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日本が満州から中国に進出しなかった場合

日本が満州から中国に進出しなかった場合、今でも中国は欧米の植民地だったのでしょうか。いや、租界だらけだったので、中国は実際には植民地ではなかったのでしょうか。そのあたりの各国関係が曖昧です。 日本は満州までで留まって居ればと思っております。

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回答No.5

日本と国民党軍が戦わなければ 国民党が疲弊して共産党軍に負ける事は無かったので 確かに今の中国はなかったかもしれません

special55
質問者

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  • eroero4649
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回答No.4

それがそうさせてくれなかったのが現実なんですよ。当時の中国は一応名目上は蒋介石の中華民国が公式な政府となっていましたが、この蒋介石の中華民国はどうしようもなく腐敗していて、国家の体をなしていなかったのです。 例えば、満州鉄道は日本の管理下になることを中華民国も了承していたのに、満州鉄道に沿って中国人が勝手に線路を引いて、満州鉄道よりずっと安い値段で人を乗せていたのです。すっごいわかりやすい営業妨害ですよね・笑。んで抗議すると「分かった分かった。ちゃんと言っておく」っていうのにちっとも改善されないんです。各地方にはそれぞれヤクザの親分みたいなのがいて、彼らが各地を私的に支配して、勝手に税を徴収して、中には銀行業を始めて国債を発行するところも出てくる始末だったのです。 そういう中で、青島の租界の外国人を馬賊と呼ばれるゲリラが襲って略奪するという事件が起きたのです。中国の警察機構は全く機能していなくて、日本人はもちろん欧米人の多くも殺されたり、略奪されたのです。だから在留邦人を保護するために日本軍が進駐したのです。女性は強姦された上に股間に杭を打たれて殺されていたっていうのですから、そりゃあ日本国民だって「中国人許すまじ!」と激怒するのは当たり前ですよね。今もし中国を訪れた日本人観光客が同じ目に遭ったらと考えるとね。 そういう中で、「一撃膺懲論」というのが高まったのです。中国人を一発殴りつけて、日本人を舐めるなと教えないといかん、という世論が高まりました。 え?私は昭和初期の話をしていますよ。現代の話なんかしていません。 そういう高まりを受けて日本軍が治安維持のために出動するのですが、何分中国はとても広い。追いかけても逃げちゃうのです。それで追いかけるのを諦めると、「やーい、やーい。お尻ぺんぺん」と挑発してくる。もうね、小学生とケンカしてるようなもんです。 中華民国(蒋介石)がなにをしたかったのかは、よく分かりません。それぞれの地域にいた親分たちは何をしたかったのかというとそれは単純に金儲けです。彼らは後に第二次大戦になったときは、アメリカ軍から供与された武器を横流ししてたほどですからね。どこに横流ししたかって?回りまわって共産党軍に行ったらしいです。つまり敵に武器を横流ししてたってこと。いやはや、中国人の金儲けに対する情熱は日本人の理解の斜め上はるか上空です。あまりに武器の横流しがひどいから、アメリカから派遣されていた将軍はルーズベルト大統領に「蒋介石なんかとは手を切ってください」と進言する始末です。 また日本には、本土に手をだなければならないのっぴきならない事情がありました。 世界恐慌とソ連の台頭です。第一次世界大戦によって、戦争はより多くの鋼鉄を必要とする時代となりましたが、繊維業が中心の軽工業国だった日本は重工業が未熟でした。 その一方で、ソ連は五カ年計画でいち早く世界恐慌から脱出して一挙に重工業国として台頭してきたのです。戦車とか大砲をバンバン作り始めたのです。当時の日本の仮想敵国はソ連でしたから、陸軍は相当焦りました。おまけにソ連軍は数も日々増強され、質でも数でも勝てなくなってきたのです。 この迫りくるソ連の脅威と、世界恐慌からの脱出を同時に叶えるのが「軍事主導の重工業化」です。当時の日本には自動車や農業用トラクターなどの需要がありませんでしたので、トラックを作れといっても売れないのでメーカーも作れません。そこで、陸軍と海軍が生産された鉄鋼を利用することで日本を軽工業の国から重工業の国にしようとしたのです。戦車や軍艦を作ることでね。実際にそれで日本は鉄鋼生産量を10倍くらいに増やしたのです。 で、それが中国とどう関わってくるかというと、その鋼鉄の原料とする鉄鉱石の輸入元が中国の大冶鉄鉱だったのです。場所としては揚子江の近くになります。だから、揚子江から船で日本まで運べるから便利だったのです。 そして国運をかけて鉄鋼生産量を伸ばしたい日本にとっては、大冶鉄鉱からのルートが安全であることは必須条件だったのです。だから揚子江沿岸地域の治安は安定してもらわないと日本の国運にも関わったんですよ。 この鉄鉱山のことを書くと「でも朝鮮半島で鉄が採れなかったの?」と思うのですが、なんでも日本と朝鮮半島の鉱石っていうのは鉄に限らず火山地帯のために硫黄分が多くてはっきりいうと質が悪いらしいんです。だから、質のいい鉄鋼を作るには、質のいい鉄鉱石が必要だったのです。 その中国のほぼ真ん中の鉄鉱石供給ルートの治安が不安定だったので、日本軍は治安維持のために出兵せざるを得なかったというのがあるのです。 だからもし日本が中国に派兵しなかったら、鉄鉱石の輸入が安定しないため鉄鋼の生産が伸びず、そのため経済が回復しないため国家財政も軍備も悪化したままの状態で対ソ関係が悪くなっていく(満州を巡って日ソ戦争になる危険が高まる)という、これはこれで悪夢の展開になったかなと思います。

