• ベストアンサー

陸蒸気に乗った女性客は。

新橋・横浜間に鉄道が開通したのは明治5年(1872)です。 その翌年、明治6年の1年間の乗客数は、ざっと143万人だそうです。 (明治7年1月13日 「郵便報知」による) どんな女性客がいたのでしょうか。 例えば、皇族、貴族の妻、町人・商人など一般人も乗車したと思います。 新聞や雑誌で取り上げられるなど、何か記録はありますか。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Kittynote
  • ベストアンサー率84% (32/38)
回答No.5

またまた断片情報ですが、二つ追加です。 当初、津田梅子氏は候補に有りましたが、仮開業前の渡米ゆえ、 除外したのが間違いのもととの反省から、 改めて編者タイトルに惑わされず、明治六年の見直しをしました。 〇『新聞集成明治編年史.第二卷/新聞集成明治編年史編纂会編/林泉社/1940』 ・明治六年二月(皇紀二五三三/西曆一八七三) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/31 <31/317>(13頁2-5段目) 〔二・一八、東京日日〕府下下谷池の端七軒町林某なる者、妻子を伴ひ、 本月二日午後第五時汽車に乘らんとして、新橋ステーシヨンに至る、 時既に發車の期也、札を求めて遽しく神奈川下等の室に入たり。 然るに二才六ヶ月の小兒見へず、あはやと云へる間に走車鳥の翔るがごとし。 車中の母姉涕泣燃るがごとし、林氏之を説諭し、一息間にして品川に着し、 下乘してステーシヨンの官員に就て、前顯を告げ、其所置を請ふ。 官員之を諾ひ、衆員爲に盡力し、直に電線を以て新橋に通ず。新橋此信を得 て左右を尋ね、遂に番小屋に於て之を見當り、其報一瞬間に品川へ通ず。 其父母手の舞、足の踏所を不知、立て次車の至るを待のみ。 然るに次車至れば靜岡縣の士族寺田某、小兒を介抱し來つて林氏に授く、 親子再生に逢ふの歡びを爲せりと。…(後略)… ・明治六年六月(皇紀二五三三/西曆一八七三) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/51 <51/317>(52頁3-4段目) 〔六・─、新聞雜誌一〇四〕頃日橫濱ヨリ一婦人小兒ヲ寢サセ、 蒸氣車ニ乘テ東京品川質渡世三浦屋方エ來リ、 事調フテ歸濱セルニ漸ク二時間ヲ過ギズ、小兒未ダ目ヲ覺サズト云。 No.1-5投稿で ・明治4年11月10日、品川・横浜駅間乗車、女子留学生五人(岩倉視察団)。 ・明治5年11-12月~明治6年1月頃、?・新橋駅間乗車、古市静子・本田つね。 ・明治6年2月2日、新橋午後5時発・品川駅間、林氏、妻子(母・姉)、小児。 ・明治6年月日不詳、横浜・新橋駅間乗車、国司チカ等工女一行(30名?)。 ・明治6年5-6月頃、横浜・品川駅間往復、一婦人。 ・明治6年12月17-18日、新橋・横浜駅間往復、両陛下・高倉壽子以下六名。 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答真にありがとうございます。 本来質問者の私が、『新聞集成明治編年史』を丹念に調べなければならないのですが、 Kittynote様が調べて下さって、真にありがとうございます。 私も読み始めてはいたのですが、次々と興味ある記事が続出するので、全く進みません。 今回の情報は、私が期待していたズバリの内容でした。 有名人は記録に残りますが、一般人は、個人の日記でも世に出ない限り、汽車に乗ったというようなことは、記録の対象になりません。 年間140万人の利用者があったわけですから、少なく見積もっても半数以上は一般乗客だと思います。 「府下下谷池の端七軒町林某なる者、妻子を伴ひ…」の、妻子を連れての汽車の旅?用事?は貴重な例です。 見出しが「汽車よりも早い電信のお蔭で 瞬時にして迷子が戻る文明の難有さ」ですから、電信の記事だと思ってしまうところです。 下谷池の端七軒町を調べると、幸い、大正2年の詳細な地図を見つけました。 ちょっと年月が離れていますが、「林善○郎」という人がいました。 ただ、それだけですが、実感しました。 「頃日橫濱ヨリ一婦人小兒ヲ寢サセ」。 「頃日」「婦人」という言葉から明治だな、と感じました。 大店のおかみさんが急な商用で、という感じです。 いろんな人がいろんな目的で利用していたことがよく分かりました。 枝葉末節にこだわった質問でしたが、開業当時の客車内部の様子、両陛下の横須賀造船所行幸、米国への女子留学生、富岡製糸場ほか、広く、深く明治初期の歴史を復習することができました。 有意義な多くの資料を教えてくださったので、暫くは再読します。

