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日本政府が日ソ共同宣言に署名した理由
- 日本政府が日ソ共同宣言に署名した理由を探る
- 日ソ共同宣言により、歯舞群島及び色丹島の返還が実現
- 自民党政権による混乱が影響した可能性
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#2です。 >でもだったら、日ソ共同宣言に関して2島のみの返還を書いてしまうのではなく、「国境の策定については今後協議する」とでもぼかした方がまだよかったように感じますが…。 そうですね、どんな事情があったのか、知りたいところです。 実は、先の回答で毎日新聞の2016年10月19日付け社説「日ソ宣言60年 意義と限界を踏まえて」を書きましたが、途中で端折っています。 以下、社説を引用します。 毎日新聞の社説は当時「日本固有の領土が占領されたまま国交回復交渉が妥結されたということは、国民のだれも不満にたえないであろう」と批判している。 (ここまでは前回の回答で、以下続きの箇所です) 共同宣言は第9条で、歯舞群島と色丹島を日本に「引き渡す」と明記したが、「平和条約が締結された後に」と条件がつけられた。また平和条約交渉の継続にあたって「領土問題を含む」という文言の挿入を求めた日本側の主張は退けられた。このあいまいさは「択捉、国後、色丹、歯舞の帰属を確認して平和条約を締結する」ことを明記した93年の「東京宣言」が補完する形になった。(引用終わり) 領土に関するこの交渉の過程が朝日新聞記事で少しだけ分かります。 記事をできるだけ忠実に書きます。 北方領土については、平和条約締結後にソ連は歯舞・色丹を返還すると明記されたが、国後・択捉は玉虫色の決着となった。 ソ連は宣言案を「領土問題を含む平和条約の締結交渉を継続」としていたが、国後・択捉の継続協議は避けたいと、土壇場で「領土問題を含む」の削除を要求。 日本は、日ソが別に交わしていた書簡に「領土問題を含め平和条約交渉を行う」とあるのが「今後の足がかりになる」とし、この書簡を同時公表することで削除に応じる。だが、一部で「譲歩」とも批判された。 共同通信記者として同行取材した酒井新二は「ソ連の解釈寄りに報道されることを日本政府は懸念していた」と語る。 酒井は読売新聞の戸川猪佐武、首相秘書官の若宮小太郎と「裏記者懇談」のような情報交換の場をもっていた。若宮は、妥結内容にメディアや世論がどう反応するか二人に意見を求めつつ、最後はこう言った「我々は我々の解釈を発表する」。 1956年10月20日(宣言に署名した翌日)の朝日新聞の社説には「ハボマイ・シコタンの引渡し時期は、はるかに遅れることになった」「最も重い荷物は、後から出て来る内閣の仕事にそのまま残した」。 ただ、交渉の資料からは、河野一郎農相らがぎりぎりの交渉を重ねた様子が読み取れる。 河野の元秘書石川達男が2005年に「政治記者OB会報」で公開した日本側通訳の詳細な交渉メモによると、フルシチョフ共産党第一書記は「日本人たちは何て頑固なのだ」と漏らしている。 フルシチョフは河野に、歯舞・色丹の返還は米国の沖縄返還を前提とすることまで要求。これに河野が必死に抵抗した場面も、メモにある。(記事引用終わり) 日本も頑張ったのですね。 上記の記事の中に、“土壇場で「領土問題を含む」の削除を要求”とありますが、調印の前日のことです。 調印当日、フルシチョフは東欧反乱対策で不在でした。フルシチョフは、自ら始めたスターリン批判が、東欧の反乱に飛び火して、保守派による巻き返しも起こり、対日交渉上の立場を弱めていたそうです。 フルシチョフも国内では守勢で、必死だったということですね。 また、上記の中に“この書簡を同時公表することで削除に応じる”とありますが、これは松本俊一と第一外務次官グロムイコの往復書簡のことです。日本側は「領土問題」が存在しているとこの書簡を解釈したのですが、これがその後の平行線の始まりだったそうです。 この往復書簡の内容を私は未確認です。 続々と疑問は出てきますが、なかなか難しい問題で私の手に負えません。
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- tenten15