special55
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回答No.3

>中国は実際には植民地ではなかったのでしょうか。 植民地の支配形態にはいろいろありますが、各国は鉄道の権益を手に入れるとともにその鉄道の沿線の地域を占拠する形をとっていました。 各国が次々と鉄道を敷設しては沿線の占拠地域を広げていきました。 この沿線地域にある鉱山などの開発も行い収益を独占していました。 日本の場合は南満州鉄道がこの形式に相当します。 日露戦争の結果この鉄道の権益を日本がロシアから獲得しました。 満州国とは別ですのでご注意下さい。 国の領土全体を植民地とするのとは形式が違いますので分かり難いかと思います。 >日本は満州までで留まって居ればと思っております。 中国であれ台湾であれ国父とされている孫文をご存じありませんか。 日本が満州に留まっていようがいまいが中国は植民地支配から脱していたでしょう。 日本をはじめ諸外国が清朝政府を倒して近代化した訳ではありません。 日本が満州へ進出する以前から中国内部では近代化の動きはありました。 日清戦争後日本には2万人を超える中国からの留学生がいました。 各国で学んでいた学生が中心となって中国の近代化を目指す集団が生まれていました。 日本が満州へ進出する以前に義和団の乱が起きています。 引き続き辛亥革命が起きています。 日本が満州を併合したのも、これらの清朝打倒の動きが日本軍排除の動きと一致していたことに危機感を感じて併合したものです。 満州国皇帝として据えた愛新覚羅溥儀は辛亥革命で追放された清王朝の末裔です。 最終的に辛亥革命を成功させたのが孫文です。 孫文は「日本の維新は中国革命の原因であり、中国革命は日本の維新の結果であり、両者はもともと一つのつながって東亜の復興を達成する」と言っていたとされています。 孫文が建国したのが中華民国です。 孫文は日本に亡命して学んでいましたので親日的でしたが孫文亡き後の中華民国は清朝の末裔である満州国の開放を目指して対峙するようになりました。 当時は毛沢東による共産主義勢力も台頭していました。 毛沢東も清朝の末裔である満州国の開放を試みていました。 日本軍は傀儡政権である満州国を死守するために中国へ侵攻していきました。 欧米が鉄道権益を手放したように日本が満州国を手放さない限り日本軍がどこにいようとも日中戦争は続いていたでしょう。 蛇足 アメリカが満州国にチョッカイを出してきたのは、鉄道権益の獲得競争に出遅れたのを挽回するために日本を追い出して南満州鉄道の権益を手に入れるためです。 黄色人種の新興国の分際で日本が莫大な収益を上げているのはけしからんということです。 最近のトランプ大統領と似たような考え方です。 白人優越主義で国益第一主義を掲げればいつの時代でも同じような考え方になるでしょう。

special55
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  • staratras
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回答No.2