その他の回答 (4)

  • Kittynote
  • ベストアンサー率84% (32/38)
回答No.4

断片情報で度々失礼致しますm(_"_)m 下記によれば、人数と日付は?ですが、富岡製糸場の工女になるため、 山口県の国司チカなど一行(30名?)は、横浜から 「前年開通した汽車で東京新橋に着し」とのことで、明治六年の乗車。 ・『産業研究 47(1)/高崎経済大学/2011-09-30』(27-44頁) 〇「昭憲皇太后と富岡製糸工女のエートス/山崎益吉」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110009326809 <12/18>(38頁2-9行目) …山口県の国司チカは「第一回の三十名は多く士族の娘で、 17才から30才までで…、一同は…山口に集まり…三田尻港まで取り揃って 参り…蒸気船琴平丸で出発…神戸で一泊、米国船ニューヨーク丸に便乗し、 横浜へ参りました。私達一行に井上馨の姪二人がいられましたので、 横浜に着いたら井上馨様が出迎えられました。 前年開通した汽車で東京新橋に着し、日本橋馬喰町山代屋に宿をとりました。 それから数日高輪毛利邸や東京見物に費し、上州富岡に参りました。 その時は付添人などを加え40人が40両の人力車に乗り上州街道を春風の中を 進んだので沿道のものはみな外に出てきて、私達一行を珍しげにみていまし た」[※29]。… ※29『富岡製糸場誌 上/富岡製糸場誌編さん委員会/昭和52年』(326頁)。 これで4回目の投稿になりますが、私なりに判った事は下記程度に過ぎず、 ・明治4年11月10日、品川・横浜駅間乗車、女子留学生五人(岩倉視察団)。 ・明治5年11-12月~明治6年1月頃、?・新橋駅間乗車、古市静子・本田つね。 ・明治6年月日不詳、横浜・新橋駅間乗車、国司チカ等工女一行(30名?)。 ・明治6年12月17-18日、新橋・横浜駅間往復、両陛下・高倉壽子以下六名。 明治4-6年の間では公用・団体利用以外では「古市静子・本田つね」のみ、 ほかに一般女性の姿が見つかりません(><) 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答真にありがとうございます。 「工女」ですか!! 教科書には出てこない用語ですね。 私は、初耳です。 しかし、「こうじょ」で変換すれば出てきました。 官営富岡製糸場については、建物の歴史的価値や保存された機械類のことばかり注目されてきたようですが、工女たちには気づきませんでした。 工女たちこそ主役じゃないですか! 野麦峠の「女工哀史」と同じだろうと言う先入観がありました。反省。 以下、独り言ですから無視してください。(次々、疑問が出てくるのです) なぜ、そんな遠い山口県から応募してきたのだろう? 汽車に乗ったり人力車に乗ったりした費用は、誰が負担したのだろう? 創業時、何人くらいの工女がいて、どんな方法で募集し、どこから応募してきたのだろう? 無試験で採用されたみたいですが、“成り手”がいなかったのだろうか? 本題に戻って、明治6年に工女たちが汽車を利用したということ、いろんな人びとが、いろんな理由で利用したということが分かりました。 貴重な事実です。感謝申し上げます。

