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シルクロードってなんでカスピ海の南通るの?
NHKの一帯一路の特集見てふと疑問に思いました。 なぜそもそもシルクロードってカスピ海の南側を走ってたのでしょうか? カスピ海の北側をとおり国会の北岸をとおりウクライナからヨーロッパへ行く道はなぜ交易路として成立しなかったのでしょうか? そちらのほうが砂漠越えが少ないような気もするのですが。
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>カスピ海の北側をとおり黒海の北岸をとおりウクライナからヨーロッパへ行く道はなぜ交易路として成立しなかったのでしょうか? 河川の流域に定着して暮らす農耕民族が生み出した古代文明の影響です。 シルクロードという呼称は19世紀に入ってから使われるようになった用語です。 現在中国が唱えている一帯一路のように統一された意志で設けられた交易路ではありません。 中央アジア一帯の交易路をつなぎ合わせて生まれた概念です。 カスピ海の南側にはメソポタミヤ文明と呼ばれる文明が発達していました。 言い換えれば古くから沢山の人が暮らしていたということです。 これに比較するとカスピ海の北側にはまとまった文明が発達するほど人は住んでいなかったということです。 全くいなかった訳ではなく移動しながら暮らす遊牧民の人達がいました。 この地域に文明の発達した王国が生まれるがカスピ海の南側よりも遅れました。 メソポタミヤの西側にはエジプト文明が東側にはインダス文明が発達していました。 これらの文明を生み出した人々が交易のために往来していました。 現代のヨーロッパの原型であるローマ帝国もギリシャなどを経由して古くからあるカスピ海の南側の交易路を使っていました。 結果的に現在シルクロードと呼ばれる交易路がご質問のようにカスピ海の南側を通るようになりました。 これらの人々がやがて楼蘭を仲介として黄河文明の流れをくむ中国と交易するようになりました。 >そちらのほうが砂漠越えが少ないような気もするのですが。 カスピ海の南側に広がるカヴィール砂漠は周辺に山岳地帯があることもあり地下水が豊富な地帯です。 山岳地帯から流れ出す地下水を利用するカナートと呼ばれる人工の水道も発達していました。 井戸を地下水路で繋いだような形式のものです。 つまり人工のオアシスが必要に応じてつくられていたということです。 TVの映像などで砂漠を移動する光景が良く見られますが、一日の行程で水に不自由することはなかったということです。 エジプトやローマへ抜けるにはメソポタミヤ文明を生んだユーフラティス河沿いに遡上すれば砂漠地帯を避けることが可能です。 雨季にのみ水が流れるワジと呼ばれる川もありますが乾季には人が往来する道として使われます。 干上がった平坦な川底ですので往来に適していて現在も利用されています。 厳しい砂漠越えを求められるのはカナートもワジもない楼蘭周辺のタクラマカン砂漠です。 これも天山北路天山南路などと呼ばれるように砂漠の真ん中を突っ切るのではなくオアシスの多い山岳地帯のすそ野を通りました。 とは言えこの道を通った三蔵法師も苦労していますので砂漠地帯に慣れない人にとっては厳しい経路だったと思います。 正倉院に残されている宝物でもお分かりの通り交易は莫大な利益を生み出しますので砂漠もなんのそのということでしょう。
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ただWikiのシルクロードをそのまま読んでみると・・ 「草原の道」 中国から北上して、モンゴルやカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海に至る、最も古いとみなされている交易路。この地に住むスキタイや匈奴、突厥といった多くの遊牧民(騎馬民族)が、東西の文化交流の役割をも担った。
- IXTYS
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こんにちは。 私はODAの仕事で中国の新疆ウィグル自治区の各地を回りました。 その時、確かに仰るようなルートがありました。 それは同省の省都であるウルムチから天山山脈の谷間に沿って北東の方向にカザフスタンに入り、天山山脈の向こう側に回り込んでカスピ海の北を通って黒海の北を通り黒海の西側から南下してトルコに至る道です。 トルコから先は同じでシリアから船でローマに辿り着きます。 唐の時代はウクライナなど全く歴史には登場していません。 当時のヨーロッパと言えばローマのことなのです。 カスピ海の北側を通過する道は古来からトックツなど匈奴と呼ばれる北方騎馬民族だけが馬で疾走する道となっており、ローマ~長安と言う商業を行う道とは少し用途が違うように感じます。 中国産の絹を畳んで持ち運ぶ繊細な運搬経路には似つかわしくないと感じるのです。 中国の唐の時代、都長安の洋関と言う関所を通過するとそこからは延々と砂漠の道が続きます。 砂漠の中にところどころに地下の伏流水が湧き出て来る場所があり、そこがオアシスとして一時的に栄える。 そのオアシスづたいにシルクロードが形成されている。 これが西域(せいいき)の実態なのです。 ご指摘のあったカザフスタンからカスピ海の北へ抜ける道も草がびっちり繁茂している草原をイメージなさっていませんか。 ウルムチからカザフスタンへの道をジープで走りましたが、そこは土漠(どばく)と呼ばれる小石と砂で出来た荒野に過ぎません。 ところどころ草が生えており、羊の群れを連れた遊牧民が草伝に移動するのです。 中央アジアは一面砂漠です。 ただ伏流水が湧き出したところに町が出来る。 ここは海の底だったのが隆起した。 ですから塩害で草が生えない。 そういうことなのです。
