• ベストアンサー

恐怖と快楽

つりばし理論というのがありますが、恐怖と快楽はいつも表裏一体なのでしょうか?特に人間関係において。 つまりつり橋が怖いので、つり橋を渡ることを拒んでいる限り、快楽や喜びはやって来ない、快楽を求めるには、恐怖というつり橋を渡るしかない、人間関係で喜びを感じるには、つり橋で揺さぶられる対人恐怖くらいへっちゃらになれということでしょうか? 快楽は恐怖を乗り越えた先にある様に感じます。恐怖と関係のない快楽もあるのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.6

NO.4 のお礼コメントについて こんばんはー^ ^ >病気で余命宣告された人が、ものすごい死の恐怖を経験した後で開き直った結果、本当の人生の充実を知る(という話を聞きます。)という、死の恐怖と人生の充実の話かも知れないと思い、 それはつりばし理論とは違います. http://matome.naver.jp/odai/2142203708705101801 を読めばわかりますが, 完全に(死んだ!)と思って,生きるのをあきらめるから,自我が OFF になるのです. PCで言えば起動したソフトが全部落ちた状況. 今まで使っていた脳内メモリの容量,脳内 CPU の計算能力を感覚器官から入力された情報処理にフルに使えるので, 視覚なら,今までカットされていた必要のない視野が見え, 実用上そんな精度必要ないと判断され,てきとーに処理されていた映像処理がちゃんとなされるため,ボンヤリ見えていたものの輪郭がハッキリ見え, 差分データ以外は代わり映えしないので,リダクションされていたものが見えたり, 聴覚なら,今まで聞こえても節約のため処理しないで認識してなかった小さな音や周辺の音が聞こえ, はしょるけど臭い,触感もはっきり認知できるのです. 近い感覚で,多くの人が味わったことのあるのはたとえば, 早朝まだ誰も家の人が起きてないとき起きて,ぼんやりしながらそのままフラリと家の外に出たときの感覚. つりばしの生きるか死ぬかの緊張と緩和のドキドキ感はない. つりばしから落ちた状態,名前をつけるなら「つりばしから落ちた理論」ですね^^;

nobound
質問者

お礼

 ありがとうございます。  「つりばしから落ちた理論」いわゆる自我に死んだということでしょうか?どちらかというと、「つりばし理論」より、興味はあります。感性が鋭くなるのでしょうか。「清水の舞台から飛び降りる」にも似ているような。  よく考えたら、つり橋でキャーキャー言ってるカップルなんてどうでもいいです。清水の舞台から自分で飛び降りることと、つり橋から落ちてしまうこと、自主性か強制的かの違いであって、同じような恐怖が人生にはあって、その先に、どちらにも光があってほしいと思います。

nobound
質問者

補足

 一応つり橋から落ちるということの示唆があるので、BAに

その他の回答 (8)

