- 締切済み
スポーツってどこが紳士的なんですか?
少し哲学的?な質問になってしまいます。 スポーツのルールを突き詰めるとどちらかが不利にならないようにというのがルールの原点かと思います。そのように、どちらかが不利にならないようにすることから「紳士的」といった単語がよく使われるように感じます。 その点に疑問を感じて質問をしました。 私はルールの範囲の中で努力して敵より有利な立場になるようにすることは紳士的とは思えません。なぜならば、所詮ルールの穴をついてるに過ぎないと思っているためです。 例えば、野球でコルク入りのバッドを使い打った球の飛距離を稼ぐ場合はNGで、筋肉を鍛えて飛距離を稼ぐ場合はOKというのが納得いきません。 ルールだからと言ってしまえばそこまでですが、前述のとおりルール自体はどちらかが不利にならないように決められたものという理解です。筋肉を鍛えるのは敵より有利な立場(つまり敵を不利な立場)におくためのものです。つまり、ルールを決めた人が妥協できたかどうかという話だと思います。 なぜバッドを工夫するのは妥協できず筋力を鍛えるのは妥協できたのでしょうか... この様に納得がいっていません。 別の例をあげると、ドーピングを使い不健康に筋力をあげたときはNGで、プロテインで筋力をあげたときはOK。これも納得がいきません。 ■ 質問 スポーツは紳士的なものですか? ■ 欲しい回答 ・スポーツは紳士的である、Yes or No ・上記の回答となった理由 納得いってないためスポーツが非常につまらなく感じ、ルール無用のその場に持ち合わせた物で戦う喧嘩の方が面白いとも思います。 あとスポーツを面白がってる人は頭が悪いのかなーと思ってしまいます。もうさ、不利有利無く平等に勝負したいなら、じゃんけんで良いんじゃない? 納得のいく回答をお願いします。
- みんなの回答 (8)
- 専門家の回答
みんなの回答
- hue2011
- ベストアンサー率38% (2801/7250)
スポーツは紳士的なものです。 理由:ルールがあるからです。 ルール自体がいいか悪いかは別の話です。 これは三権分立で司法行政立法となるのと一緒です。 ルールというのは立法が作るのです。このときに妥当かそうでないか問題がないかを議論するわけです。そしてそうやってきまったルールに従って行政が行われるのです。それが守られているか監視するのが司法です。 いざルールがあったらそれを守ってやらなければいけないのが通常の社会ルールです。 それを守るというのは紳士的なことです。 ルール自体が適正か、誤っていないかどうか、は別の次元です。 それをいっしょの議論にまぜこぜにして、悪いルールだから守る必要はないというのは低レベル社会の行動であり、紳士的ではありません。 野球なんかで突然新しいルールが発生し、それだと面白くなくなるんじゃないの、みたいに議論するのは立法上のことであり、それを守らないで試合つまり行政をおこなったら無法地帯になり、紳士的にはなくなるのです。
- ichikawa2017
- ベストアンサー率54% (452/836)
No.5です 補足を頂戴しました。 スポーツというものを誤解されておられるようですので再度説明させて下さい >メディアや観客の心は勝ち負けをのみ重要視しているように思えます。 メディアのタイトルとしては最も分かり易いのが結果ですのでやむを得ません。 新聞などのスポーツ欄にはご興味がないようですが、必ず経過や選手のコメントが記載されています。 スポーツファンはこのコメントを重視しています。 >単に勝ち負けを競わないスポーツはスポーツなのでしょうか...? スポーツと言う言葉については各辞書などで以下のように定義されています。 広辞苑第六版:陸上競技、野球、テニス、水泳、ボートレースなどから登山、狩猟にいたるまで、遊戯・競争・肉体的鍛練の要素を含む身体運動の総称 大辞林第三版「余暇活動・競技・体力づくりとして行う身体運動。陸上競技・水泳・各種球技・スキー・スケート・登山などの総称 下記のサイトでは以下のように述べています。 参考 1-1 スポーツとは何か | スポーツの歴史 - 笹川スポーツ財団 www.ssf.or.jp/Default.aspx?TabId=1112 抜粋 フランスの学者ベルナール・ジレは著書『スポーツの歴史』でこう説く。「一つの運動をスポーツと認めるために、われわれは三つの要素、即ち、遊戯、闘争、およびはげしい肉体活動を要求する」 いずれにしましても勝敗云々ということは触れていません。 つまりスポーツというのは勝ち負けだけを競うものではないということです。 勝ち負けはあくまでも結果だということです。 >スポーツで勝つことで得られることはスポーツでしか得られないものなのでしょうか。 