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国語の教科書参考書を使った勉強法について
以前から疑問におもっていたのですが国語教育、特に現代国語の上で、教科書や参考書は必要なのでしょうか。基本的に読み書きの能力がつけばいいのだから図書室で適当に分野別の本を選ばせて要約させ感想、論文等を書かせれば十分力がつくように思います。実際その方法で高校2年生の冬休みの2週間で偏差値30台から50台に更に受験の追い込み期に60くらいまであがりました。個人差は確かにあると思いますが、文章の一部を抜き出し音読させて学力がつくとは到底思えませんが、学校での授業はそうしたものでした。塾でも教えられるときも同じようなことをやらされていました。実際教える立場で勤めていたときもそうでした。そこで質問ですが一般的に行われている国語の勉強法というのは果たして有効なのでしょうか、質問します。
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- chibuchibu
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No1で意見を述べさせていただいたものです。 まず、「国語」という教科に関してですが 現実問題として、中学校、あるいは高校で学ぶ国語 というのは >国語を勉強する最大の目的は、社会人として困らない程度の日本語能力を身に付けるだと思います。 ではありません。 現在の学校教育は、全て「大学入試のため」の教科 なのです。 それは、数学でも物理でも社会でも同じであると思います。 もしも、本当の意味で「社会人として困らない」 というのであれば、国語では、敬語表現について 社会では第二次世界大戦以降の世界情勢と日本の政治について 最も力を入れて教育されるべきだと思いますが 実際にはそうではありません。 数学、理科は私に知識がありませんのでわかりませんが 理系科目に造詣の深い方なら、同じように疑問に 思われているところがあると思われます。 ですので、国語という科目に関して 「答えがたくさんある」「人によって解釈が違う」 ということはありえません。 正しい解法によって、唯一の答えが見出されるのが 国語、という「科目」なのです。 その国語という科目(国語の入試問題)が 「解ける」ようになるために使う教材が 国語の教科書(あるいは参考書)なのです。 国語は、ゆえに最も論理的な科目であると思います。 作者も意図しないような設問に対して ただ一つの解答を見出すには、誰もが納得するような 論理が必要だからです。 実際の教育現場では、教える側が必ずしも その意図を踏まえて教えているわけではないので 混乱が生じているのだと思います。 例えば、長文を読む場合に「受け取り方は様々」ですが「答えは一つ」です。 生徒のレベルによっては、興味を失わせないために 「さまざまな受け取り方」を尊重する場合もあるようです。 また、生徒のレベルが高いほど 「自分の感性」と「国語の解」は違う ということが理解できるので、このような混乱が 生じることは少ないようです。 これは、母国語である、ということから 全ての人間がある程度、文章を自分の常識や感性で 判断してしまうことが原因です。 中学や高校で始めて習う古文や漢文などでは このような混乱は少ないでしょう。 (だから、質問者さんも、「特に現代国語で」と おっしゃっておいでなのだと思います) 国語という「科目」の「問題を解く」ことが 重要なのかどうか、という点に関しては 私などが高校の時に勉強した「有機化学」が 私の人生にとってどれだけ重要なのか という問いに似ているような気はしますが 少なくとも「学校の教科書・参考書」は 「国語の問題を解くためのもの」ですので このような内容になっていると思います。 蛇足ながら、私は学校の教科書や授業だけで 現代国語の入試問題にも、国語本来の勉強にも 十分役に立ちました(偏差値だけでいうなら 大手予備校その他が開催する全国模試などにおいても国語の偏差値が70を下回ったことはありません)が 公立学校においても、その教材を使う教師の力量は 大きいと思います。
- siawase611
- ベストアンサー率18% (4/22)