回答No.9

NO.8のお礼コメントについて こんばんは! >段々何が書かれているか、わかりづらくなっているんですが 質問者さんの質問と無関係に,フリートークのように,オレが書きたいことを書いてしまいました.ごめんなさい. >挫折 コメントを見たとき,(挫折とはなんだろう?)と考えたけど,はっきりわからなかったです.ほかの質問者さんの質問に答えてるうちにわかってきました.オレの定義では,挫折は,上へ上がろうとして,上がれなかった,あるいは上へ上がろうとして下へ落ちた,です. >セーフティネットや、命綱を身に着けていれば、失敗するもそれほど大けがはしない、楽に落ちれる セーフティネットは下へ落ちたとしても落差が小さいことと思います.小さくても挫折は挫折です.上りたい気持ちが大きければ,落差は小さくても,大きい挫折感を味わうと思います. >挫折経験は重要かどうか? 重要かどうかはわからないけど,大人はみんなしてるでしょーねー 挫折経験が重要かどうか考えてみました. ●挫折経験の重要性 〇社会的 ヒトと白アリと比較すると,白アリは兵隊アリと働きアリで体の形が違うというハード的な違いで役割が決まってます.ヒトは体については汎用で,脳内のソフト的な違いで,専門技能が細分化され,役割が決まるように見えます.挫折感があると挫折した専門分野へもう一度トライしないので,自然と適材適所や,専門分化になると思います.つまり挫折感は,ヒトの組織,つまり現代のヒトの社会の形成に貢献してると思います. 別に挫折感を味あわなくても,好きなことを追求してれば専門家になれます.趣味の場合は,挫折感を感じる,感じないは自由です.趣味で描いてる画家が,渾身の作の絵で挫折感を味わいたくなければ,コンテストに出さなければいい,究極的には誰にも見せなければいいです. でも仕事なら,たとえば大企業では,既存の大きな川のそばにおせおせで多くのものが密集して,あとから来たものは,すぐそばのものに多くサービスしたら優先的に,年功序列的に,川に近い席を譲ってもらえます.一番成功したものは川際の特等席を譲ってもらえます.または既存の大河から新たな細い支流の水路を作って,多くの仲間が水を吸える場所を作ったり,川を拡張工事するなどして,仲間が水を吸うことに貢献した人は,水際のいい席を占めることができます.大企業ではその大河と水の吸える席が既にあります.水の吸える席が目に見えるから,人気が集中して,多くのものが集まります. 入社したいけど入社できなかったものは挫折感を味わいます.でも他社へ入社して,結果的に適材適所になるので,挫折感は社会の役に立ってます.また入社したものは,水際の席数は決まっているので,競争になって,水際の席へ近づきたいけど近づけないと挫折感を感じます.この場合,挫折感はあっても既存の席はあるので,理想より少なくても必ず水は吸えます.食いっぱぐれないけど,挫折感の大きさには関係ないです.挫折感を感じたまま会社に残ると,後輩に水際の席を目指さないように言うので,組織の序列が安定します.内部の水際の席取り争いで無駄なエネルギーを消費しないで,本業の専門分野にエネルギーを使うので,会社の業績が上がり,川の水量が増え,多く水を吸えます.挫折感は社会の役に立ってます.挫折感を味わいたくないので退社して別の仕事をすれば,そこで前の会社より役に立つので,挫折感は社会の役に立ってます.また失敗したりなにもしなくても辞めたヒト席に新たなヒトが座るので,挫折感は社会の役に立ってます. 無理やりですけど,なにが社会の役に立ってるか立ってないかなんて誰にも検証できないので,言ったもん勝ちです(書いたことの半分くらいホントは思ってないです). 〇個人的 挫折感を味わいたくないです.思いがけないところで挫折経験を思い出して苦しんだり,長く引きずったりして嫌な思いをするのもイヤです.挫折感が社会の役に立つか立たないかなんてどうでもいいです.挫折感を味あわないようにしたいです. >よけいな心配はやめて、シンプルにシャットダウンするということでしょうか? 「黒い猟犬」って詩,知ってますか? 知っていたら驚きます.なぜなら今オレが考えたからです. 「黒い猟犬」 黒い猟犬がどんな顔をしているか? ぼんやりして見えない.はっきり見たことはない 根源的な恐怖 追いかけてくる 恐怖に駆られて,欲望の泡へ飛びつく 泡の中で,妄想に夢中になっている間だけ,黒い猟犬のことを忘れられる でもふと妄想から我に返ると,黒い猟犬がすぐそばまで追って来ていることに気づく あわててまた妄想にふけると黒い猟犬の姿が消える そのうち黒い猟犬のことを忘れてしまう でも黒い猟犬は姿を変えて追っかけてくる いろいろなところで,いろいろな姿でチラリと視界に入る.