コインキデンチア・オッポシトールム
・ coincidentia oppositorum
・ coincidence( unity ) of opposites
・ 対立物の一致(合一・統一)
これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。
この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。
中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。
▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~
( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。
( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。
( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。
( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。
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☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。
ただし
▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。
☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。
( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の
▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。
☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。
ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち
( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは
▲ 無限の中では
☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。
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たとえば
(α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。
といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。
(β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。
と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。
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あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち
(γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?)
これは 一般に
(γ‐1) 矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。
とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか?
またもしその
(γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。
といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。
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この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで
(δ) 絶対矛盾的自己同一
という表現として打ち出されたそうです。
このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。
(ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。
とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。