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手紙に旧字体で書く理由。
私は手書きの手紙を書く際には必ず、旧字体で書かせて頂いております。 理由は2つあり、1つ目は旧字体にはその漢字本来の意味が含まれており、書いている正確な内容を伝える為には旧字体でなければ伝えることができないからです。 2つ目は手書きでじっくりと時間を掛けて書いているにも関わらず、新字体のように略して書くことで上記の内容が無下になり、失礼であると考えているからです。 新: 草木が弥や生う季節になりました。いかがお過ごしでしょうか。 旧: 草木が彌や生う季節になりました。いかがお過ごしでしょうか。 上記の内容から私は旧字体で手紙を書いておりますが、皆様はどうお考えでしょうか。
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- Postizos
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すみません。9ですが、節の字をコピペしたつもりが変わってしまっていたので直しました。 8の返事を読みました。 字の解釈ですが、参考にしている辞書の違いであって私の参考にしているのは「字統」ですのでご一読ください。 「旧字体」=「彌」ではないことは同意頂けているものと思います。 なお節の字はお使いになっている「節」の字体は康熙字典の「明朝体」の字体で手書きの楷書体の字体ではありません。康熙字典は木製の活字を使っているので彫りにくい字体は彫りやすく変えてデザインしています。 「節」の字体は隷書体に近いものですが篆書体には近くはありません。 わかっていて独自のポリシーで混合して書くということでしたら自由だと思いますが。 なお旧字体の活字を使っていた時代でも手書きの楷書体は「節」ではないのをご存知でしたらご無礼ご容赦のほどを。 http://sf.zdic.net/sf/ks/0610/846cf37a49b39019739e3e2257c9c270.html
- Postizos
- ベストアンサー率52% (1786/3423)
8の返事を読みました。 字の解釈ですが、参考にしている辞書の違いであって私の参考にしているのは「字統」ですのでご一読ください。 「旧字体」=「彌」ではないことは同意頂けているものと思います。 なお節の字はお使いになっている「節」の字体は康熙字典の「明朝体」の字体で手書きの楷書体の字体ではありません。康熙字典は木製の活字を使っているので彫りにくい字体は彫りやすく変えてデザインしています。 節の字体は隷書体に近いものですが篆書体には近くはありません。 わかっていて独自のポリシーで混合して書くということでしたら自由だと思いますが。 なお旧字体の活字を使っていた時代でも手書きの楷書体は節ではないのをご存知でしたらご無礼ご容赦のほどを。 http://sf.zdic.net/sf/ks/0610/846cf37a49b39019739e3e2257c9c270.html
- Sat_H
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No.4です。お礼読みました。ここでの議論はマナー違反なので、最低限のアドバイスのみにします。 >助動詞「う」の連体形は「う」のみであるとの認識です。 「う」は上二段活用の「生う」(生ふ)の一部ですね。助動詞「う」の直前の語は五段活用動詞などの未然形でなければなりません。「う」の直前の「生」は未然形ですか? 最後に、役立ちそうなリンクを紹介します。旧字と旧仮名に関して、現在も精力的に情報を発信しているかたです。たとえ仮名遣いに関して共感できなくても、新字体や漢字廃止論、漢字制限政策などに対する批判は共感できるのではないでしょうか。 http://www7b.biglobe.ne.jp/~w3c/kotoba/ https://twitter.com/nozakitakehide また、このかたが旧字または旧仮名を使用しているサイトをまとめたページもあります。旧仮名遣い派の現代文が多いのは事実ですが、旧字新仮名を使用した文章も見つかります。 http://www7b.biglobe.ne.jp/~w3c/ksmiracle/Kokugo/Orthographie.html
- Postizos
- ベストアンサー率52% (1786/3423)
たびたびで申しわけありません。 例えば彌の字体ですが、 http://sf.zdic.net/sf/ks/0407/60139cd918ae33d9ece536615e3ebdbe.html こちらをご覧いただければわかるように、楷書の最初期から「弥」の字も使われていることがわかります。日本には漢字輸入の最初から両方が入って来ているでしょう。 例えば虞世南は558年から638年の人 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9E%E4%B8%96%E5%8D%97 弥の字が最近の字だというのは違っていると思います。しかし篆書を見るとつくりは爾であって、字統によると女の文身であり長命を意味する儀礼であろうという解釈です。なお金文の字体から、説文の镾をオリジナルであるとする説を退けています。 ですので彌が字源に近いという説は妥当のように思います。