得られるもの次第ですが何が得られるとお考えでしょうか。 お考え次第かとおもいます。 >そのため勝ち負け以外のものを重要視すると勝つことや勝ちにこだわるために努力するといったことは無意味にならないでしょうか? スポーツの定義にもありますように肉体的鍛錬を必要としますのでそれ相当の努力は必要です。 第一線級の選手が「最後は自分との戦いだ」というのはこの鍛錬に耐えることがいかに難しいかということを物語っています。 勝ち負けにだけ拘って努力しているのではないということです。 >もし身体能力の限界に挑む事が目的や目標であれば勝負ではなく数値的に計測可能なもので勝負すべきです。 速さを競う競技では所要時間つまりタイムが使われています。 走り幅跳びや棒高跳びスキーのジャンプ競技などでは距離や高さを表示しています。 体操競技やフギアスケートなどではいかに失敗が少ないかあるいは演技が完璧かということを点数で表しています、 つまり数多くの競技でご指摘の計測可能な数値を勝敗の目安としています。 >讃える側が弱い現在のスポーツは本当に紳士的でしょうか? 紳士的というのはスポーツマンシップのことをを指しています。 参考 スポーツマンシップ - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/スポーツマンシップ 抜粋 スポーツマンシップは、スポーツをすること自体を楽しみとし、公正なプレーを尊重し、相手の選手に対する尊敬や賞賛、同じスポーツを競技する仲間としての意識をもって行われる活動であるという姿勢となって表される。 また様式化された礼節の発揮も、マナーという面から重視される傾向があり、選手同士が試合の前や後に挨拶を交わすのも、このスポーツマンシップの延長で見られる風習である。 観客や第三者が讃えるか否かは問題にはされていません。 >情報を取得する速度や特定の情報が及ぼす影響を考えることが主になるため情報取得の速度が遅いと不利になります。賭博すら不利有利なくすることが難しいと思います。 如何に多くの情報を迅速に手に入れるかということ自体が投資というものに参加する必要条件ではありませんでしょうか。 情報収集の段階でそれこそ勝敗が決まっているのではありませんでしょうか。 有利だとか不利だとか言うこと以前の話ではありませんでしょうか。 山勘だけに頼っているのは博打であって投資とはされないのではないのでしょうか。 最近はIT技術の発達でコンピューターによる高速取引が主体になっていて人間が太刀打ちできなくなっているのではありませんでしょうか。 証券業界も危機感をだいてコンピューターによる高速取引を規制しようとしているようです。 >スポーツも不利有利無くすることはできず、やはり紳士的ではないと思いました。 不利有利というお考えといいますか受け取りかたは先の回答で申し上げたルールに対する誤解かと思います。
元々スポーツってのは争いだったんですよ。 サッカーだって倒した敵の生首を蹴っ飛ばしたのが始まりだと聞きます。 本来は殺し合いで相手が死ぬまで戦うってのをルールを作って勝敗を決めるって事が「紳士的」なんですよ。 じゃんけんでも良いですが別にスポーツは勝敗を付ける事が目的ではないです。 サッカーで勝敗は最後にじゃんけんで決めるなんてルールなら競技自体の意味が無くなってしまいます。
- ichikawa2017
- ベストアンサー率54% (452/836)
>スポーツのルールを突き詰めるとどちらかが不利にならないようにというのがルールの原点かと思います。 全く違います。 スポーツにおけるルールというのはこの範囲内で競技をしなさいという枠決めです。 日本の相撲は土俵の中でおこなわれますが蒙古相撲では土俵に相当するものがありません。 この日本の相撲の土俵に相当するのがスポーツのルールです。 尚、蒙古相撲には土俵が無い代わりに別なルールがありますので誤解無きように願います。 スポーツというものを単に勝ち負けを競うものだと考えれておられるから御質問のような疑問になります。 >スポーツは紳士的なものですか? Yes 理由 スポーツとは何か紳士的とは何かという言葉の定義に関わります。 スポーツに関しては最大のイベントであるオリンピックの精神が分かり易いかと思います。 下記をご参照下さい 参考 オリンピックは参加することに意義がある:オリンピックの精神:心理学総合 ... www.n-seiryo.ac.jp/~usui/news2/olympics/sannka.html 抜粋 オリンピックの精神. 第4回ロンドンオリンピック(1908)の陸上競技では、アメリカと イギリスとの対立が絶え間なく起こり、両国民の感情のもつれは収拾できないほどに 悪化していました。 