「同調圧力」について
およそ集団や組織とするところに、真の協同(協働)などないと思います。
もしそれを実現したいのなら逆説的に「仲良し」にはならないからです。
そのためには「他人の考えを受け入れる」という、人間にとって最も抵抗のあることを超えた賢者でなければなりません。
自分と同じ考えの人間(似たような人ではなくコピー的な)がいないかぎり、人と関係していく以上、意見の対立は免れません。
その考えや想いを直接伝えることのできない関係であり、さらに強く反発する分、そのストレスが内部に向えば、自分と相手への怒りとして鬱積します。それがさらに対立という悪循環を生じるでしょう。
ある特性を持つ組織(家庭から会社、政党まで)の目的(組織としての生産性や創造、改革や幸福など)が本当にそれを実現したいのであれば意見の対立を恐れることはないはずです。
しかし互いに本音を隠し、ウラで陰口をいう分、オモテだけ仲間面すれば偽善的な関係になります。また彼らをオモテを見ただけの第三者がその個人なり関係について「いい人」「仲がよい」などという欺瞞者の評価で、さらにその関係性は助長されていきます。
政党を例にとれば、党の理想に、党員全部の考えが一致するわけではありません。
たとえば現在問題化されている戦争法案は、自民党員すべてが賛成しているとは思いません。むしろそれだけは絶対反対という人もいるはずです。
このような全体に対する突出した疑問が生じても「今いる場所」にその一部として何の疑問も葛藤ももたなければ心理的には同調圧力に屈しているということなのでしょうか?
(意識化できるが現実的な問題で離れることはできないということとは別に)
同調圧力という悪しき社会心理が前提(というより集団における特性)である集団というものにそれほどまで個人がしがみつくのでしょうか?
個人も全体も悪くしてしまうこの社会心理に毒されないためには?
同調圧力についての考え方や経験、観察を述べてくだされば幸いです。