  • Kittynote
  • ベストアンサー率84% (32/38)
回答No.3

下記の余談、寺沢龍『明治の女子留学生』(平凡社新書、2009年)と 皇后拝謁記事から、どうやら、明治4年11月10日、品川・横浜駅間で 臨時運転の汽車に女子留学生、吉益亮子(16)・津田梅子(9)・ 上田悌子(16)・永井繁子(10)・山川捨松(12)の五人が乗車したようです。 〇Beautiful World 降っても晴れても> モールが見た女子教育と石山寺 2015.09.12 Sat http://whiteplum.blog61.fc2.com/category11-6.html 明治5(1872)年9月12日、新橋・横浜間の鉄道が本開業。 大山捨松や津田梅子が、岩倉使節団とともに横浜から出港したのは前年11月。 しかし、寺沢龍『明治の女子留学生』(平凡社新書、2009年)によれば、 使節団一行、見送りのために、品川駅と横浜(現在の桜木町)駅間で臨時運転。 出発3日前に皇后に拝謁した女子留学生は、2日前に汽車で横浜入り。 〇『新聞集成明治編年史.第一卷/新聞集成明治編年史編纂会編/林泉社/1940』 ・明治四年十一月(皇紀二五三一─西曆一八七一) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/238 <238/295>(414頁4-5段目) 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 >「使節団一行、見送りのために、品川駅と横浜(現在の桜木町)駅間で“臨時運転”。」 「え!えって!」驚いて暫くは絶句。 品川・桜木町間で仮開業したのが明治5年6月12日(旧暦05.07)ですから、その半年も前に臨時列車を走らせているのですね。 調べてみますと“試運転”としている記事もあります。 岩倉使節団の一部の人びとと共に女子留学生も乗車したということで、試運転であっても最初に汽車に乗った女性になりますね。 品川駅はまだ完成していなかったので、地上から直接客車に乗ったと記録されているそうです。 「Beautiful World 降っても晴れても>モールが見た女子教育と石山寺」のブログはとても面白かったです。 語彙が貧弱で“面白い”という表現しか思い浮かびません。 >宮内省に欧州の宮廷儀礼について助言していた、オットマール・フォン・モールが残した「日記風のメモ」には、モール夫妻が旅行した先の風景なども、細やかに記録されています。 >モール夫妻が京都を訪れたのは、明治20(1887)年の7月終わりから8月初め。 >京都では、「国立の女子教育学校」を参観しました。 (中略)その後、大津に移り、汽船を使って石山寺まで足を延ばしました。 明治20年、琵琶湖ではすでに汽船が動いていたのですね。 淀川を遡っていくことができた、大きさ・形状の船だったということになります。 こんなことに興味が移ります。 大山捨松、津田仙についても勉強しました。 男女混合の名簿であれば、男性と判断してしまいますね。

  • Kittynote
  • ベストアンサー率84% (32/38)
回答No.2

>両陛下が乗車されたのですね。 >二人お揃いで視察とは、明治になった実感があります。 因みに、この時の供奉員のうち女官は「典侍高倉壽子以下六名」のようです。 〇『海軍制度沿革.巻1/海軍大臣官房/1937』 ・第八章 行幸啓 第一節 明治元年乃至明治十年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886704/96 <96/286>(151頁上段8行目) また、私が規則で驚いた事は下記の第三條でした。 〇『法令全書.