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人生は苦しい

最近、私は「人生は苦しいものだ」と思っていれば、 たいていの苦しいことに耐えられるんじゃないかと思いました。 最初から「苦しいものだ」と思っていれば、 自分の人生に甘い期待や幻想を持たずに済むし、 何か、ひとつでも良いことがあれば、 儲けものくらいに思えるようになるんじゃないかなと思いました。 そこで、この「人生は苦しいものだ」という考え方を、 みなさんは真理だと考えますか?

みんなの回答

回答No.11

ひな壇芸人みたいになりたいのか!人形でも置いておけ! 釣りバカしゃちょー2のアイコンが人形だったのですが、 わざわざ自分の人形、それも不恰好な人形を作るのはともかく そちらのほうが素ならば、タイアップ動画は仮面なのですか? ケース捨てちゃうんで、の鉢巻ですか?

kirakiraaruku
質問者

お礼

??ありがとうございます。

回答No.10

 シーシュポスの神話ですね。  岩を山頂に運ぶけれども、また、転がり落ちるのをまた運ぶを永遠繰り返す。  意味の無い苦しみは、意味があるんでしょうか?  意味の無い苦しみは、「絶望」と呼ばれますが、生活の苦しさと、精神的絶望はいろんなレベルがありそうです。いろいろ経験しましたが。

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます。 私の場合、苦しいことに悩まずに生きるのが意味になると思います。

回答No.9

淘汰の結果生じる生命にとって、生きる事が目的 であり、生きている事自体が意志の達成=精神的 充足感が得られるべきものなのだ。 ところが、そうした根源的意志は、生存において 食慾や性欲といった現象的な反射行動での多様な 対象に分断され、更に分業による社会化において その自己の生命性の社会的拡張を把握するだけの 認識の深まりを怠ったため、自己チューな意識の まま社会性のコースを走らせるため、お金や出世 といった“馬車馬の目の前のニンジン”を発達させ、 「お金をもらうためにイヤイヤ働かされる」苦痛 から逃れるだけの生になってしまったのだ。

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • KoalaGold
  • ベストアンサー率20% (2539/12475)
回答No.8

病気をしたり、不運に見舞われることはあるし、我慢や努力でじっと待たなければならない時期は人生に必ず訪れます。 「人生は苦しいこともある」が真理だと思います。つまりこれを抜けた先には幸せもあるよ、です。 「苦しいのが当然」にしてしまうと「貧乏が当然」みたいなもので自分のレベルと設定してしまいますので「ここはひとつ頑張れば脱出できそう」とだ脱走計画を練るだけの余裕は欲しいですね。耐えているだけでは脱出できませんから。 日本で当然のように扱われる満員電車。後進国でもないのにこれが当たり前にされているのは上記の理由です。「満員が当然」に慣れてしまって「脱出計画、改造計画」を考えてもいない諦めからです。耐えていることにも限界がある、と早く日本人は気がついて欲しいです。

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • hue2011
  • ベストアンサー率38% (2801/7250)
回答No.7