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日本の首相が、いの一番で時期大統領に会え←世界の注目を浴び(世界中が、晋三君に、話の中身を聴きたがった) 併し、実際は、トランプ氏からは、そんなに重要人物とは認めて貰え無かった事が明らかになり、 あからさまに、アメリカに反旗は表明出来ないので、→表面上、ロシアへ軸足を向けた様なそぶりを見せつける 必要が有ったのでは無いか? --- トランプ氏にとって(ロシア・中国)と日本を天秤に掛けた時、日本はそれ程重要では無いと(多寡を括られて居る)と思う。
お礼
ありがとうございました
補足
質問と全く関係のない話ですね…。安倍晋三とかトランプとか全く関係ありませんよ。質問の対象は1956年の話です。 別の質問への回答と間違えているのではないでしょうか。
- g27xxxxx
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2島返還論 …自民党の中に4島返還を強硬に唱える勢力が存在します。(過去も現在もです。) つまり2島返還で妥協する選択肢は、今のところ自民党政権には無いと言っても良いのです。 当時は将来に向けての4島返還に望みを繋ぐ目的で、2島先行返還という形を選択する形の妥協を図ったのです。 プーチンには一度手にした領土を、例え一島でも手放すという意識は毛頭有りません。 日本の4島返還という望みを全面に押し出せば、その場で交渉は決裂します。 今回の会談の裏で、日本は大失敗を犯しています。 日本に北方領土を返したら米軍基地ができるという印象を、日本の側から伝えているのです。 ロシアにとっては絶対に返還できないという話になってしまってるのです。 ですから今回は北方領土の話はできませんでした。 結局のところ話は一歩どころか数百歩も後退して、 新たなスタート地点を設定するのでもなく、 スタート地点を探る為の、信頼関係を築くところから始めなければならなくなったのです。 共同宣言の頃の日本はまだ、敗戦国として戦争放棄の姿勢を堅持してました。 ソ連も北方領土の経済的重要性に気づいてませんでした。 そこでソ連としては安全保証の面から、将来的な平和条約交渉に向けての前段階として、 *共同宣言という形で、「2島だけ」の返還を交換条件に持ち出していたのです。 *当時の日本は「4島返還」が大前提で、あくまでも2島は先行返還だという望みを捨てていませんでした。 …いかがですか? あの当時から双方の意識に微妙な食い違いが有ったんです。 米ソの冷戦時代から現在まで、 今でもロシアは米軍の北方領土進出を恐れています。 その不安が拭いきれないうちは、たとえ1島でも現状のまま返還という話にはならないのです。
お礼
ありがとうございました
- kouki-koureisya
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新聞・雑誌で読んだ程度の知識しかないですが、まとめてみました。 日ソ交渉の焦点は「領土」だけではなく、「抑留者の早期帰国」「日本の国連加盟」「漁業問題」も重要課題でした。 これらの中で、「抑留問題」「漁業問題」の解決は緊急を要していました。 鳩山一郎は自身の回顧録で次のように述べています。 「一部に択捉、国後を取らないうちは断じて日ソ復交はすべきではないなどと言っている人のいることも知っていたが、それこそ抑留者のことなど少しも念頭に置かない非現実的な考え方だ。領土は何年たってもなくなることはないが、人の命には限りがある」 次に、毎日新聞の2016年10月19日付け社説「日ソ宣言60年 意義と限界を踏まえて」を引用します。 1956年に鳩山一郎首相とブルガーニン・ソ連首相が調印した共同宣言は、苦しい妥協の選択だった。 日本は51年にサンフランシスコ講和条約に調印し、米英仏などとの戦争状態を終結させたが、ソ連は調印しなかった。戦犯とされて最後までソ連に抑留された人々を帰還させ、日本の国連加盟を実現するためにソ連と国交を回復する必要があった。共同宣言の意義はそこにある。 一方、限界もあった。領土の画定には合意できなかった。当時の複雑な国際情勢や、政治対立で国論がまとまらなかったことが背景にある。 吉田茂前政権の対米重視路線から脱却を目指した鳩山政権に、ソ連側は歯舞群島と色丹島の「2島」引き渡しの妥協案を示した。当時の最高権力者だったフルシチョフ第1書記には、米ソ冷戦下で日本の中立を画策する意図があったとされる。 だが与党・自民党内の前政権派勢力や世論には国後島、択捉島を含む「4島」返還を求める声が強く、対ソ接近を警戒する米国の圧力もあって、領土問題の解決は見送らざるをえなかった。毎日新聞の社説は当時「日本固有の領土が占領されたまま国交回復交渉が妥結されたということは、国民のだれも不満にたえないであろう」と批判している。 