【哲学を知った所で人間は何を得たのでしょう?】
【哲学を知った所で人間は何を得たのでしょう?】
フランシスコ・ベーコンはこう言った。
「
海のほか何も見えない時に陸地がないと考えるのは決してすぐれた探検家ではない
」
と。
要するに人間の真理は観察ではなく自分の経験でしか得られないと。
で、自分の経験は他人の経験ではないのであなたの経験が全ての真理ではないと。
歴代の哲学者は人生の真理を追いかけたが矛盾というか誰にも否定されない真理を解き明かすことが出来ないまま月日が過ぎた。
ソクラテスは「汝、自身を知れ」と言った。
ソクラテス以前の哲学者は1つの答えを出そうと必死に答えを探していたが、
ソクラテスはその人生の真理を見つけたという人物にその答えに対する疑問を投げかけて、ついに真理を見つけたという人物は言葉に詰まって自分が自分のことを良く分かっていなかったと悟り
「無知の知」
自分のことを自分が1番分かっているようで実際は自分自身の問題についての結論を自分で出した回答も答えが間違っていることは多く
自分のことが分かっていないことを知っている人の方が人生の真理に近いと説いた。
で、また月日が過ぎて、
デカルトが現れた。
デカルトは「我思う故に我あり」という矛盾がない答えを出した。
人生の真理の答えは我思う故に我ありという結論で決着が着いた。
けど、
人生の真理の答えが我思う故に我ありという矛盾がない答えだったと答えが出て納得がいかない人が
人生の真理は分かったがなぜ生きているのだと生きている意味を知りたがるようになった。
人生の幸福である。
人生の目的を人生の真理から人生の幸福へと興味が移っていった。
アランは「幸せになろうとしない限り、絶対に幸せにはなれない」と言った。
幸福だから笑うのではなく、笑うから幸せなのだと。
ショーペンハウアーは「富は海水に似ている。飲めば飲むほど喉が乾く」と。
要するに人生の真理はデカルトの結果で結論が既にもう出ていたってこと。
あとの時代の哲学者は人生の真理の追加要素に過ぎない。
で、人生の真理はデカルトの我思う故に我ありで決着が着いたがその人生の真理を知ったところで何を得たのでしょう?って話です。
人生の答えが哲学で分かったが分かったところで何も人生は変わらない。
人間は得たのに変わらなかった。
哲学で何を得たのでしょう?
お礼
回答ありがとうございます もう時間がないので締め切りたいと思います