まずいいますが、不幸を呼び込む考え方というのがあるのです。 ゴーヤと言う野菜があります。 これは苦いです。誰に訊いても苦くないという人は居ないはず。 だけど、感じ方でこれを美味しいと感じるものがあるから、料理の素材になるわけです。 まったく知らないで突然この野菜に出会ったら、わあなんだろうこの苦さはと思います。 こんなもんだれが食べるんだと考えたとします。 その時点ではまずいと考えるかもしれない。 そして、沖縄のものはすべてまずいと思っていたらつらいことはなくなると考えたとします。 この考え方をもつと、島ラッキョウが来ても麩がきてもまずいものと決めつけて口にいれますから、いつまでも楽しくない。 アグー豚でもうまくは感じないのです。 そういう人生は何か意味がありますか。 スポーツ選手なんて訓練の時はつらいことだらけです。思うように体は動かないし考えたように反応できない。 だけど、そういうもんだと思っていたら決して成長はしません。 楽器のプレイヤーしかりです。 いつもある種の音型になると間違える癖があるとします。 それを練習して回避できるようにまでなったとします。 いざ本番でステージにでて、ミスタッチしたら嫌だなと思い続けたら必ず間違えます。 自転車に乗って「転ばなければいいが」などと思ったら必ず転びます。 これが、マイナスのことを考えていると、自分の思考が不幸を呼ぶということです。 たいがいのスポーツの本なんかにはすでに書いてありますが、これを避けるためにプラス思考をせよというのです。 何かが成功して達成した時を考えて走ったり跳んだりすればいいのです。 そうすると、達成するときがゴールですからそれまでは「耐えられます」。 転ぼうが落ちようが、それはゴールに着くまでの段階にすぎません。 所詮失敗なんて言うのは成功までの経路のひとつでしかありません。 つらいことと言うのも道を走っているときの脇腹の痛さとか足の引き継理にしかすぎません。 痛いことがあったとき、常に痛いものだと考えるのと、痛いことはうれしいことのための道にあった石ころにすぎないと思うのでは人生の意味が全然変わってきます。 ゴールがあると思わない限り、不幸を呼ぶだけの無駄な時間だけの人生になってしまいます。

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます。

noname#230414
noname#230414
回答No.6

人間は母の胎内にいる時に、人生のおおまかな流れ寿命を決めて生まれてくる。 どんなに不幸が多かろうと、つまらない人生だろうが生き抜くことが人生の 目的で、精一杯生きるのが正しい生き方。 私は波乱万丈の人生戦争体験、6歳で戦災孤児に1人で生きていく辛さでも生き抜いて怖いもの無しの人生。

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.5

私の考え方は、 「人生は楽しむものだ」です。 苦しい時は有っても、わざわざ苦しむものではないでしょう。 楽しまなきゃ勿体ないですよ。 お金が使う為に有るのと同じで、人生は楽しむ為に有る筈ですから。 お金は何かを手に入れる為に減りますよね。 それと同じで、人生は楽しむ為に苦しいのでなければならない筈です。 お金は減るだけで何も手に入らない事を無駄遣いと言いますよね。 人生も何も楽しくないまま苦しいだけなら、それは人生の無駄遣いではないでしょうか。 せっかくの自分だけのものである人生を苦しいだけで終わらせるのは、 お金をドブに棄てて無くすようなものだと思うのですが…。

kirakiraaruku
質問者

お礼

そうですね、楽しめればなによりです。 私、個人は苦しいことを克服したいと思ってしまいます。

  • izumi044
  • ベストアンサー率36% (1333/3622)
回答No.4

ご自身でおっしゃっているように、苦しさの中に希望を見出さねば、いずれ潰れるんじゃないでしょうか。 ですから、人生は苦しいものという側面だけで生きることは、困難なように思います。

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます。

回答No.3

Q、「人生は苦しいものだ」は真理だと考えますか? A、否。 >人生とはXXXXだ! なんて言葉は、単なる解釈好き、単なる説教好きの戯(たわ)言。 >人生の解釈なんてのは説教好きの坊主に任せよ! >それよりも大事なことは、己の人生を切り拓くことである。 (by sHusky)

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます。

noname#251480
noname#251480
回答No.2

私も一時期そういう風に考えて生きていましたが、 毎日毎日ストレスが溜まるし苛々するし、どんどん追い込まれて行って 変なミスばかり起こすようにもなりました。 人間も結局は、鼻先なり少し遠くなりに人参ぶら下がっていないと しゃんと生きていられないのだと感じました。 確かに辛いことも非常に多いですけどね。 因みに、苦しいものだ辛いものだそんなものなんだ、という風に考え込んでいた時期、別口で色々検査したんですが、脳味噌が委縮してるとか言われました。 委縮したからそう考えたのではなく、考えているから委縮したのだとも。

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます。 考え方で脳が変化するのは恐ろしいですね。