その時に行われた教会のミサで、 「このオリンピックで重要なことは、 勝利することより、むしろ参加することであろう」というメッセージが語られました。 この メッセージを、当時のIOC会長のクーベルタンがとりあげ、次のように述べました。 「勝つ ことではなく、参加することに意義があるとは、至言である。人生において重要なことは、 成功することではなく、努力することである。根本的なことは、征服したかどうかにあるのではなく、よく戦ったかどうかにある。 この他にスポーツには人の身体能力の限界に挑戦すると言う意味での「より速く、より高く、より強く(Citius・Altius・Fortius)」という意味合いも含んでいます。 先日行われたパラリンピックなどはこの身体能力の限界に挑戦するという意味では典型的なものでした。 つまり勝ち負けだけを競うのがスポーツではないということです。 紳士的の紳士というのは英語のgentlemanの訳語です。 語源等詳しくは下記をご参照下さい 参考 ジェントリ - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/ジェントリ 抜粋 イギリスにおいてジェントリが「ジェントルマン」として社会的尊厳を保ち続けていたことはよく知られているが、これは彼らが広大な土地を所有する地主(不労所得者)として単に贅沢を楽しみ収奪する存在だけではなく、(少なくとも建前の上では)地域社会に奉仕する名士として振るまい、かつそれを周囲に示し続けることで、彼らの支配こそが最上の者による支配なのだという印象を終始維持し続けられたためである。 それは、戦争があれば自ら率先して戦場に赴くことであったり、治安判事などの官職を無給で引き受けて地域の治安維持や収税に努めることであったり、慈善事業に積極的に取り組んで地域社会に貢献することであった。 これらの行いはノブレス・オブリージュ(仏: noblesse oblige ― 高貴なる者の義務)と呼ばれ、商業的に成功した新興の富裕者(成り上がり者)と異なり、ジェントリは自己の利益だけを顧みない(実際には無給の官職は不労所得者(つまり上流階級)以外の政治参加への道を閉ざしていたことはさておき)名士的な存在であるとの印象を周囲に与えた。 団体競技などでは個人の記録よりもチームに貢献することが求められます。 試合が終わった後はお互いの健闘を讃えます。 勝負に拘る選手は烈しく批難されます。 国際競技で優秀な成績を収めた選手は出身地や出身校の子供達に努力を続ける意義などを身をもって教えます。 >別の例をあげると、ドーピングを使い不健康に筋力をあげたときはNGで、プロテインで筋力をあげたときはOK。これも納得がいきません。 ドーピングに使われる薬物は選手の身体を損ねます。 ドーピングは選手自身が進んでやるケースよりも周囲から強要されるケースが大半です。 時には国家権力が介入してくることもあります。 このようなことから選手を保護するために禁止されています。 >ルール無用のその場に持ち合わせた物で戦う喧嘩の方が面白いとも思います。 これを庶民の娯楽として提供して死闘を見世物としたのがローマ時代の皇帝でした。 人間が死ぬまで戦う様子をみせたのが現在もローマに残るコロセウムです。 質問者さんは人の死を楽しむ趣味をおもちでしょうか。 >あとスポーツを面白がってる人は頭が悪いのかなーと思ってしまいます。 完全な誤解です。 >もうさ、不利有利無く平等に勝負したいなら、じゃんけんで良いんじゃない? 世の中にはじゃんけんのような生やさしいものではなく賭博というものがあります。 日本では公営のものとして競輪があります。 スポーツとしての自転車競技ではなく勝ち負けだけを競い選手は賞金をもらい観客はそれに金を賭けます。 スポーツの観戦に興味がないのであれば、競輪、競馬、競艇などがありますのでそちらをご覧下さい。
なんでもありだとつまらないから、ルールを作ります。 見る側は、ルール内で選手が試行錯誤して勝利に邁進する姿を楽しみます。 ルール無用なら、結局殺し合いに成るからです。 F1ならマキビシをまいてたのが、機銃になりミサイルになり、 ボクシングではキックが出だし、ラリアットをし、トップロープから ムーンサルトをしだします。 それはそれで楽しそうですが、それなら最初から核ミサイルで 相手を殺すとかまで発展してもおかしくない。 テレビゲームだって、決められたルール内で勝ったり、 ゲーム内ステータスを高めるのが楽しいのです。 格闘ゲームで決定ボタンを押した瞬間、じゃんけんがAIではじまり、 勝率50%で勝ててもつまらないでしょ? それならゲームを買う前にじゃんけんすらせずに お互い引き分けにしたほうがいい。 ともかく、基本的には明示された制約内で競い合うのが楽しいのです。
補足
