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藤原為家の幽玄

「人を猶えやはうらみむ恋そめし心にまさるつらさなければ」 不逢歌37番 左 中納言 という和歌を判詞で藤原為家は「幽玄」と称し、同時代の弁入道真観は「妖艶」と評したようですが、この和歌はおそらく恋愛の気持ちを詠った和歌だろうとはわかるのですが、うまく訳せません。 図書館で本を調べても、ネットで検索してもこの和歌の訳は見つかりませんでした。 どなたか、この和歌を訳して、何が幽玄で、また妖艶とも感じるのか、ご教授いただければ幸いです。

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  • fujic-1990
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回答No.1

 チャレンジします。 「人を猶 えやはうらみむ 恋そめし 心にまさる つらさなければ」  あの人をいっそう  どうしてうらむことができましょうか  あの人を恋し始めたときの  (わくわくドキドキした)気持ちよりも大きな  つらさはないのだから  詠み手は中納言らしいので実際は男性なのでしょうが、歌は女性のイメージですよね。それも、乱れ髪の幽霊が、井戸のわきか柳の下で、捨てた男のことを忍んで歌った歌という感じです。  恨みたいのに恨めない・・・ 愛した人は貴男だけ、となると、演歌にもなる女心の歌ですから。  この歌が歌われるまでに、二人(片方は幽霊)の間にあったであろう幸せな時間、二人による「濡れ場」までが想像されて、妖にして艶です。  また、表現が「あんな男きもい!大嫌い」とかいう明快・直截的な表現ではなく、暗くぼんやりした表現の中に、この詠み手(女性)の悲しみが深く表現されているので、それが「幽玄」と評されたゆえんだろうと思います。

amenhotep2000
質問者

お礼

fujic-1990さん こんばんは。 ご回答ありがとうございます。 fujic-1990さんは、するどい感性の持ち主と思われ、回答内容に感謝しております。 藤原為家により、和歌の中における「恋の歌」にも幽玄という言葉が判詞に加えられるようになったそうですが、 「幽玄」とはなんぞやというと、 直訳すると「幽(かす)かに玄(ふか)し」であって、沈潜(非常に深い)で縹渺(かすかではっきりせず広く限りのないさま)であるなどと、とらえどころのない、ウナギのような言葉に感じております。 もちろん言葉ですから、時代と共に意味が変わり、和歌では表現のひとつの型でしたが、能においては、幽玄がすべてとなったようです。 fujic-1990さんの訳には、妖艶も幽玄なりということが良く現れており、悲しみも幽玄であるという解釈には、考えさせられるところがあります。 為家の後の冷泉派の歌人の正徹という人は、 「幽玄とは心の中にあって言葉では表現できないものである。」 と言ってますから、幽玄は実際に和歌や能を鑑賞して、自分で感じるしか手段はないのかもしれません。 そうした中、和歌を、まだうまく訳せない、私にとってfujic-1990回答には助けられました。 そんな幽玄に対して、他に違う解釈をする方がいるかもしれませんので、もう少し開けておきます。 とにかく、fujic-1990さんの、ご回答には非常に感謝いたしております。