あわてて目をそらす どんなに時間が経って,どんなに遠くへ行っても,気を抜くとどこからともなく滲みだして来て,現れる どんなに速く走っても,どんなに頭を使っても,決して振り切ることはできない いつのまにか,つかずはなれずのところまで追いかけてきている 一つの泡がはじけて,妄想が終わると,黒い猟犬が現われる 恐怖に駆られて,次の欲望の泡へ飛びつく そして泡のなかで妄想を見る そうやって泡をはしごして妄想の中で暮らす それが人の一生 次は散文です. 「自我の木と黒い猟犬」 黒い猟犬は自我の木の根元にいる.人は根元にいる黒い猟犬が怖いので,目をそむけ,黒い猟犬から離れるために木を登っている.登っているうちに,足元の枝葉で視界がさえぎられて,下が見えなくなる.そのうち周りの木を登ってる人を見つけて,遊んだり,競争したりしてるうちに,木の根元にいる黒い猟犬のことを忘れてしまう.そして「木を登ることをやりがいとして見出す」やら「登った高さを競い,ほかの人より優秀であることを証明する」やら「一流の人には遠く及ばないけど,昨日のオレと比較すると1歩登った」やら「コツコツと一歩一歩登り続けることを継続して,合計するといつの日か人類未踏の高さまで登る」やら「高いところへ登って周りを見渡すとどんな気分だろう,いい気分だろうな」やら「かつて高いところへ登って周りを見渡したときに見た,開けた景色をもう一度見たい,もう一度総取りできるチャンスを得たい,見下ろしたときの爽快感をもう一度味わいたい」やら「一歩登ることの充足感」やら「周りの木の同じくらいの高さにいたヒトに高さで負けて,劣等感を味わいたくない」やら「周りの木のやや下の高さにいる人に高さで抜かれたくないから」やら「登るのをやめると下がることになる」やら「そこに木があるから」やらなんやら,いろいろな理由で自我の木を登るようになる.でもそれらはあとから思いついた理由で,元はすべて自我の木の根元にいる黒い猟犬への恐怖からです.現在自我の木を登っていない人も,いつか登りたい,登らなくてはならないと思っている.下へ落ちるくらいなら死ぬ,くらいの勢いで落ちることを怖れている.それは黒い猟犬への恐怖からです. オレは自我の木の根元に黒い猟犬がいたころ,黒い猟犬なんて表層意識で意識したことなどなかったですね!^^いなくなったあとはじめて,すべては黒い猟犬から逃れるためにやっていたことに気づきました.驚きました.それまでの人生で,黒い猟犬から逃れるため以外にやったことは皆無でしたね!!!それまでは,もし黒い猟犬でも白い化け猫でも,やって来たら全力で追い払ってやる,勝つ,いつでも来い,と思ってました.でもそのやりかただとあまりにも苦しかった,本当に死ぬかと思ったので,他人には勧めたくないです.そこで (1)欲を調べる (2)元欲を調べる (3)黒い猟犬を怖れていることを表層意識で認識して,「×××」と名前をつける (4)黒い猟犬から逃れるため,(※)をする ・ ・ ・ とステップワイズにやっていくと,洗練されていて楽かな?と思いました. 黒い猟犬がいなくなったら,残りの人生は長い夏休みみたいです.いつの間にか夏休みの宿題が終わってたって感じ.同じ学年のクラスの友達は,夏休みの宿題をしないで,徒党を組んで野原を遊び回ってます.でもいつも夏休みの宿題のことが頭の片隅から離れない.夏休みの宿題のことが心配で,心の中が荒れてます.でもやらないです.遠くの海に行けば,宿題のことを忘れられると思って,お父さんに遠くの海へ連れて行ってもらうように頼みます.でも宿題をやらないので,あたりまえに宿題は残ったままで減らないです.夏休みの終わり,いよいよ!というときはじめて,夏休みの宿題の最初の1ページ目を開きます.そして(あ~,どーせやるなら早くやっておけばよかったな~,もっと夏休みを楽しめたのに)と思うのではないか?と思って,オレはみんなに夏休みの宿題を早く終わらすことを勧めてます. 上に書いた方法は,その黒い猟犬から逃れる方法の1つです.黒い猟犬がいなくなったあと,楽な方法で誰でも黒い猟犬から逃れる方法はないか?と思い,いくつか伝統宗教をチラ見して探りました(ネットで).そしたら仏教もキリスト教も(タントラ的な方法は知らないけどヨガ的な方法は),コアの部分の技術は同じで,体は眠らせて,頭はキンキンに覚ました状態を作り出し,その状態でオレやアタシはなにか?を集中的に調べる(※)ことと思いました. だからシャットダウンして,眠らないで,目は覚まして,オレとは何かを調べる,です.でも毎日そこまで気合入れなくても,シャットダウンしたあと3秒集中するだけでも日常生活を改善する効果があります.