回答ありがとうございます。 ルールを守ることが重要で紳士的...という意見に分類されるのでしょうか。(難しいですね) そして誰かが不利益になる度にルールが常に更新されつづけ、紳士的である事がより高みの紳士的なものに至ると。 ですがルールを決めてるのも所詮人間です。ルールを決めているときに同族や利害関係のある人を若干なりとも有利になるようなものにしたりとか有り得ると思います(またあったとも思います) そう考えると、スポーツは楽しいが紳士的では無いという考えに至りました。 うーん( ◞‸◟ ) もう少し悩みます。一旦失礼します。
- tzd78886
- ベストアンサー率15% (2590/17104)
少なくとも、テレビ中継されるようなスポーツは紳士的とは言い難いです。スポンサーの方ばかりを見ていて、結局は商業主義に染まっています。オリンピックなどはその典型で、欧米系の選手に有利なように頻繁にルールが変わるうえ、高い放送料が払われる地域が見やすい時間帯に競技が行われたりします。審判ですら公平とは言い難い状態で、もはやビジネスの一つでしょうね。
補足
やはり、そうですよね。政治やお金、人間の根幹にある差別意識や商業主義に染まってます。 大衆遊技ですから仕方ないのかもしれません。 他の方の意見も読んでますが、やはり紳士的では無いと言った方がより腑に落ちる感じがします。 うーん、取り急ぎ補足としてコメントさせてもらいました。他の方の回答も見ます、一旦失礼します。
- 11azm
- ベストアンサー率50% (4/8)
スポーツは紳士的です。 ごめんなさい少し面倒な話をします。 そもそものスポーツの源流はイギリスのラグビースクール?の上流階級の人たちの間で嗜まれてきたいわゆる息抜きであり、この事がスポーツが紳士のスポーツであることのイメージとなった理由だと思います。 そしてオリンピックがクーベルタンによってその形を成した頃が活発でしたが、ルールというのは何故あるのか?と考えると、その一つとして規則を理解した人間の行為であることを示すため、という点も考えられるわけです。そしてオリンピックは国際交流もとい平和の式典なので喧嘩という野蛮な物は行われないわけです。 きっとこれでは納得いかないでしょうからその平等性についても少し話します。 野球バットをめちゃくちゃに強いものにできるとしたらどうなるか想像してください。スタジアムが小さすぎてホームランの山。クソゲー化しますよね。守りも攻めも全てが均衡するように器具やコート、さらには人種の平等も考えて宗教的なことを禁じるなどの細かいところまで目の行き渡った、絶妙なバランスを保持しているのが現代のスポーツなのです。もちろん今でも改正はされますが。 そして筋肉だけでなくて技術も求められるのがスポーツです。そしてそれらを培う時間は平等に与えられているわけです。ですからだれがどこを磨こうが勝手であり、筋肉鍛えすぎて体が固くなって負けようが知ったこっちゃないわけです。肉体に制限を下されるのがボクシングなどの競技だけであることから少しでも理解していただけるとありがたいです。 そしてドーピングについては健康面、フェアプレイ精神面などありますが、スポーツの価値を損なう、という曖昧ですが大元の意味を孕んだ芯の部分を失わないために禁止されているのです。肉体改造という視点では考えないのです。 大変長くなってしまいました。まあ第三次産業としてみるならば質問者さんも需要がなければ興味ないよ鼻ホジぽーいでいいんです。そのあたりは個人の好みですので構いませんが、上記の視点でみるとまた違って見えてくる、ということを最後に述べて筆を置くことにします。
補足
回答ありがとうございます。 > ごめんなさい少し面倒な話をします。 いえいえウェルカムです! > 野球バットをめちゃくちゃに強いものにできるとしたらどうなるか想像してください。 クソゲーすぎてちょっと見たくなります...w もしバットが改良されまくると、素早くホームランに突っ込ませられるを防ぐために両チームで色んな対策が取られるでしょう、例えばドローンに金属板を付けて打った球をたたき落とすとか。 ボールがバットに吸着されてバットを奪い合う戦いになるかもしれません。グローブが空を飛ぶかも知れません...w > 規則を理解した人間の行為であることを示すため なるほど。ルールを守るということこそ紳士的であり、ルールの内容は紳士的でなくても良いということですね。 ですが、ルールを守るため紳士的、知力を尽くしルールの穴をつくことすらルールを守っているため紳士的ということとなると、果たしてそれは紳士的なのか疑問に感じてしまい堂々巡りをしてしまいました。 こんな補足となりすみません。 回答無いんじゃ無い?と思ってしまうかもしれません。 追伸、正直に申しまして、興味無いものに踊らされ政治的な問題になったりテレビ番組がずれたりとか...迷惑なんですよね...いや色んなご趣味の方が居ることは尊重すべきと思ってますが。