文学部日本文学科の学生です。 国語の勉強とは漢字はもちろんなのですが、やはり物語を読み、それをどう読みとるかだと思います。 ストーリーを読み取るのではなく、筆者が物語り以外の要素を必ずや書いているのでそれを、読み取る。 いわば文学テクストでしょうね。 筆者は物語のなんらかの想いをのせて描いています。 それが分からないと論述はキツイと思います。
お礼
回答有難うございました。質問者のレベルでは回答の内容が一義的に解釈できなかったので補足しておきました。失礼だと思いますがもう少し分かりやすく具体的な表現で書いていただけると私にもわかると思います。
補足
実は質問者の回答の意図が正確にに読み取れません。そこで読み取れた範囲内での補足をしたいとおもいます。 おそらく、行間を読むような重たい読み方についての文章に対する回答だと解して補足させていただきます。 読書する場合、情報分析のようなさまざまな背景から妥当な内容を読み取るというのはあくまで例外的な事象に属し、研究職でなければ年がら年中そのようなことはしないでしょう。 勿論特に興味を持ったレベルについて周辺資料を紐解くというのは別に教えてもらわなくても大卒レベルであれば難しいことではありません。しかし高校生に対してもきついことだと思います。 回答者の回答についてもう一つのほそく。 作者の想いが分からないと論述は困難とのことですが。 論述は、世間一般の解釈に対して自分はどのように解釈するかとオリジナリティーをちりばめながら常識的に主張する作業に過ぎないので、作者の本当の作成意志については、一般的解釈の範囲で理解できれば十分事足ります。 純粋な個性的意見は、公的な場面では問題にならないと教えておけば十分です。評価の際その点を説明しておけば子供も納得するでしょう。 所詮、作者以外の解釈というのは作者の解釈とは違います。野坂昭如の娘が学校で父親の作品について父親に答えを聞いたところ学校の回答と違っていたというのは有名な話です。従って作者の思いは自分が解説していない場合客観的事情から推測するしかないわけです。 又論述については、作品から読み取れる一般的解釈が読めれば沢山なのですから、それほど高度なことを教育レベルで要求しているわけでは有りません。
- kirinzi
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第一は教える側の都合。 第二にはすべての生徒に積極性と技量があるわけではないということ。
お礼
回答有難うございました。 確かに簡単に言ってしまうとこうなってしまうと思います。しかし不幸にして言葉の不自由な人を除けば日本語を使えているわけですから技量の問題ではないと思います。
- chibuchibu
- ベストアンサー率42% (139/329)
国語力をつける、という意味では >図書室で適当に分野別の本を選ばせて要約させ感想、論文等を書かせれば十分 だと思いますが、偏差値60ほどお持ちであれば おわかりになると思いますが 図書室にある本(文章)の中にも 良文、といえるものとそうでないもの が あると思います。 大量にある出版物の中から 良い文章の載っている本(良い文章を書く作家)を 「選ぶ」力を、まずつけなくてはなりませんね。 次に、感想を書く前に、その本を読むだけの語学力も必要になります。 例えば、中国語の知識のない私は いきなり中国の名作を読め、と言われても無理です。 私は、国語の教科書、あるいは参考書というのは 良書のガイドブックだと思います。 従って、一部の抜き出しでも構わないわけです。 もっと読みたい、と思えば図書室で読めばいいし 何を読んでいいのかわからない、ということであれば 教科書に載っていた文章を読めばいいのです。 次に、文章の構成を知ることも、長文を読み解く上で 必要な知識であると言えます。 論文なら、筆者の見解、具体例(検証部分)、それを踏まえての考察、など文章構成にはある程度決まりがあります。 序論、本論、結論、というものです。 それを意識して読むのと、手当たり次第読んでから 理解するのとでは、差があると思います。 また、小説などでも同様に、情景描写には心象風景の 役割もあること、行動、セリフからその時の登場人物の心理を推察すること、などは、一部の抜粋でも 学ぶことはできます。 