明治5年/内閣官報局』 ・明治五壬申年五月 太政官 第百四十六號 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952/104 <104/768> (96頁5-9行目) ○第百四十六號(五月四日)(布) 第六十一號布告鐵道略則別紙ノ通改正候條此旨相達候事 但開局日限ノ儀ハ治定ノ上追テ可相達候事 (別紙) 鐵道略則… (96頁18行目-97頁1行目) 第三條 途中「ステーシヨン」ニテ乘組並手形ノ事 途中「ステーシヨン」ニ於テハ列車中餘地ノ有無ニ應シテ乘リ組ムコトヲ 得ヘシ若シ其手形ヲ買取リシ總人數ヲ容ルヘキ餘地ナキ時ハ其中ニテ 最遠キ地ニ赴ク手形所持ノ人丈ケ先ツ乘込ムコトヲ得ヘシ若シ又同里程ノ 地ニ赴ク客數人アル時ハ其手形ノ番號ノ順序ヲ以テ乘ルコトヲ得ヘシ 脱線気味なので軌道修正。 明治5年又は6年時点の話とすれば内容の一部に明らかな誤りがあるため、 当初はボツにするつもりでしたが、明治6年の太政官日誌以外にめぼしい 記録が見出せないため、可能性の一つとして投稿させていただきます。 実は、著名な日本人女性「税所敦子(48)、矢島楫子(40)、跡見花蹊(33)、 三輪田真佐子(31)、佐々城豊寿(20)、下田歌子(19)、桜井ちか(18)」各氏を [※()内数値は明治6年当時の概算年齢※]順番に調べる中、 下記論文中の記述に出会しました。 〇「豊田芙雄と草創期の幼稚園教育に関する研究; 補遺1:保育者・古市静子の立ち位置/前村晃」 ・『佐賀大学文化教育学部研究論文集/佐賀大学文化教育学部/2012-1』 http://portal.dl.saga-u.ac.jp/handle/123456789/119417 <2/32>(26頁24-27行目) その後も、静子の向学心は益々盛んになり、明治6年(1873)11月末、 今回は周囲の了解を得て、友人・本田つねと共に上京することになる。 二人はまず「春日丸」に乗船して大阪に行き、そこから小田原までは徒歩の 旅を続け、途中盗難にあったりしている。小田原から品川までは汽車に乗り、 東京に着くと、本田は浅草の親戚の家へ、静子は森邸へと向かう。 静子は森有礼邸に住むことになるのである。 <9/32>(33頁30-行目) この履歴書には若干不正確な部分もある。古市は回想録に、 明治6年(1873)11月に上京したように書いているが、 これは明治5年(1872)11月の記憶違いだとすれば問題はないだろう。 上記のうち「…小田原から品川までは汽車に乗り、東京に着くと、…」の 「小田原から」は疑問ですが、明治5年11-12月~明治6年1月頃 (又は明治6年11-12月頃)に古市静子が汽車に乗った可能性は有るようです。 ただ、どうも当事者の記憶が曖昧なのが難点です。 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 横須賀造船所行幸に関して海軍も詳しい記録を残しているのですね。 両陛下は、同じ車両に乗車されたのでしょうか、多分別々ではないかと、つまらぬ想像をしています。 「典侍高倉壽子以下六名」は、全員、皇后様と同室でしょう。 供奉する高官多数ですから、定員18名の上等車を全て連結したのでしょう。 >第三條 途中「ステーシヨン」ニテ乘組並手形ノ事 品川、川崎、鶴見、金川の各駅で1-2分停車ですから、停車すると車掌(イギリス人らしい)が各ハコに向かって「ここで降りる奴はおるか」と叫んで、「降りま~す」と答えた客がおれば、そのハコのそのブロックの扉を開けてやったのでしょう。 車掌は、乗降を見ているだけで、駅員が扉を開けて、定員を超さぬよう確認しながら客を乗せたのでしょう。 切符を売るだけ売って、乗れるかどうかは、その時々の混み具合によるということですね。 まさに、お役所仕事で、駅員は「お役人だ」と思います。 >明治5年11-12月~明治6年1月頃(又は明治6年11-12月頃)に古市静子が汽車に乗った可能性は有るようです。 そうですね。乗車したことは確かですね。 女二人、大金を持って旅をして、盗難にあってもくじけず、ちょっと汽車にも乗ってみようという活発な様子が窺えます。 明治初期の女性の社会性という面で参考になりました。