nobound
質問者

お礼

 ええと、質問してから26日で1か月なのでそろそろ質問を閉じなければなりませんが、つり橋を渡る時の恐怖快楽問題から、つり橋をどう渡るかのほうにシフトしつつもあります。  話はたぶん人生の宿題にどう向き合うかだと思いますが、「黒い猟犬」という例えも面白いですね。私の経験則では、脳は頭蓋骨の中にあるので、現実に触れないと追い込まれないということです。現実が黒い猟犬として尻をたたくということですね。    そして恐怖と快楽ということで言うと、お化け屋敷やジェットコースターなどを考えると、恐怖と快楽の区別は何なんだろうかというところをもう少し今後考えてみます。ありがとうございました。

回答No.8

NO.7 の回答について, 間違えたので,訂正します. ×自我の木が倒れたら,上空を覆い隠している枝葉がないです.月が見えます. 〇自我の木の根幹をピンポイントで観察します.月が見えたら自我の木が倒れます. NO.7 のお礼コメントについて こんにちは!^^ どういたしまして こちらこそありがとうございます >そろそろ降りられれば確かにいいですが、清水の舞台や、つり橋からゆっくり降りるというのも、経験が必要な気がします。 抽象的に書いてたらなにを書いてるのかわからなくなってきました. 清水の舞台に登ったら,今度はスカイツリーに登ろう! というのは普通と思います.オレもそうすると思います. 自主性について, 清水の舞台に登ったあと,家に帰らないで次のスカイツリーに登るのでなく, 遊園地へ行ったら一日一回は一旦家へ帰ろうよ!と言いたかったです. 方法は洗練された自主性のものは瞑想のようです. 経験は必要ないです.誰でもできます. 難易度は難しくないです.瞑想したことのない人のほうが簡単と思います. 方法はいろいろあるようです.好きなのをチョイスしてやるといいと思います. 1 日 2 回,眠る前,覚醒する前に瞑想すると効果高いと思いました. 寝たらはバタンキュー,起きたらいきなり昨日の続きでなく, セットアップで徐々に立ち上がってくるようす,シャットダウンで徐々に終了するようすを見ます. 瞑想しなくても,眠る前と覚醒する前の 1 日 2 回は瞑想状態になるのですけれど, そこを自主性でやろう!というわけです. 効果は,瞑想時間が長いと大きかったです.10 秒でも効果が見られましたし,3 秒でも効果が見られたのでおkです.瞑想のポーズを取って,瞑想する意志をみせるだけでも効果ありました. 頭の睡眠時間の短縮にもなります. 眠ったらダメです.眠くなったら眠るといいと思います. 瞑想の入りはたとえば,PCをスリープにしてすぐ席を離れないで, PCの使い終わりはシャットダウンして,画面が黒くなるまで見続ける, PCの使い始めは電源を入れて,黒い画面からセットアップして見続けるようなものです. (たとえなので実際のPCでやらなくていいです) はっきりいってツマラン,おもしろいことはなにもおこらないです. シャットダウンならたとえば, 「オレはメモ帳.素早く立ち上がって,反応が早く,小回りの効くタイプ. ワードは豪華で多機能でいろんなことに使えて,よいもの,きれいなものができるのは認める.だけどトロくさい. 使いやすさ,スピード,汎用性でオレのほうが優れている. ワードよりオレのほうが優れてる.てか,ほかのどのプログラムよりオレが一番すぐれている.その証拠にオレが一番使われている. エクセルの計算能力についてはオレも認めている.オレにはエクセルみたいな計算能力はない.計算についてはお手上げだ. でもエクセルだってオレなしでは不便だ. 実際,1 つの目的のために一緒に共同作業することは多い. エクセルはあらゆる点でオレよりはるかに優れている.だけどお互いないところ,不十分なところを補い合っている.一緒に働いている....いわば仲間のようなもんだ! 共同作業と言えばワードとだってやる.そのときオレはもっぱら下請作業だがw ワードはオレが作ったテキストを取るばっかりで,完成した文書をなに 1 つよこさない. (え,オレが作ったテキスト,どうなったんですか?)て,感じ. 使われたか,使わないで捨てたかすらわからない. ワードはオレのことを便利に使える道具みたいに思ってて,バカみたいに見下してるんだろうな...腹立たしい! ワードは外づらだけはよくて,エクセルなんかへ声をかけて, エクセルはワードの中に入って,一体化していいもの作ってるけど, みんな協力するのはワードの本性を知らないからだ...義憤に駆られる! 計算と言えば電卓もある.彼女もオレと同じ素早く小回りの利くタイプ. だけど彼女はちょっと癖があって,彼女のことが知られてなくて,あまり使われてないみたいだ....彼女はどう思ってるのかなあ?...心配だ.」 というのをやめて, 意志の力で, メモ帳で作ったテキストで,要るデータは名前をつけて,マイドキュメントに作ったフォルダへ保存して,要らないデータはゴミ箱へ捨てて,×ボタンかAlt + F4を押してメモ帳を終えます. 立ち上げたプログラムを終えたら, スタートボタンからシャットダウンボタンを押して,黒い画面になるのを見続けます. その状態でメモ帳の「オレはなにか?」を解析すれば, 運がよければいつか,黒い画面に自分の映る自分の顔が見えるかもしれません. そしたらゴールです(ゴールしたらわかります). 興味があれば,やってみればいいと思います! >「思春期はつり橋を渡るようだ。」 うまいこといいますね!^^ オレも!「大人期はギャンブルをするようだ.」 >落ちたりしたら修復は大変 それは落ちそうになって,踏みとどまったから,という意見です. 落ちればなんてことはなかったです. つりばしなんてないことに気づいただけでした. 道のない,平坦な地面があるだけでした.