数学の世界で有名な話なのですが、昔、中学生時代に数学の才能豊かな学生が、家が貧乏なために高等教育を受けられず、中学校の先生は大変にもったいない、と思いながらも彼の指導にあたっていた。 彼は、中学卒業後も働きながら自力で研究を続け、 数十年後に恩師の元を訪れ、「二次方程式の解」についての論文を提出した。それは、彼が中学生当時にはなかったものであったが、今では中学一年生の教科書に載っているものであり、それを独自に見出した彼の才能はやはり素晴らしかった、と恩師は感心すると同時に気の毒に思った、というものがあります。 (細かいところは違っていると思いますが、そんなような話しです) つまり、国語においても知識として知っておくべき文章構成のパターンはいくつかあり、 多くの本を読んでそれを自分で見出すことよりも 教科書を使ってそれを学ぶ方が効率がよい、ということはあると思います。 どんな科目でもそうだと思いますが、 自分で法則を見つけ出すことは難しいです。と同時に、教科書あるいは参考書だけでは 本当に必要な力も身に付かないと思います。 「教わること」と「学ぶこと」 両方が必要だと思いますが、いかがでしょうか。
お礼
補足の意見では自分の意見を結構きつめの事を書きましたが、回答の内容それ自体は質問者のへたくその文章と違い大変立派なものでどうもありがとうございました。とても感謝しています。
補足
少し内容が極端ですが、私は小学校6年生のとき学校で教えられたわけでは有りませんが普通に新聞の政治欄社会欄を読んでいましたが通知表は1でした。 個人の能力には偏りがあることも事実ですし、成績向上の裏には、学校で勉強する国語は一般的に文章はどう解釈されるかということに問題集の答えを見ながら気がついたことでした。恐らく教科書を読んでいただけでは多分大学に進学できなかったと思います。 実際教科書の文章は、作者の全体的な意図を取るには余りにも短すぎるし、文章は人間の成長に伴って解釈も変わるということを教えてくれるわけではありません。特に人間は千差万別で好みが分かれます。それを画一的に教えようとしても、それは無理というものでしょう。 又、悪文ですが、何をもって悪文とするかですが、子供のときはわかりにくい文章が悪文であったはずです。私は今でも余程興味がわかなければ文語体の文章は読み飛ばします。又、内容についての悪文ですが全ての文章には書かれた背景がありそれを理解したうえで解析すれば何も問題はありません。又選んだ本が失敗したと思えば別の本を読めばいいのであって、教科書のようにつまらないと思ってもても必ず最後までやらなければならないというものではないと思います。 要は、ひらがなを覚えてしまえば読み仮名をふった本を与え、更になれてくれば普通の本を与えれば普通に読めるようになります。その後自分の文章解釈を表現できるようにしてやり、その後進学に必要なテクニックを教えれば社会生活に困らない程度の読解力を養うことはそれほど困難だとは思えません。 あくまで個人の経験的な方法論なのですが、自分が納得するまで自分のペースで自分で調べながら学習する方がはるかに勉強が楽しく意義深いものだと思います。 後、揚げ足を取るつもりはありませんが数学と国語はかなり方法論が違うと思います。 国語を勉強する最大の目的は、社会人として困らない程度の日本語能力を身に付けるだと思います。そしてその教材は、新聞、雑誌、単行本、インターネット、テレビ、ラジオ等でもいいわけです。 しかし、数学の場合今の教科書は余り体系的でなくローマ文字とか使うので好きではないですが、概念相互間の連携を図る必要があり一定の体系的教材は必要となります。
お礼
回答有難うございました。目的に対する哲学が異なりますので、意見が一致しないのは当然です。ただ貴方の言うように大学受験のためだけに初等中等教育の国語教育があるとすれば、大半の教師は失格となるように、大半の教科書も語彙、分量、演習量何れも不足してるように思います。又肝心の国語の問題の解き方自身教科書には乗っていませんから、貴方は才能に恵まれていた、教師運に恵まれてたのいずれか或いは両方であったのでしょう。それに対し私を含めた大半の人間は何れにも恵まれていませんから貴方の言っていることは一般性に欠けている思いますけどね。 いずれにせよ、教育論は別として国語という教科も、条件を限定した仮説に基づく検討を行う科学であると知ることが出来たことは有意義でありました。有難うございました。