  • Kittynote
  • ベストアンサー率84% (32/38)
回答No.1

期間を問わず著名外国人なら、たとえば、 明治12年7月3日特別仕立列車で午後1時15分横浜発、同2時20分新橋駅着の 米国前大統領グラント夫妻、 また『勝海舟の嫁 クララの明治日記<下>/クララ・ホイットニー/一又民子・ 高野フミ・ 岩原明子・小林ひろみ(訳)/中公文庫/1996.6』には、 明治12年11月29日(365頁)、同13年1月8日(409頁)、同15年11月25日(436頁) などの各条に、クララ・ホイットニー自身の乗車記録など、 あと詳しくは調べていませんが、明治11年のイザベラ・バードなどですが… 明治6年(あるいは明治5~6年の範囲内)限定の記録となりますと、 相当限られると思います。 下記は、新橋横浜間開通式の翌日乗車の直話のようですが、 残念ながら登場する婦人客は実話か、たとえ話かすら分かりません(><) 〇『鉄路/清計太郎著/輝文堂書房/昭和18.6』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068432/63 <63-65/163>(111頁4行目-115頁11行目)「陸蒸氣に初乘り」 <65/163>(114頁13行目-115頁4行目) …陸蒸氣は今の汽車と違って下等座席(畳敷きであつた)が、橫に區切られ、 縱に通ずる中央通路はなく一つ一つ座席の兩側に扉がついてゐる。 お客は座蒲團持參で乘る、發車前に車長(車掌)がいちいち扉をしめ、 停車すると一つ、一つ外から扉を開けて歩くという風で、 一つの座席に五人並んで腰かけると、前後の座席と往來できないばかりか、 眩暈で倒れる婦人客の介抱をしたくとも身動きもならなかつた。… ※余談ですが、交通博物館[鉄道が開業した頃の客車](実物大模造)では、 下等車の車内は5人がけ6列のゴザ敷きベンチのようです※ http://www.yossie.jp/photo/transport2.html 一般人では埒が明きそうにもないので、 幸い「皇族」を含むことから、真逆の方から調べてみました。 「太政官日誌明治六年 第百六十一號・百六十二號」などは如何でしょうか。 〇『太政官日誌.明治6年 第132-166号/太政官』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787665/147 <147/187>(1頁1行目) ・太政官日誌明治六年第百六十一號… http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787665/148 <148/187>(2頁1-4行目) ○十二月十七日 本日 主上 皇后宮橫須賀造船所ヘ 行幸 行啓アラセラル[行幸中ノ詳細ハ後號ニ載ス] http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787665/150 <150/187>(1頁1行目) ・太政官日誌明治六年第百六十二號… http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787665/159 <159-160/187>(19-20頁) ○追錄 〔相州橫須賀造船所江 行幸 行啓記事畧〕 十二月十七日午前第七時二十分 御出門第八時新橋ステーシヨンヨリ汽車乘御 第九時橫濱江 着御同處中波戸塲ヨリ蒼龍艦江 乘御第十時揚錨 御發艦[御發艦御着艦ノ時ハ樂隊樂ヲ奏ス]午後第一時十五分橫須賀江 着御 …(中略)… 還御同十八日午前第八時猿島沖ニ於テ艦隊操練アリ 行在所ヨリ  天覽畢第九時二十分 行在所 出御同所山下ニ於テ輕氣球飛揚 天覽畢テ 波戸塲ヨリ蒼龍艦江 乘御此時同所詰官員及ヒ御雇教師奉送ス第十時 御發艦正午十二時三十分橫濱港江 着御午後二時橫濱ステーシヨン 御發車第三時新橋ステーシヨン江 着御暫ク 御休憩アリ第三時四十分 皇居江 還御アラセラル 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 一年間に144万人も乗車したわけですから、その内女性客は何割くらいだったのだろうか、と思いました。 これは、統計がなくては分かりませんから、多分統計はないだろうと思って、どんな女性が乗ったのですかと、質問しました。 裕福な商人・町人の妻たちが物珍しさに乗ったのだろうか、という疑問です。 また、最初の女性客は誰か、という興味もありました。 あれやこれや色んな思いがあって質問したのですが、私のこんな平凡な思い以上に『鉄路/清計太郎著/輝文堂書房』「陸蒸氣に初乘り」は面白かったです。 中仙道本山宿池田屋の若主人・田中仙之の体験談は、貴重ですね。 しかも開業翌日の話ですから。 直に、雰囲気が伝わってきます。 >陸蒸氣は今の汽車と違って下等座席(畳敷きであつた)が、橫に區切られ、 縱に通ずる中央通路はなく一つ一つ座席の兩側に扉がついてゐる。 お客は座蒲團持參で乘る、發車前に車長(車掌)がいちいち扉をしめ、 停車すると一つ、一つ外から扉を開けて歩くという風で、 一つの座席に五人並んで腰かけると、前後の座席と往來できないばかりか、 眩暈で倒れる婦人客の介抱をしたくとも身動きもならなかつた。… 「客車の内部」をキーワードで画像検索しました。 私の想像した客車とは大違いでした。 「眩暈で倒れる婦人客の介抱をしたくとも身動きもならなかつた。」とのことですが、田中仙之の体験談なのかどうか、判断に困ります。 もし、体験談であれば、女性客第一号かも知れません。 鉄道規則に次の条文があるそうです。(ネットの記事) 「一.何人に限らずステーション構内で別段に吸煙のために設けし場所、または吸煙のために設けし車より他の車内にて吸煙するを許さず。かつ婦人のために設けある車および部屋などに男子はみだりに立ち入るを禁じ、かつ払いたる賃金をも取り上ぐべし」 男女の席が分けられていたようですが、中等車だけなのか、下等車にも適用されていたのか、不明です。 そんなことより、この規則は日本人がつくったのだと思っていましたが、元はセイロンの規則だったと知って驚いています。 喫煙規制、男女の席を分けたのは儒教思想から、当時の日本の習慣からだと早合点していました。 ただ、日本の習慣に合致していたという面もあるでしょう。 とにかく面白いですね。 何を質問したのか忘れてしまうくらいです。 「汽車は出てゆく煙は残る残る煙がしゃくの種」は、訳を知らずに子どものころから歌っていました。 『太政官日誌.明治6年 第132-166号/太政官』は、参考になりました。 両陛下が乗車されたのですね。 二人お揃いで視察とは、明治になった実感があります。 ただし、皇后と女官だけで乗車のケースに興味がありますので、もう少し読んでみます。 お召し艦「蒼龍」も調べておきました。 軍艦?に初めて乗った女性では、と一瞬思いましたが、軍艦とは言えぬ小さな木造船でした。 いつも素晴らしい資料を教えて下さって、真にありがとうございます。