外交には裏話がつきものですが、日ソ交渉がロンドンで始まる際、外務省の方針は、「北方領土は歯舞・色丹返還が交渉妥結の最低条件として規定されていた」(米公文書)そうです。 交渉過程でソ連が予想外の、歯舞・色丹を返還する譲歩案を出してきました。 しめたと思った全権代表の松本俊一は外務省に報告するが、外相・重光葵は首相の鳩山に伝えなかった。親米の吉田派や外務官僚らが混乱させた、そうです。 そこで、外務省は一転して4島一括返還に方針を変更しました。 これは、復交反対派(吉田茂ほか)が2島から4島にハードルを上げ交渉を膠着させる狙いであった、とのことです。(以上、朝日新聞記事から抜粋) >もしも「とりあえずの2島」でも不満という事なら、「2島だけを返す」などという日ソ共同宣言に署名すべきではなかったと思います。 米ソ両大国の間にあって日本の主体性をおし進めることもままならず、究極の選択で署名に踏みきったのでしょう。 その結果、国連加盟を果たし、抑留者の帰国も実現でき、漁業交渉も軌道に乗ったわけですから、これらの解決と引き換えに領土で妥協(問題の先送り)したと、言えないこともないですね。 下記資料は参考になると思います。 参考資料:大阪日ロ協会・講演会「日ソ共同宣言60周年」 藤本和貴男(大阪日ロ協会理事長、大阪経済法科大学学長) http://www.jic-web.co.jp/study/jclub/pdf/info188_02_09.pdf#search=%27%E6%97%A5%E3%82%BD%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%AE%A3%E8%A8%80+%E6%8A%91%E7%95%99%E8%80%85%E5%B8%B0%E9%82%84+%E9%A0%98%E5%9C%9F+%E5%9B%BD%E9%80%A3%E5%8A%A0%E7%9B%9F%27
お礼
つまり…平和条約を締結したら戦争が終わってしまう、国境が確定してしまう。領土問題の解決を見送るため、交渉の余地を残すために平和条約を締結しなかった、ということですかね。 また、自民党内で対立していて結論を出せなかったから、先延ばしにせざるを得なかった、平和条約の締結ができなかった、ということも大きな要因のようですね。 でもだったら、日ソ共同宣言に関して2島のみの返還を書いてしまうのではなく、「国境の策定については今後協議する」とでもぼかした方がまだよかったように感じますが…。 資料参考になりました。 ありがとうございました
- ithi
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pringlez さん、こんばんは。 日ソ・日露間の平和条約締結交渉 | 外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo_rekishi.html 日ソ共同宣言(1956年) 歯舞群島及び色丹島を除いては、領土問題につき日ソ間で意見が一致する見通しが立たず。そこで、平和条約に代えて、戦争状態の終了、外交関係の回復等を定めた日ソ共同宣言に署名した。 →平和条約締結交渉の継続に同意した。 →歯舞群島及び色丹島については、平和条約の締結後、日本に引き渡すことにつき同意した。 あと、シベリアに抑留されていた人たちを日本へ返還しなければならなかったからだと思われます。 それから、ソ連はこれをアメリカとの関係を引き裂く道具として使っている経緯があるので、あくまでもロシアの友人であることを求めているような文章ですので、このままでは4島どころか、2島の自治権だって危ないです。 日ソ共同宣言 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%82%BD%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%AE%A3%E8%A8%80 シベリア抑留 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99
お礼
ありがとうございました
お礼
ざっくり言うと、文言を追加させたり削ったりの駆け引きの産物、ということなのでしょうかね。 だからその結果の文章をよく読んでもどっちなのかよくわからないのですね。 「深く掘ってもよくわからない」ということがよくわかりました。 ありがとうございました