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関ヶ原の合戦後の論功行賞のその後。
論功行賞の結果、城を明け渡さねばならなくなった場合、明け渡しはうまくいったのでしょうか。 天下の大勢が決したのに武力で反抗するような家はなかったと思いますが、おめおめと明け渡してなるものかと、武力反抗した例があれば教えてください。 武力で反抗しないまでも、何か“いやがらせ”をした事例があれば教えてください。 例えば、城の井戸や排水溝に何か仕掛けたとか‐‐。 ただし、年貢米に関わるトラブルは除きます。 よろしくお願いします。
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>武力反抗した例があれば教えてください。 一例「浦戸一揆」など 参考URL 〇『慶長五年の戦争と戦後領国体制の創出/林千寿/ 熊本大学(文学)博士論文甲第27号/2009.9.25』 http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/handle/2298/22302 第一部 第三章 関ヶ原合戦後の戦い <32-44/99>(28-40頁) 小括 <44/99>(40頁) 上記の中の第三章「第三節 土佐浦戸の戦い(一一月三〇日~一二月五日)」 <42-44/99>(38-40頁) 「浦戸一揆」関連URL 〇高知市>組織でさがす>観光振興課>一領具足供養の碑 http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/ichiryougusoku.html 〇高知市立浦戸小学校>浦戸の歴史と伝説 1.浦戸一揆と一領具足 http://www.kochinet.ed.jp/urado-e/rekishi/1.html 〇『山内一豐公:高知開市由来/安藝喜代香/? 大正2 ?』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925655/30 <30-31/65>(44-47頁)「一豐公の入封」 〇『國史叢書 土佐物語二 四國軍記/大正3.9.15』 「土佐物語 卷第十九 山內一豐土佐國拜領幷浦戶一揆の事」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441713/62 <62-66/259>(105-112頁) 以上
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- shpfive
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石田三成不在の佐和山城が、かなりの抵抗をしています。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%92%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E >佐和山城の戦い 慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。江戸時代の『石田軍記』では佐和山城は炎上したとされてきたが、本丸や西の丸に散乱する瓦には焼失した痕跡が認められず、また落城の翌年には井伊直政がすぐに入城しているので、これらのことから落城というよりは開城に近いのではないかとする指摘もある[7]。 →他にもいくつか事例はあります。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%87%A6%E7%90%86 西軍の項、合戦後の動向というところを見てください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 Wiki「戦後処理」は参考になりました。 大きな衝突はないようですね。 小さないざこざはあったとしても、記録されていないのかも知れません。 黒田長政や直江兼続の“年貢持ち去り”を思いつつ、何か面白い話はないのかな、と思って質問したのですが、なさそうです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「浦戸一揆」こんな例があったのですか!! 家康が、論功行賞を順次発表したのは10月15日以降(wikiによる)ですから、この時期までに全国各地の領土争いはほとんど終わっていたはずです。 熊本大の論文でも「如水・清正の軍事行動を通して、九州西軍大名領国の一部は、事実上の没収地と化したわけであるが、重要なのは、それが家康の戦後処理に先立ち実現されたということである。」と。 そこで、「論功行賞の結果、城を明け渡さねばならなくなった場合」という条件で質問しました。 他に、西軍から東軍へ寝返りし、加増された大名が新領地へ国入りするとき、どんな様子だったのか、興味がありました。 例えば、稲葉貞通の豊後臼杵入りですが、これは如水が10月4日に開城させているということを、この論文で知りました。 また、加藤清正による肥後小西領の没収も興味ありでしたが、家康からの肥後一国領有の保証を待つまでもなく、武力行使で没収していたということも知りました。 よく分かりました。 「一領具足」のことは知りませんでした。 土佐の「郷士」という制度も理解できました。 質問した甲斐がありました。 ご教示に感謝申し上げます。