武田征伐の時は,確か,織田信忠氏が,総大将で,信長四天王の一人の,滝川一益氏や,森蘭丸氏等の親戚の森長可氏等の武将達が,武田(仁科)信盛氏の,高遠城攻めなどで活躍したエピソードなどが,有名だと思います(c.f.大河ドラマ『真田丸』など)..武田征伐では,織田信長氏の同盟者の,徳川家康氏の,穴山梅雪氏の引き抜きや寝返り工作や,信濃の,木曾義昌氏の寝返りや裏切りなどなど,武田側の多くの武将などが,織田信長氏側の調略などで,寝返っており,明らかに,織田信長氏側に,抵抗したのは,仁科信盛氏の高遠城ぐらいだったようにも思えます..『真田丸』でも,ありましたが,武田氏の縁戚の,岩殿城の小山田信茂氏の裏切りや寝返りなども相まって,武田勝頼氏の手勢などは,極端に少なくなり,最終的には,妻の北条夫人共々,自刃などに追い込まれた形です..当時の後北条氏は,割と,ギリギリに,織田信長氏側についた家ですので,武田征伐の際には,基本的には,後方支援という役割で,相模の特産品(例えば,鷹や白鳥,兵糧などなど)を,たくさん織田信長氏側に献上したり,融通していたようです..後北条氏自身は,当時,安房の国の里見氏などと,交戦中ということもあり,西には,上杉氏も居た為,下手に,織田信長氏に加勢するのではなく,武田征伐後の,それなりの恩賞を望んだり,期待したりしていたようですが,武田征伐後,結局,後北条氏には,何の恩賞も無かった為,本能寺の変後に,再び,後北条氏と,上杉氏,徳川家康氏,真田氏などとの間で,三つ巴や,四つ巴の戦いなどが,信濃の国や,上野の国,下野の国あたりの領内で起こるようです..
お礼
天正8年(1580年)、後北条氏に対抗するため甲斐国の武田勝頼と常陸国の佐竹義重が同盟し(甲佐同盟)、義重の同盟参加を受けて天正9年(1581年)に里見氏も武田氏と同盟した。これに佐竹氏・小弓公方の足利頼淳との同盟を加え対後北条氏の同盟が成立するが、 wikiより なるほど関東で対北条包囲網が形成されてるのは理解できました。 とはいえ兵の半分でも北に向ければ上野はとれたかもしれませんね。 ご回答ありがとうござ今した。