「歴史に"if"はない」と言われますが、思考実験としては興味深いので、あえて考えてみます。 「日本が満州から中国に進出しなかった場合、今でも中国は欧米の植民地だったのでしょうか。」というご質問が、「当時の中国は欧米の植民地だった」という前提であるならば、それは事実ではありません。確かに香港・マカオの「租借地」や上海の「租界」などのように、行政権が及ばず治外法権の地域があり、関税自主権の回復も遅れましたが、そのことをもって「当時の中国が(全体として)外国の植民地だった」と決めつけることはできません。(中華人民共和国になった後も、租借の期限の20世紀の終盤まで香港・マカオは返還されませんでした)  まず、回答者は中国(大陸)の歴史は、古代から現代まで「遠心力(地方ごとの政治権力の分散)と求心力(権力の一極集中)の二つの逆方向のベクトルのバランスの上にある」と考えます。時代ごとにその均衡点の位置が異なり、春秋戦国時代や五胡十六国の時代のような「パッチワークの時代」もあれば、漢や明、清などの統一帝国の盛期のような「一枚織りの時代」もあります。  この視点で1920年代後半の中国を見れば、いわゆる「北伐」の成功や張学良の「易幟」などに端的に見られるように、明らかに求心力の方が優勢となっていった時期です。地方軍閥が割拠する時代から、中央政府による国家統一の時代に向かっていました。国民党も共産党も「一つの中国」を目指していた一点においては同じです。(もちろんどちらが天下を取るかは異なりますが)  この中国の求心力に、「待った」をかけようとしたのが当時の日本であり、1931年の柳条湖事件以降、「満州国」建国に至るまでの一連の動きとして具体化しました。中国政府(国民党)は「日本の武力侵略」であるとして国際連盟に提訴し、リットン調査団が派遣されたことはご存知の通りです。ただこの調査団の報告書は、満州における中国の主権を認め、満州国の独立を否定する一方で、満州における日本の特殊権益に理解を示し、満州に自治権を持った政府を作るというかなり妥協的なものでした。日本がこの「報告書の含み」を理解し、冷静に「名よりも実」の政策を採っていれば「満州だけにとどめて(東北部以外の)中国には武力進出しない」可能性もゼロではなかったでしょう。以下その前提で妄想を交えて考えますと…。 【国民党から見た楽観的シナリオ】 国民政府による東北部以外の中国全土の支配が進み、中華民国の経済はそれなりに成長しました。いわゆる中国の国権回復運動も国力の上昇とともに、現実の歴史より早くその成果が上がり、関税自主権の回復も1930年代に実現しました。一方日本も、中国主要部に武力進出しなかったためアメリカやイギリスとの戦争になることもなく、1930年代から40年代にかけて大きく経済成長を遂げました。 第2次世界大戦はヨーロッパだけで起こり、これに疲弊したヨーロッパに変わり、戦後の世界経済の中心はアメリカと日本・中国の東アジアの、太平洋をはさんだ両岸になりました。1950年にはこの3か国のGDPは世界の1位から3位を占めるまでになっています。この経済成長で豊かになった国民の眼からは、階級闘争を訴える中国共産党の主張は魅力に乏しくなり、山間部で細々と武力闘争を続けるだけの勢力になってしまっています。 【国民党から見た悲観的シナリオ】 国民政府による東北部以外の中国全土の支配が進み、中華民国の経済はそれなりに成長しました。関税自主権の回復も1930年代に実現しました。しかし経済成長とともに社会の貧富の格差もさらに拡大し、農村の貧農層だけでなく、都市部の労働者の中にも共産党の主張を支持する者が増えていきました。 ついに国民党と共産党との武力衝突が始まり、内戦の攻防は一進一退容易に決着がつきません。結局北部は共産党政府、南部は国民党政府が支配することになり、中国は二つに分裂してしまいました。

special55
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  • ithi
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回答No.1

special55 さん、こんばんは。 満州事変以降はなしということであれば、国共合作という運動もあまり実を結ばず、共産党支配というわけでもないでしょうから、混とんとした中国だった可能性もありだと思います。だけど、そういうところを支配する欲に日本軍部が指をくわえて待ってられるかなあ…

special55
質問者

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