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島津斉彬の対外政策 日中韓
何かの本かテレビ番組で、 島津斉彬は、日中韓の連携を唱えた、とありました。 しかしそれは、勝海舟のオハコではなかったでしょうか。 もしかして、勝が斉彬から教わった論策でしょうか? 逆に勝が斉彬に売り込んだのでしょうか? この辺、分かる人は教えてください。 よろしくお願いします。
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島津斉彬と勝海舟が直接教え合ったというより、おそらく共通の思想の祖がどこかに居ると考えた方が妥当でしょうねえ。 あてずっぽうで妄想するなら佐久間象山の周りを出入りする鍋島藩の人間とか?
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- IXTYS
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日中韓三国同盟の提唱者は勝海舟で敵国はロシアを想定しているようです。 確かに19世紀に入りロシアが不凍港を探してアジア各国との通商交渉を働きかけ、松前藩にもやって来て追い返されています。 このことを指しているのではないでしょうか。 https://ameblo.jp/rekishiyowa/entry-10774583296.html
お礼
ロシア軍艦による対馬占領事件を思い出しました。ありがとうございます。 このとき勝は、「彼をもって彼を制する」という頭脳プレーで撃退しています。つまりライバルのイギリスにチクリ、干渉させています。手を汚さず。 これで西郷がしきりと対ロシア戦略のために朝鮮使節を希望したのも分かります(俗に言う「征韓論」)。斉彬・西郷・勝らは、ロシアを当面の具体的な仮想敵国として外交を構想していたのですね。むろん、イギリス・フランスに日本を二分割されかねない危うさも睨み、ですがー。 開国を迫った米国自身は、南北戦争の内戦中ですから、当面の脅威ではなかった?かな?
- eroero4649
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>松浦玲『勝海舟と幕末明治』をお読みください せっかくお勧め頂いたのに恐縮ですが、なんぼなんでも1973年の本はちょっと古すぎます。歴史に関してはここ10年から15年くらいに縄文時代から太平洋戦争に至るまで大きく書き換わっています。「聖徳太子って、架空の人物だったっぽい」とか「足利尊氏の肖像画は、あれは足利尊氏じゃない」とかご存知だと思います。 私も80年代から歴史の知識を持ち始めていますが、ほぼ全てにおいてといっていいほど、80年代に得た知識はその後に何らかの形で更新されているものが多いです。例えば私が桶狭間の合戦の知識を初めて得たときは、信長は迂回して奇襲したという迂回奇襲説が通説でしたが、現在は正面強襲説が有力となっております。幕末に関しても色々と新資料なども出ていると思いますので、アップデートなさられてはいかがでしょうか。 もし質問者さんの今回の質問の根拠になる資料がその1973年の書籍によるものなのであれば、資料が古いのではないでしょうかと思います。あくまで個人的な見解ですが、理系で写真機の取り扱いもでき「理化学に基づいた工業力こそが西洋列強の力の根源であることを見抜き、自身もアルファベットを学ぶなど高い世界認識をもっていた(Wikipediaより)」とされる島津斉彬が日本以上の鎖国国家であった李氏朝鮮との連携で欧米列強に対抗しようと考えていたのはちょっと考えづらいのではないかなと思います。 集成館事業を興し、琉球を介してフランスとの交易を画策した斉彬が李氏朝鮮に目を向けていたっていうのはどうしてもピンとこないです。
お礼
島珠斉彬も三国同盟論を唱えたという説こそ先日みかけた新説です。(どのメディアだったか思い出せないのがもどかしい) 勝の三国同盟論は一次史料も複数(公文書・石碑)あり昔から有名ですが、同書では幕閣の間で公然と論議されていたものだと指摘しています。 確かに、大陸に渡って予備交渉してこいという趣旨の「老中達」(幕府の公式な命令書)もありますから、そうでしょうね。今でいえば閣議決定レベルです。 日本が海軍でアジア全体を守り、石炭等の燃料は中韓が提供し、財政は北海道昆布他の貿易収入で賄おうという論策でした。(『海舟座談』、改訂版『氷川清話』等をご参照。) 後世の我々が、明治政府以降の対外侵略路線の目くらましで忘れ去っているだけです。
- eroero4649
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当時の朝鮮王朝(李氏朝鮮)は日本と同じように鎖国政策をしていて後に日本と同じように攘夷か開国かで国が混乱して最終的には日本に併合されてしまいましたし、中国(清王朝)もアヘン戦争で屈辱的な条約を結ばされ、欧米列強の植民地になりつつありました。 後に明治時代に「脱亜入欧」という言葉が流行ったように、当時はアジア的なるもの、日本的なるものは「劣ったものである」という考えがありましたので、アジアの連合で欧米列強に対抗するという考えはなかったと思いますよ。倒産しそうな会社がいくら集まったって大手企業には敵わないじゃないですか。
お礼
江戸時代末期は、「アジアの連合で欧米列強に対抗するという考え」は、幕府内では公然とした、周知の議論でした。 松浦玲『勝海舟と幕末明治』をお読みください。幕府がたおされて、明治政府になって、脱亜入欧が国策へと転換して行ったのです。
お礼
島津斉彬と勝海舟は直接、面談をしています。 勝が幕府の軍艦で鹿児島を監察に行ったとき、領地内のあれこれは全部見せながら、琉球の方には回らないで欲しいと頼まれています。禁制の密貿易現場まで見れば勝も幕府に報告せざるを得なくなるからです。 また、勝に対して、自分は自力で上がってくる人間が好きだ、というようなことを言っています。 どうも斉彬という人は、癖のあるというか個性的で持論ある情熱家を引き立てる傾向があるようなので、勝がオリジナルで、それを支持し周囲にも吹聴したのかもしれません。 それを現代の誰かが、島珠斉彬の論として紹介し始めた可能性を感じます。
補足
すこし回答が途絶えたので、補足します。 貴方の仰る通り、佐久間象山がそもそも勝に海軍をやれと言った張本人ですから、彼が発想の元であって不思議はありません。海舟という号も、彼の書いた「海舟書屋」という扁額からとったものだし、勝の妹が象山に嫁いでいます(義兄弟)。 佐久間には弟子も多くいろいろな繋がりがあったので、貴方の想像にも大いに蓋然性があります。支持します。