- Postizos
- ベストアンサー率52% (1786/3423)
2の点について、もちろん強制されるべきでないのはおっしゃる通りです。 〈少なくとも江戸時代以前の時代ではそれらの漢字表記が受け入れられていたのは紛う事なき事実なのだから、明治時代になって変えられたからと言ってそれに則する必要性はないと考えてます。〉 については読み違っていらっしゃると思います。 明治から戦前までの字体に限定する・則するべきだとしていらっしゃるのはあなたの方で、江戸時代以前にはもっと多様な表記が行われていたと申し上げております。 それと1の点についてはいかがでしょう。もちろんこれは逆説で、私はそれ(日常的な篆書金文での表記)を実践すべきだとは思っていません。知っておくことはいいことだと考えていますが。
お礼
「明治から戦前の字体に限定する」とは趣旨が違いますので、申し上げておりません。 再三再四申し上げました通り、私の趣旨は「本来の漢字の字源に近しく即した漢字を使う」との意味です。 一知識として知っておくことに於ては私も同意です。しかし、「多様な表記があるから」との理由で、私の手紙に(字源に近しいとの意味での)旧字体を使うことについての理由にはならないと思います。
- Postizos
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1.の点 「本来」当初の形態に近い方が良いと考えるなら篆書や金文書体の方がいいのでは。 簡略字体・異体字は楷書が作られたころからあるものもあります。 2.の点 〈自分が時間をかけて“わざわざ”手書きで書いているのに、「上記の内容 」が無下になる=漢字の意味が伝わらない〉 としているのは相手の読みやすさを考慮する視点からはいささか独善ではないか。 用途や相手によってはかえって失礼となる場合が多いのではないか。気心の知れた仲ならいいのですが。 手書きしかなかった江戸以前の時代には行草が公用や日用の主だったのが明治に楷書に変えられたねらいは、活字書体への整合が元でしょうが、相手の読みやすさがあったから受け入れられたのでは。 それと例えば〈「博」「簿」の字の構成要素の「甫」が本来ではないから意味がない〉としても、相手に「博」「簿」の本来の意味が伝わらないとは思えないのです。 http://www.zdic.net/z/16/kx/535A.htm しかし知見や考えにもとづいて字体を本来の良かれとする形に書くのはその人のひとつの方針として認められるべきでしょう。 その時に「相手のためだ」というような押しつけや、自己愛的にならないように、あくまで己の矜持としてさりげなく行うべきでは。
お礼
足る表現にすれば相手側の読みやすさを欠くことは当然の代償でしょう。これが独善ならば、逆もまた独善であると思いますよ。 少なくとも江戸時代以前の時代ではそれらの漢字表記が受け入れられていたのは紛う事なき事実なのだから、明治時代になって変えられたからと言ってそれに則する必要性はないと考えてます。 本来の意味とは漢字から分かるとの趣旨です。ですから簡略化された字では漢字から意味を類推できない。つまり、漢字そのものの意味を失していると言えます。 相手の為ではありません。総じて考え貫いた結果としてこのような表現が良いのではないかと言う意味に於いて、表現をしています。
- staratras
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手書きの手紙(私信)は、他人がとやかく言うべきものではないので、旧字体(舊字體)で書きたいのであれば、それも一つの選択肢でしょう。 ただ、「舊字體」で「現代仮名遣い」というのは、読む人によっては中途半端な印象を受けるかもしれないと思います。 とはいうものの「舊字體」で「歴史的仮名遣ひ」を正しく使うのは相当困難です。(戦前に教育を受けた昭和一桁生まれの両親の世代も今ではもう書けないと言っています。)
お礼
それを言ってしまえば、ある意味どんな表現でも難癖を付けることはできましょう。 飽くまでも私の方針ですからそれに相反するような価値観の方とは文通しておりません。 歴史的仮名遣は平安中期のものを江戸時代に再編したものなので、例え昭和生まれの方でも相当、文学に精通した人間でないと読むことも難しいでしょう。ある意味、古文書のような感覚だと思います。
- Sat_H
