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江戸の「町並地」とは
- 江戸の町並地とは、本所・深川一帯、山の手の町屋を町並地に指定したことで、江戸の総町数が急増しました。
- 「町屋を町並地にする」とはどういう意味か、町並地と町人地の違いや住人の呼称についても教えてください。
- 具体的な例を通じて、江戸時代の町並地における村方三役や年貢の変化について教えてください。
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コメントを読みました。 >>しつこく聞いて申し訳ないですが、この続きが知りたいのです。そして、どうなったのですか、という疑問です。 例えば、「年貢」であれば、代官の手を離れて、直接的に勘定奉行の支配するところとなった。と言うことで、つまりは、農民がこれまでは代官所に収めていたものが、以後は、直接的に幕府の米蔵へ収めることとなった。と言うことです。 また、「警察権」等についても、事件が発生した時や土地の境界争いなどが生じた時の訴訟などは、これまでは代官所で吟味されていたものが、以後は、町奉行所で取り扱いをする。と言うことです。 もっと簡単に言うと、「江戸」という町(「府外」または「郊外」、「市街地」なども含めて)に組み入れられたことにより、江戸の庶民と同じように扱いますよ。と言うことになります。 もう一つ念を押せば、それまでの「江戸」という町は、武士、工業、商業、だけの町だったものに「農業」(百姓)も加わえたということです。 ただし、あなたのおっしゃるように、百姓を江戸の庶民と同じように扱うこととなったとはいえ、農業を続けていく上においては、「村方三役」や「五人組制度」は存続しました。 >>大体のことは想像できるのですが、「年貢や税がどうなったのか」、最大の疑問です。 「年貢」については、村々によって違いますので一概に四公六民とは言えないのですが、いわゆる「税率」に関してはこれまでと同じ税率で徴収されました。 徴収方法、および、納税先は上記に述べた通りです。 その他の新しく加わった「税」(または、税の一部と考えられるもの)と呼ばれるものとしては、「労役奉仕」。 例えば、町並整備としての道路や橋の清掃、修繕。まあ、これらは村であった頃からもありましたが、より一層の整備の強化が求められました。 その他としては、「お城のお堀の清掃」「火災防止のための見回りの強化」などが加わりました。 >>「古地図」では「年貢町屋」なる名を散見しますが気になります。 「年貢町屋」とは、簡単に言えば、年貢を納める農家がある町。 つまり、以前は「〇〇村」だったものが、「✖✖町」(ちょう、または、まち)と名前を変えただけです。 例えば、「小日向三軒町年貢町屋」と言われる場所がありますが、そこには、三軒の農家があり、その農家が所有していた土地(農家も含めて)を町名に変更するにあたって「小日向三軒町年貢町屋」と呼ぶようにしたことから由来しています。 ただ「〇〇村」から「町名」に変更しただけで「年貢」を依然として納めていた町、ということになります。 その他にも、主に郊外になりますが、「本所松坂町二丁目年貢町屋」、「麻布今井町年貢町屋」、「上野町二丁目年貢町屋」・・・など、調べれば結構ありますよ。 余談ですが、「拝領町屋」というものもあります。 これは、本来は幕府から「〇〇(守)殿屋敷」として与えられていたものが、町民の増加に伴い、「〇〇(守)殿屋敷」の一部を幕府に返上させ(ある意味では、強制的に取り上げて)町民のための街にしたことから由来しています。 「本所松坂町一丁目拝領町屋」などが有名ですが、これは、ご存じの通り、赤穂浪士の討ち入りにより吉良上野介が打ち取られた地で、幕府は吉良の屋敷を強制的に取り上げて町民に開放し街に変えたものです。 あなたの答えになりましたでしょうか。
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- ithi
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kouki-koureisya さん、こんばんは。 正徳三年から代官支配地から町奉行支配地になったですから、●●村から●●町になると思います。ただし、いくつかの村が合併する場合もあると思います。 村民から町人になることになります。 町並みというのは江戸の町と同じく、町奉行が支配するということです。三軒茶屋の門前町の場合は寺社の支配地ですが、町奉行の支配地になっています。 町名主 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E5%B1%8B#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E3.81.AE.E5.90.8D.E4.B8.BB 宮益坂 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E7%9B%8A%E5%9D%82
お礼
ご回答ありがとうございます。 渋谷宮益町がそうなのですね。 また、「町名主」についても具体的でよく分かりました。
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お礼
厚かましい再質問に快く応じて下さって真にありがとうございます。 よく分かりました。 何がよく分かったのかと言いますと、これは私の知識ではなかなか理解できない難問だと言うことで す。 村の名を「○町」に替えて、そして代官に加えて町奉行の支配も受けるようになった、と安易に考えていました。 しかし、自分の質問を読むと 「正徳3年(1713)に、本所・深川一帯、山の手の町屋を町並地にした」と書いています。 「町屋を町並地」にしたのであって、村のことなど一切触れていません。 私の思い込みで、本所・深川一帯、山の手の「村」を「町」にしたと思っていました。 先ず、「町屋とは?」を知らねばなりませんが、ここで行き詰まっています。 江戸の郊外の農村のあちこちに「町屋」が続々と増えて、それらは街道筋であれば町並(市街地)となったでしょうが、農地のあちこちに数軒ずつの町屋が散在している地域もあったのでは、と想像しています。 これらの町屋を拾い上げて、あるいはもともと「○町」と呼ばれていた町もあった(むしろ、いっぱいあった)のかもしれませんが、「○町」として町奉行の支配下においたのではないかと、想像しています。 郊外では村の方が大きくて村の中に「町」があったような気がします。 >例えば、「小日向三軒町年貢町屋」と言われる場所がありますが、そこには、三軒の農家があり、その農家が所有していた土地(農家も含めて)を町名に変更するにあたって「小日向三軒町年貢町屋」と呼ぶようにしたことから由来しています。 このサイトに延寶年中之形(1673-81)の地図がありますが、左下にも「小日向○町年貢町屋」があります。 また、「小日向清水谷町」の名もあります。 私は、江戸郊外の集落は全て「村」と思っていましたから、今、混乱状態です。 「学 長 室 か ら の 花 便 り」 http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/bunkyo/n147.html >「年貢町屋」とは、簡単に言えば、年貢を納める農家がある町。 分かりました。 ホントは分かってはいませんが、分かったことにしなければ前に進めません。 隣接する「小日向清水谷町」との違いが分かりません。(独り言ですから無視してください) >もっと簡単に言うと、「江戸」という町(「府外」または「郊外」、「市街地」なども含めて)に組み入れられたことにより、江戸の庶民と同じように扱いますよ。と言うことになります。 そうですね。このように全体としては分かるのですが、各論になると混乱してきます。