お礼
都長安の洋関と言う関所:陽関かな? カザフスタンからカスピ海の北へ抜ける道も草がびっちり繁茂している草原をイメージなさっていませんか。 中国国内のうちは砂漠なんでしょうが、小麦生産でうなるカザフスタンですからカザフスタンは草原を想像しておりました。 ご回答ありがとうございました。
- IXTYS
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こんにちは。 シルクロードを語る時、キーワードは三つ。 (1) 中国産の絹を東は中国の都、長安から、 (2) 西の果てはローマ帝国へ運ぶ (3) 運ぶ商人はユダヤ人 この三つが重なるとルートはローマ→ユダヤ→カスピ海南を経由→サマルカンド→カシュガル→敦煌→長安となります。 古来からユダヤ人は東はインド西部から西はローマまで広く交易をしていましたが、彼らは各地に住むユダヤ人と交易をしており、度量衡が同じだったので成立したのです。 道があったのではなく、同じユダヤ人同士だから交易ルートが発達したのでした。 初めに道ありきではなく、ユダヤ人ありき。 だったのです。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- eroero4649
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私もあの辺りの歴史には疎いですが、北コーカサス地方の文明・王国って何かありましたっけか。突厥はもうちょっと東側ですしね。 昔の交易は、中国商人がヨーロッパまで行ったわけではありません。中国の絹織物がヨーロッパに渡るとしたら、中国商人が敦煌の辺りまで持って行き、中央アジアの商人がイラン辺りまで持って行き、中東の商人がトルコ辺りまで持って行き、トルコでヨーロッパの商人が買うなんていう伝言ゲームで伝わりました。 だからそこは一番合理的なルートは文化国家を通じたルートを利用することです。 ウイグルを通った中国からの交易ルートは、そこからタジキスタンに入り、トルクメニスタンを経てイランにたどり着けば、そこはオリエント文明圏です。整備された交易ルートで地中海にたどり着けます。トルクメニスタンは人類最古の農耕集落の遺跡が発見されるような古くからの文明の地ですし、イランも歴史が古いところです。 一方のカスピ海の北側ルートは当然コーカサス山脈の北側を通るルートになりますが、ちょっと紀元前から中世にかけての文明王国がどの程度あったのかなって思うのですよね。もちろん遊牧民族はいたのではないかなと思いますが、王権によって統制されていない遊牧民に見つかったら容赦なく略奪されるだけですから怖いルートではあったと思いますよ。 現代の我々は世界地図を知っていますからそっちのルートが距離が短いと知っていますが、当時の人々は地形を知らずにいたわけですからね。 ウクライナ地方はキエフ大公国というのがありましたが、系統的にはバイキングの系統のはず(うろ覚え)でバイキング以前には文明国はなかったと思いますし(バイキングってのは9世紀くらいです)、シルクロード(東西の交易路)そのものは紀元前から存在していましたからね。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%A8%E3%83%95%E5%A4%A7%E5%85%AC%E5%9B%BD Wikipediaのこの地図によると黒海北岸はキエフ大公国の勢力範囲に入っていませんから、敦煌~ウルムチ~サマルカンド~ペルシアというルートが自然だと思うのですよね。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89#/media/File:Silk-Road_course.jpg 一応Wikipediaのこの地図によると、カスピ海北側ルートも書いてありますけれども、それなりに近世になってからのルートではないかなあと思います。いろんなものを売ったり買ったりしながら移動するなら、文明圏を移動するのが基本だと思いますからね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほどコーカサス一帯は遊牧民の支配領域で治安が危険ですか。
- fumuslover
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現在のルートがカスピ海の南側のルートのことしか言わないのでしょうか。 調べていないので定かでは無いですけも私の記憶では沢山のルートがあったかと。 カスピ海の南側もあった気がします。 記憶違いだったらすみません。
お礼
なるほどイランの王朝が交易路として整備したんですね。 ご回答ありがとうございました。