nobound
質問者

お礼

 ありがとうございます。  段々何が書かれているか、わかりづらくなっているんですが、よけいな心配はやめて、シンプルにシャットダウンするということでしょうか?  どうも落ち方の認識が人それぞれ違うようで、私は一応落ちるとは挫折だと思っています。失敗するにしても、いろいろなセーフティネットや、命綱を身に着けていれば、失敗するもそれほど大けがはしない、楽に落ちれるだろうと思います。挫折経験は重要かどうか?という質問に変えてもいい感じです。ありがとうございました。

回答No.7

>清水の舞台から自分で飛び降りることと、つり橋から落ちてしまうこと どっちも怖いですね... オレは必死につりばしに捕まってるのに, つりばしを振られて落ちました.苦しかったです.本当に死ぬと思いました. とても,もの凄く生きたかったけど,生きるのをあきらめました.死を確信しました. つまりオレは(強制的は苦しかった)という過去の感情の記憶を持っています.だからオレは >つり橋から落ちてしまうこと、自主性か強制的か の強制的を他人へお勧めしたくないです. 自主性をお勧めしたいです. 過程でツライ思いをするか楽かの違いだけで,結果は同じと思います. 自主性の方法は, 清水の舞台から飛び降りるのでなく 舞台の上でひとしきり景色を楽しんだら, オレやアタシの意志で, 来た道を戻って,階段で,降ります. つりばしのたとえなら,つりばしから飛び降りるのでなく, つりばしから降りて,つりばしの掛かっている,土手を歩いて,降ります. 全然怖くないでしょ!?^^ >「つりばしから落ちた理論」いわゆる自我に死んだということでしょうか? >その先に、どちらにも光があってほしいと思います。 自我の木が繁りすぎてるから,木の下へ光が届かないです. 自我の木が倒れたら,上空を覆い隠している枝葉がないです.月が見えます. 理屈は簡単でしょ?^^ >つり橋でキャーキャー言ってるカップル それはそれでいいでしょ!

