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日本は浄土真宗が一番多かったが東西に分裂して現在は

日本は浄土真宗が一番多かったが東西に分裂して現在は漕洞宗が日本最大宗派になっているそうです。 浄土真宗って東西にどう宗派が別れたのですか? 東の浄土真宗○○派と西の浄土真宗▲▲派ってことですか? でもみんな浄土真宗は浄土真宗って言ってますよね。 自分がどちらの派閥の浄土真宗か檀家も分かってなかったりして。 東の浄土真宗の本家はどこですか? 西の浄土真宗の本家はどこですか? いつなんで分裂したのですか?

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  • fujic-1990
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回答No.5

> 浄土真宗って東西にどう宗派が別れたのですか?  まず、浄土真宗は東西だけではなく、仏光寺派や高田派など10位に分かれています。  分かれかたにルールはありません。が、感じとしては、親鸞聖人の血脈(大谷家)を大切にして、高い地位(法主だったかな?)に置くべきだというのが、大谷派に付いたと思っています。  その大谷派の考えは、昭和後期に、5人の役員と大谷家が対立して崩れましたので、いまはお西もお東も同じような体制じゃないかと思います。 > 東の浄土真宗○○派と西の浄土真宗▲▲派ってことですか?  通常は、「浄土真宗本願寺派」、「浄土真宗大谷派」、などと呼びますが、届け出られている宗教団体として「浄土真宗」を名乗っているのは「本願寺派」だけ。大谷派は、宗教団体としては「真宗大谷派」が正しい名称です。  ほかも、「真宗○○派」だったと思います。 > でもみんな浄土真宗は浄土真宗って言ってますよね。  阿弥陀如来の「衆生を救うぞ」という決意(本願)にすがって西方浄土に転生しよう!という、親鸞聖人の教えに従おうとする「信仰のベース」は同じですから、浄土真宗は浄土真宗でしょう。 > 自分がどちらの派閥の浄土真宗か檀家も分かってなかったりして。  ほとんど同じなので、そうかもしれませんねぇ。でも、見る人が見れば分かります。  例えば本願寺派の仏壇は「一重の屋根」が付いていますが、大谷派の仏壇の屋根は二重になっています。  焼香の時のお香のくべ方も、本願寺派は1度だけくべますが、大谷派は2度くべます。ちなみに、お香自体は尊いものではないので、どちらの派でも、頂戴する作法はしません。実にアッサリとくべます。  お経の上げ方も違いますね。感じとしては、お西の方が、歌うように上手なお経を上げています。 > 東の浄土真宗の本家はどこですか?  「本家」ではなく、「本山」と言ってください。昔、お寺は山の奥にあったので、その習慣でお寺のことを「○○山××寺」と呼びます。  その宗派の元締めのお寺のことを「本山」とか「総本山」と呼びます。  東の浄土真宗=真宗大谷派の本山は「東本願寺」です。お西より広いです。規模は壮大。 > 西の浄土真宗の本家はどこですか?  西本願寺です。唐門は国宝になっています。庭園も国宝だったかな。歴史的な、文化的な価値は、お東に勝っています。 > いつなんで分裂したのですか?  信長との和解(大坂明け渡し)を是とする門徒と、非とする門徒の争いがあったのは事実ですが、若い頃一向宗(浄土真宗の別名)門徒と対立して危うく滅亡しかけた経験のある「徳川家康」が権力を握った後、浄土真宗門徒の再団結・反乱を恐れ、「分割して統治せよ」という、民衆支配の原則を実践するため、土地を与えて東本願寺の建立を許し、分裂させたのです。

auhuaweinova2
質問者

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その他の回答 (4)

回答No.4

曹洞宗は菅原天神に煽られて何年も嫌みを言われ続けたので 科くぁリタ君ないですね。 イライラします。

  • bunjii
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回答No.3

>東の浄土真宗○○派と西の浄土真宗▲▲派ってことですか? >でもみんな浄土真宗は浄土真宗って言ってますよね。 違うようです。 浄土真宗本願寺派(西本願寺)と真宗大谷派(東本願寺)のことではないですか? 双方とも親鸞聖人の教えを基にしています。 仏教は釈迦の教えを弟子たちが後世に伝えたもので、世代を重ねるうちに考え方や教え方の違いが出て宗派が幾つもに分かれたものと思います。 概略がWikipediaで調べると分かりますので仏教の歴史を紐解いてみると良いでしょう。

  • moldar
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回答No.2

日本は浄土真宗が一番多かったが東西に分裂して現在は漕洞宗が日本最大宗派になっているそうです。 何を基準として多いと言っているのですか? それがはっきりしないと、質問自体が意味を成しませんが。

  • 177019
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回答No.1

戦国時代、石山合戦で一向宗(本願寺派)の本山である石山本願寺(現在の大阪城にある場所にあった)が、武装解除に応じた事で一向宗は石山本願寺から追われます。秀吉の治世になり、本願寺派は京都の烏丸で本願寺の再興を許されます。その後、家康の宗教政策によって、当時、本願寺内で分裂状態が起きていた事を利用して教如を門主として本願寺のすぐ東の土地を与えられた本願寺を分立したのが真宗大谷派の始まりです。この本願寺の立地関係から西と東という通称が付けられるようになったのです。慶長7年、教如に七条烏丸に四町四方の土地を寄進され、東本願寺が分立する。このため准如が継承した七条堀川の本願寺は、西本願寺と呼ばれるようになる。本願寺の分立に伴い本願寺教団は東西に分裂することになるのです。