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【日本史で】士農工商が無かったとニュースでやってま
【日本史で】士農工商が無かったとニュースでやってましたが、士農工商は無かったとすると誰でも侍、武士になれたってことでしょうか? 農民が戦後に行って、死んだ武士の身包み(鎧)と刀を拾えば、次の日から侍の刀をタダで手に入れたので農民から武士と名乗れた? 放浪、浪人武士はそんな感じだった?
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「士農工商が無かった」とは言えません。 「士」の階級はしっかりと存在しました。 どんなに身分が低くても武士は武士。どんなに貧乏でも、若くても、江戸一番の豪商が同席する場であっても、武士が上座でした。 ただ、なにか幕府や藩に役立つ仕事をしたりすると、名字帯刀を許されて名目的には武士の仲間入りにされたりしましたし、武士の株を買うと武士になれたりしました。反面、家を捨てて帰農するということも許されるという、比較的出入り自由な枠組でした。 いわゆる名主などは名字帯刀を許され、勝海舟は越後出身の按摩さんの孫(御家人勝家の株を買った)。藩医なども、町奉行所支配から抜けて武士扱いだったようです。 そんなだと、大商人など我も我もと武士に成りたがる(子供を武士にさせたがる)人が続出しそうなものですが、日本の武士は海外の貴族ら特権階級とは違って、権威もあるが義務を課された不自由な存在でした。 例えば、武士は上司の許可がないと夜までには必ず帰宅していないと行けなかったり、江戸から出て、別荘に宿泊するなどということは許されませんでした(某都知事の行動は切腹もの)。旅行など、ほとんど無理。 また、武士の妻・娘はほとんど家から出られません。事実上の幽閉状態です。旗本クラスの家には、祭り行列など、外の具合を妻子が覗くためののぞき窓があったりしたようです。 体を鍛え、勉学に励んで頭脳を磨き、息が詰まるような生活を強いられていたわけです。 また、武士になっても主君がいない浪人なら、武士の扱いではなく、町人並に町奉行所扱いでした。つまり、主君がなければ、武士だからと言って、いいことはない。 そんな状態なので、なにかやりたいことがあって、そのためには武士の資格が必要とかいう場合でなければ、武士になりたがる人はあまりいなかったようです。 あとの「農工商」は、武士が、自分たちに都合のいい人、言い換えると「一番搾取しやすい人=農民」をおだてるために「農工商」と順位づけして「言っていたダケ」。カネをもっていて自分たち武士も頭があがらない商人は一番下に置いて溜飲を下げる。 と、そんな感じで、大商人の上座にボロボロの農民が座る、というような身分制はなかったようです。 例えば東京の風呂屋さんの先祖の多くは越後出身で、それまでは農家だったわけですが、風呂屋をやって身分を落とした(家の恥じ)という感覚はなかったしょう。
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>士農工商が無かったとニュースでやってました 身分制度としては無かったという意味です。 言葉としてはありました。 この言葉は元々は儒教思想に基づいて中国で使われていた言葉です。 その際に士は科挙試験に合格した文人官僚である士大夫を意味していました。 武装した武人を指すものとするのは日本独特の使い方です。 秀吉が使い始めたと言われています。 これが慣用語として明治維新まで使われていました。 慣用語だったことから現在の学校の教科書では使われていません。 >農民が戦後に行って、死んだ武士の身包み(鎧)と刀を拾えば、次の日から侍の刀をタダで手に入れたので農民から武士と名乗れた? 戦国時代には可能でした。 秀吉も農民でしたが、信長に仕えることで武士となりました。 自分が天下を取ると自分と同じような人物が現れないように規制してしまいました。 江戸時代に入ると厳しく規制されました。 ただし、江戸時代も末期になると御家人株と言って、金銭でこの武士になる資格が売買されていました。 幕末の勝海舟も父親が一度売った御家人株を無理矢理取り戻していました。 このおかげで海舟自身が幕臣として明治維新に関与できました。 >放浪、浪人武士はそんな感じだった? 戦国時代にはご指摘のような感じでした。 蜂須賀小六などがこの典型です。 正確な出自は不明です。 平和な江戸時代になりますと、戸籍が喧しく決められていましたので、自分自身か父祖がどこかの藩の名簿に登録されている必要がありました。 これがありませんと身分詐称で処罰されてしまいました。 作州浪人宮本武蔵などと名乗るのもこのためです。 武蔵本人かあるいは父祖が作州(美作)のどこかの藩に属していたという意味です。 蛇足 江戸時代の武士は正確に言いますと士と卒に分けられていました。 士は大小二本の刀を帯刀することができましたが卒はできませんでした。 大名行列で槍を持っり挟み箱を担いでいたりしている奴さんと呼ばれる人たちです。 卒は武家奉公人と呼ばれ明確な区分はありませんでした。 更に、農民との中間に位置づけられた郷士という人もいました。 戸籍上は百姓ですが、帯刀することを認められていた人達です。 幕末の新撰組はこの郷士の集団でした。 近藤勇が板橋で処刑された際に切腹ではなく斬首されたのは郷士だったためです。 郷士の取り扱いは江戸幕府と各大名家(藩)とでは違っていました。 薩摩島津家では混然一体となっていて明確に区分されていませんでした。 上野の西郷像が気楽な恰好をしているのはこのためです。 建設当時、江戸っ子はなんだありゃ?と受け取っていました。 江戸っ子の感覚ではどこから見ても武士には見えません。 土佐山内家では上士下士とに分けられていました。 下士は上士が要求すれば雨中でも土下座をさせられました。 坂本龍馬はこの下士の出身でした。 明治に入って新しく決めら戸籍ではこの卒や郷士の人達も士族とされました。 江戸時代の身分制度というのは明確なようで曖昧だったということです。 公家、武家、百姓、町人、その他と大まかに分けられていましたが、士農工商のように職業による区分はありませんでした。
- shintaro-2
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秀吉の出した身分統制令(1591年)が、従来は士農工商を定めたものと考えられていたが、 実は武士一般を除外して 武家奉公人・町人・農民の 身分の異動を禁じた法であることがわかった。 という話では? (ずいぶん前からそう言われていますけど) 買うか、図書館で借りてお読みください。
- oteramairisuki
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士農工商などという職業のすみ分けはもちろんありましたよ。 ただ、上から順に士農工商というヒエラルキーではないということです。 もちろん士はTOPなのですが、農工商は横並び(同位)ということです。
お礼
みなさん回答ありがとうございます