nobound
質問者

お礼

 ありがとうございます。  つり橋から落ちるというのは、やはり重いですね。そろそろ降りられれば確かにいいですが、清水の舞台や、つり橋からゆっくり降りるというのも、経験が必要な気がします。  河合隼雄先生が、確か「思春期はつり橋を渡るようだ。」と言っていました。さっと通り過ぎれば、大したことはないけど、落ちたりしたら修復は大変なのは、自分の経験上も充分理解できます。ここの質問でも、つり橋から落ちそうという悩みが多い気がしますが、回答は難しいです。

回答No.5

快食、快便、快眠こそが快楽の根本。なにもリスクを取る事、必要なし。

nobound
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうしますと、暴飲暴食(私です)、便秘、不眠で悩んでいる人はどうしたらいいのかとなりますが、逆に、快食、快便、快眠、全部そろっている人は珍しいとも思える現代社会の気がします。前に書いたんですが、欲望の充実は、関係性の充実から来るもんだと思っています。関係のリスク、ストレスが、体調不良につながる気がします。

回答No.4

こんにちは!^^ ちゃんとした答えでなく,オレの肉体感覚に基づいた意見です つりばし理論というのはどちらかというと女の人の,受ける側の感覚です(たぶん) >快楽を求めるには、恐怖というつり橋を渡るしかない、 違います.快楽を味わうため,真の恐怖を求めて積極的に渡るのではないです. つりばし理論は遊びです. 究極の美味を求めて,素人のフグ料理を食べるのはでなく, 料理の仕上げにチョチョッと振りかけるスパイスのようなものです. >対人恐怖 そんな怖い人と一緒にいること自体がおかしい >恐怖と関係のない快楽もあるのでしょうか? あるけどこの文脈jにはないです よろしく~

nobound
質問者

お礼

ありがとうございます。肉体感覚も重要ですね。 つり橋理論は、話のとっかかりなんですが、もしかすると、恐怖と快楽というテーマは、例えば、病気で余命宣告された人が、ものすごい死の恐怖を経験した後で開き直った結果、本当の人生の充実を知る(という話を聞きます。)という、死の恐怖と人生の充実の話かも知れないと思い、重すぎるんでやめようかなと思いました。そういうテーマもTVなどで最近扱われていますが。 あの事件のホロコースト的、殺人と快楽が結びついていることもあるのかどうか?怖いテーマですね。

  • SI299792
  • ベストアンサー率47% (774/1618)
回答No.3

お礼コメントありがとうございます。 1実をいう自分の子供ではありません。  私は、今まで人に嫌われてばかりの人生で、それか当たり前になっていました。  親戚(従妹)の子(7歳)と仲良くなり、遊びに行きました。そしたら、子供が抱きついてきたのです。  人に嫌わた経験しかない私にとって、これ以上の快楽はありませんでした。  人から見れば、嫌に思えることもあったと思います。その子は、私に唾を飛ばしてきました(試し行動と思われます。解説すると長くなるので、気になったらネットで調べて下さい)。でも、私にとってはそれも快楽だったので、ニッコリしていました(さすがに、母親の手前、「気持ちいい」とは言えませんでした)。 「ママと結婚して、ババになって」とせがまれて困りました。  そういういきさつなので、緊張的関係は全くありません。  今やその子も中学生、遊びに行くことはありません。  その後、私には、大人には嫌われるけれど、小さい子供には好かれるという、訳のわからない特技があることに気が付きました。  子供に好かれても、大人に嫌われたら結婚はできません。私は独身です。 2自分のしたいことをして、たまたま、人に喜ばれれば、快楽になると思います。  人に喜ばれることが目的で、何かをする必要はありません。それは、相手に感謝を要求することになります。感謝されなければ不快感になり、怒ります。すべきではないと思います。 3単に自分が思いつく、快楽を上げたまでです。関連はありません。  覚せい剤:副作用や捕まるリスクを知っているので、どんなに快楽があってもやりたいとは思いません。  遊び:これは楽しみであり、快楽でないと考えることができます。すると、快楽って何、という問題が発生します。  自慰:笑いを取るために挙げました。  私自身、恐怖の後の快楽というものを経験したことがありません。  あなた自身はどうなのでしょう。多分快楽の経験はあるでしょうが(なければすみません)、その時恐怖はありましたか? 逆に、恐怖の後の快楽を経験したことがありますか? >>関係の喜びはどうしても緊張関係を伴う気がします。  言われてみれはその通りかもしれません。そして、私はそれに耐えられないので、緊張関係の必要ない、小さい子には好かれるのかもしれません。  でも、これは、恐怖の後の快楽ではないし、話が違ってきます。吊り橋理論とも関係ないと思います。

