれるものに通底しいるなにかが「雨ニモマケズ」には欠けていると感じての質問でしたが、「ナンデモアリ」という最終兵器が答えなのでしょうね