- 2424ookk
- ベストアンサー率26% (18/69)
スポーツというものの起源も語源も狩猟であったように思いますし(これはちょっとうろ覚えですが)、もともと「人間の野蛮性・動物性・狩猟や戦争への欲望や衝動」をマイルドな形で発散するものが近代のいわゆるスポーツであると思います。したがって、「もともと野蛮な衝動を、なるべく文明的・平和的に発散する儀式」という意味で、野蛮なまま発散することと比べれば「紳士的」である(YES)と考えられると思いますし、もともと野蛮なものであるからこそ、なるべく「紳士的」にルールを守ることが望ましい(しかし本源的に野蛮であるからには、100%紳士的という状態はありえない)ということになるのだと思います。個人的かつ拙い思索ですが。
補足
回答ありがとうございます。 なるほど。比較対象として、野蛮な状態をあげるということですね。 ルールを守るからこそ、紳士的というのも納得がいきます。 また、100%紳士的でないというのも分かります。 確かにここまで納得がいきました。 では本当に以前の人間が紳士的ではなかったのでしょうか。 例えば、捕った動物はきちんと食べる、捕るときも逆に殺される覚悟をして知力を尽くし狩る、これもまた当時の文化レベルで言えば紳士的だったのではないかと考えてしまいました。 狩るという行為の後にルールをもうけていたという考えです。 そのため、ルールがないが似たようなものをいつの時代も拵えてたように思います。 いつの時代でも紳士的であった、いつの時代も紳士的であるため、いつの時代も紳士的ではなかったと言えると思います。 ふわぁーとしちゃいましたがそう思いましたので取り急ぎ返信した次第です。
補足
回答ありがとうございます。 > スポーツというものを単に勝ち負けを競うものだと考えれておられるから御質問のような疑問になります。 確かに私はただ単に勝ち負けを競う物だと思っています。 なるほど、勝ち負け以外の要素がある...と。 ですが、メディアや観客の心は勝ち負けをのみ重要視しているように思えます。 勝ったことを祝い讃え、勝ち負けから得られることの方を「二の次さんの次」で、どうでもいいようなものとして扱ってるようにしか思えません。 単に勝ち負けを競わないスポーツはスポーツなのでしょうか...? スポーツで勝つことで得られることはスポーツでしか得られないものなのでしょうか。 そのため勝ち負け以外のものを重要視すると勝つことや勝ちにこだわるために努力するといったことは無意味にならないでしょうか? 副次的なものを求めすぎると「絶対に勝ちます!」という選手のコメントはとても滑稽に思えてきます。 「XXXXXを得るために勝ちます!」といった建設的な意見が欲しいですね、それも他の事や趣味では絶対に得られないと確信できることが。 > オリンピックは参加することに意義がある 良いサイトですね、全てではありませんがいくつか読ませてもらいました。 しかし、努力することが成功より尊いといいう旨の言葉、目的よりその手段が重要といってるようで同意しかねます。 目的や目標設定が誤っている証拠だと思います。 もし身体能力の限界に挑む事が目的や目標であれば勝負ではなく数値的に計測可能なもので勝負すべきです。 例えば一回勝負の100m走ではなく、身体の筋肉量やその質を客観的に図って競うべきで現在のスポーツのあり方は間違ってると思います。 精神的な強弱を競いたいのであれば拷問にでも掛けるべきです。 > 周囲から強要されるケースが大半です。 ありましたね、ロシアでしたか。 国や団体がルールを破ることを推し進める場合、紳士的とは思えません。 またそんな集団が構成しているIOCすら紳士的か懐疑的になってしまします。 人間は弱いからこそ強いものが讃えられる。 ですが、讃える場を作る側が弱いがためにこういった事がおこる。 讃える側が弱い現在のスポーツは本当に紳士的でしょうか? 評価する側が紳士的でないからこそスポーツも正しく評価されず紳士的ではないと感じました。 > 世の中にはじゃんけんのような生やさしいものではなく賭博というものがあります。 投資でいつも賭け事をしています。 確率を計算しお金を張るため、赤字にもなりますが黒字の方がより濃くでます。 保険屋と同じですね、自己嫌悪の様に保険屋には嫌悪感を感じます。 閑話休題。 不利有利ないかと言うと、情報を取得する速度や特定の情報が及ぼす影響を考えることが主になるため情報取得の速度が遅いと不利になります。 賭博すら不利有利なくすることが難しいと思います。 回答を読ませていただき、スポーツも不利有利無くすることはできず、やはり紳士的ではないと思いました。