nobound
質問者

お礼

 再回答ありがとうございます。いろいろな課題があって、考えるのに時間がかかりました。(と補足に書いたつもりでしたが、書かれていませんね。)  また箇条書きになりますが、    1.大人には嫌われるけど、子供には好かれるということですね。一応社会関係は大人との関係も大事だと思われますが、そこの緊張関係はどうなされているかは興味があります。  2.自分のしたいことをしてたまたま人に喜ばれることが、自分の場合めったにない気がして。たとえば運転していて、横から入りたい車を入れてあげたりすると、逆にいいことをした自分にすごく自己嫌悪を感じます。これが何なのかですね。人前でいいことをする自分が嫌いです。    自分の恐怖後の快楽・・・最近気づいて唖然としたのが、集団関係において、具体的な快楽の経験がほとんどないなあということです。いつも緊張しているので、やはり何か集団関係の壁がある気がします。いいことや快楽、関係のプラスをすごく制御している感じがします。また考えます。

  • SI299792
  • ベストアンサー率47% (774/1618)
回答No.2

 恐怖のない快楽なら、いくらでもあると思います。私の1番の快楽は、子供を抱くことでした。また、人間関係なら、いいことをしてほめられるのも、快楽になると思います。  覚せい剤なんかも、副作用を知らなければ、恐怖のない快楽だと思います。  他にも、遊びに行く、自慰をする(たとえが悪い)など、いくらでもあげられると思います。  つりばし理論は恐怖を感じた時の方が、恋愛感情に発展しやすいというだけです。中には恐怖を感じないと快感を得られない人間もいます(そういう人が無謀なことにチャレンジする。スカイダイビングなど、法律を守れば問題ないのだが、無許可でビルの登りてっぺんで走り回るなど、迷惑なやつもいる)。そうでないなら、無理に恐怖を求める必要はないと思います。

nobound
質問者

お礼

 回答ありがとうございます。  1.子供を抱くこと・・・そこに行くまでに様々な家族で積み重ねた関係があると思いますが、その中につり橋を渡るような緊張的関係はなかったのかどうか?  2.いいことをしてほめられる・・・それは自分が本当にしたいことなのか?  3.覚醒剤、遊び、自慰・・・関係の喜びがあるか?  しつこいですね。最近関係性の意味がわからなくなってきてもいます。関係の喜びはどうしても緊張関係を伴う気がします。また何かあればよろしくお願いします。

  • Gletscher
  • ベストアンサー率23% (1525/6504)
回答No.1

「吊り橋理論」を勘違いされているようですので、もういちど正しい意味を調べられた方がよろしいと思います。

nobound
質問者

お礼

 ここで回答を読むのに、今まで2日、間を開けていましたが、(なかなか怖くて読めない、あるいはゼロだったらどうしようと思って)今回はすぐ読んで、すぐお礼をしようと思いました。緊張に対して少しは進歩ですね。回答ありがとうございました。

nobound
質問者

補足

 たぶん生理的緊張、興奮のある方が恋愛に発展しやすいということだと思いますが、ウィキペディアではそういう実験だけで厳密な立証はされていないということで、その緊張と恋愛の関係性を知りたいと思いました。また何かあればお願いします。