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多様性という同調圧力
多様性という同調圧力が多様性を否定するという自己矛盾に落ちているような気がします。 ご意見ありましたら、お聞かせください
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寛容のパラドックスのことをおっしゃっているのかと思います。 「もし社会が無制限に寛容であるならば、その社会は最終的には不寛容な人々によって寛容性が奪われるか、寛容性は破壊される」 ゆえに「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」という矛盾 以下、Wikipediaの記事(tinyurl.com/2p9644f6)より抜粋です 無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く。もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。――この定式において、私は例えば、不寛容な思想から来る発言を常に抑制すべきだ、などと言うことをほのめかしているわけではない。我々が理性的な議論でそれらに対抗できている限り、そして世論によってそれらをチェックすることが出来ている限りは、抑制することは確かに賢明ではないだろう。しかし、もし必要ならば、たとえ力によってでも、不寛容な人々を抑制する権利を我々は要求すべきだ。と言うのも、彼らは我々と同じ立場で理性的な議論を交わすつもりがなく、全ての議論を非難することから始めるということが容易に解るだろうからだ。彼らは理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない。ゆえに我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を。 さらにこちらも興味深いと思います。(同ページ続き) 寛容と不寛容が対峙するときには、不寛容ははじめから終わりまで躊躇なしに暴力を用いるのに対して、寛容の武器は説得と自己反省しかないとして、寛容は常に不寛容に対して無力であり敗れ去るものである[...]。さらに、不寛容は手っとり早く、容易であり、壮烈であり、男らしいように見えて、寛容は忍苦を要し、困難で、卑怯にも見え、女々しく思われるので、不寛容には寛容よりも魅力がある[...]。また、普通人と狂人の差は自身がいつ狂人になるか反省できるかどうかとして、秩序維持に当る、現在の秩序から安定と福祉を与えられている人々は、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきである[...]。渡辺によると、「自己批判」を自ら行わない人は「寛容」にはなりきれず、「寛容」のなんたるかを知らぬ人は「自己批判」を他人に強要する[...] 個人的に同意するものを引用しましたが、これらを踏まえた上でのご質問だったのでしたら失礼しました。
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- g27anato
- ベストアンサー率29% (1166/3945)
多様は知覚で認識される。 多様は認識するだけの事なんだけど、 認識以上の事まで「要求や圧力」を加えるから矛盾する。 認識は自由なのに「否定や阻害」するから矛盾する。 多様性とは、 認識という事実でしかなく、 事実という認識でしかない。
お礼
貴重なご意見ありがとうございました
- ノーバン(@nobound)
- ベストアンサー率13% (294/2108)
そろそろ参院選に向けて、討論が始まる様相ですが、9党多様性が重要と言われて、9人分同等にまた意見を聞きますが、まあ自公民の現実路線はわかりますが、対比するのは、中道保守と言われます。 中道保守とは何なのか、立憲民主党なのか、維新なのか、国民民主党なのかがよくわかりません。自公民は余裕があるので、野党のダメさを指摘しませんが、今の政治問題がダメなのは、ずっと自民党(シルバー民主主義とも言われます。)だとすると、二大政党になるとどう変わるのか、ずっと自民党ではどこがダメなのか、野党どうしで、侃侃諤諤し合って鋭い指摘をしてほしい。
お礼
政治に絡めたお話ありがとうございました
- Don-Ryu
- ベストアンサー率24% (256/1051)
私も今の時代の「多様性」には少し違和感を覚えます。 多様性の行きつく先は、 「殺人だって多様性」にもなりかねないと思います。 また多様性の中にも何かしらの序列や階級意識みたいなものがあって、性的マイノリティは上位扱い、勤め人の働き方については下位扱い、 世にもてはやされている「多様性」のみがやたらと「格上」扱いみたいにも見えます。 多様性をいいことに、性的マイノリティにはほとんどセックス中毒まがいの行動をする人が目立ちます。あんたそれノンケの男女がやったら普通に軽蔑される行動だよ、性的マイノリティなら許されるとでも思ってるの?と思う時もあります。 多様性=自己責任ですよね。 そして自由には必ず責任が伴います。 「多様性」を正しく教えること、 多様性ったって、ものには限度があること、 行き過ぎた多様性はそれも悲劇の原因になるということ、 多様性は自分の目の前の責任から逃げる口実にはならないこと、 それが今の時代の何だか信用できない、学校の先生なんぞに出来るもんかなあ・・・?とは思いますね。
お礼
私も違和感を覚えてる人間です 知り合いに多様性を口にする人がいるんですが、その人は自分が排他的な発言をしている自覚が無いようで 口にしたとたんふっと消えそうなそんな感じで 貴重なご意見ありがとうございました
- DAMSAREX
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「多様性が大事という集団的思考=思考の同一性」だけがグングン育ち、そこには本当の多様性はなく、全員多様性を理解していないのにも関わらず、なぜか集団は多様性ばかり推奨していて、その状態を肯定してもいる。 いつの間にか「多様性はどこにも無くなっている」ってことですか?
お礼
正確にいうと僕の質問自体も自己矛盾をはらんでいます また、多様性というものについて私もイメージで語っている側面があり、何も偉そうな事は言えない感じもあり >いつの間にか「多様性はどこにも無くなっている」ってことですか? 今は消えかかってると思います 貴重な意見ありがとうございました
- sknbsknb2
- ベストアンサー率38% (1158/3030)
「多様性を認めない」という立場も人のあり方の一つだから、多様性と言うならそれも認めなければいけない、ということですか? 多分、多様性を認められる人は、多様性を認めない人を認められるけれど、多様性を認めない人は自分が多様性の一部であるにも関わらず、それを認めないと言っている。つまり自己矛盾に落ちているのは「多様性を認めない」と主張する人のほうだと思います。
お礼
多様性を認めている人は他人にそれを求めないと思うんです 他人にそれを求めた時点でそれは同調圧力になってしまい、多様性が消えてしまう感覚というか 貴重なご意見ありがとうございました
お礼
>寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を。 矛盾するようですが、これが現実解でしょうか 貴重なご意見ありがとうございました