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TPOと読み手を考慮したうえで使っていれば、問題ないと思うので、質問者さんの表記を批判しようとは思いません。ただ、何点か少し気になった点があるため、列挙していきます。 1. ただのうっかりだと思うのですが「生う季節」ではなく「生うる季節」ですよね。「生う」に体言「季節」が後続しているため、連体形でないとすこし違和感があります。 2. 新字体は、政府がこの略字を正字にしようと決定したものです。政府が認めていても、新字体は失礼にあたるのでしょうか。 3. 古文書では必ずしもいわゆる康煕字典体を用いていませんでしたが、それでも「康煕字典体」で手書きすべきでしょうか。もちろん、最も使われていた字体ではなく、字源から考えて最も漢字本来の意味を表す字体を使うべきというのであれば、妥当な考え方だとは思いますが、きちんと1字1字の字源を調べていますか? http://tonan.seesaa.net/article/94263474.html 4. やはり旧字体を使うならば、歴史的仮名遣いのほうがしっくりきます。歴史的仮名遣いを古語を書くための仮名遣いと勘違いされているようですが、小学校の教科書に現在も載っている『ごんぎつね』や中学校の教科書に載っている『走れメロス』も、教科書では新仮名遣いに書き換えられていますが、発表当初は歴史的仮名遣いです。 また、歴史的仮名遣いは語源を表記の根拠としているため、「本来の意味が含まれ」る歴史的仮名遣い表記のほうが、質問者さんの「書いている正確な内容を伝える」目的に合致しているはずです。たとえば、「たうげ」(峠)のほうが語源の「たむけ」(手向け)を反映していますし、「おとづれる」(訪れる)のほうが語源の「音連れる」を意識しやすいです。 さらに、「字音仮名遣い」といって、「てふてふ」(蝶々)や「くゎうがく/こうがく」(光学/工学)などの漢字音を表す歴史的仮名遣いもあります。同音異義語の書き分けに役立つうえ、藤堂説によれば漢字音も漢字の語源と密接に関連があります、 https://kambun.jp/izanai/03-10reigu.htm http://koto8.net/toudou/toudou_2.shtml もっとも、歴史的仮名遣いどおりに書いていない例が何百年も前の古文書から多数見つかることから、私は使おうとは思いませんが。 https://kambun.jp/izanai/03-12teichaku.htm 5. コンピューターに入力した新字体を旧字体に変換するツールが無料で公開されているので、ぜひお試しください。ダウンロードせずにインターネット上で利用できるものもあります。 http://www.geocities.jp/qjitai http://www.vector.co.jp/soft/win95/util/se248924.html
お礼
状況を考慮した上での表現であることは言うまでもありません。前提条件です。 助動詞「う」の連体形は「う」のみであるとの認識です。「うる」と言う連体形は寡聞にして知らないですね。 新字体とは政府が漢字本来の意味を度外視して、「単に書きやすいから」との理由で作り出したものであり、漢字本来の意味がそこにない以上、私の方針に反する表現なので礼儀に失するとの意味です。 先にも述べました通り、漢字本来の意味が通る漢字を使っています。別に古文書を書きたい訳でも古文書に書かれている内容が私の方針に合致するとは一言も言ってません。 旧字体を使うなら歴史的仮名遣も同じく使う方がしっくりするとする意見もあなたの私見ですね。 先にも述べました通り、古文書を書きたい訳では更々無いのですよ。 歴史的仮名遣に関しては、今でも使われている仮名遣を採用し、使われていない仮名遣は排する方向で取り入れてはおります。でなければ、読みやすさは更に犠牲になる訳でして、そこまでして歴史的仮名遣にする必要性やメリットはないですし、そもそも手紙であるとの本来の論点から大きく外れた内容であるとの認識です。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
「やよい」という日本語にどの漢字をなぜ当てたかは置いといて、書く方には、好きな字體で書く自由があり、読む方は読みたいものだけ讀む、という自由があります。
お礼
ご回答ありがとうございました。そうですね。基底としてその考えがあると思います。
- msMike
- ベストアンサー率20% (364/1804)
其の考へは獨り善がりかと。 序で乍ら漢字を旧字體とするなら、かなづかひが“新”になつて居るのは片手落ちではないでせうか?
お礼
片手落ちと言う意見ですか。 であるならば、平仮名を大和言葉に変えるメリットは何でしょうか。
補足
大和言葉 + 古語ですね。
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お礼
先述もしました通り、旧字体は「字源に近しい意味を持つ漢字」と言う意味にて使用しているのが私の趣旨であり、彌に関しましても、旁の爾は "判子と紙が近づく象形" を表しており、偏に弓が付くことにより弦が張り渡ることで "行き渡る" と言う意味があり、そこから "草木が行き渡り生える" との意味で彌や生いと言う語がある訳です。 つまり、弥よりも彌の方が言葉の伝え方で言う意味に於ては秀でていると言え、採用した訳です。 ですので、何も最近の字だから使わない訳ではありません。誤解を招くような表現であるのならばお詫びします。