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日本古代史における諱(いみな)について
『デジタル大辞泉』によると諱は(1.生前の実名) とあります。 「桓武天皇」Wikipediaの脚注2に (当時の皇子女の諱は乳母の氏名(うじな)が採用される慣例) とあり、 土橋 寛著『持統天皇と藤原不比等』に (持統天皇の幼名「鵜野讃良皇女」は皇女を養育した河内国「更荒(さらら)郡」の 「鵜野(うの)邑」に居住する渡来人の名を負う)とあり、 (藤原不比等(史)は養育者であった山科の「田辺史大隅」に基づく)とあります。 そこで疑問です。 日本古代史において 1.諱は実名とされるが、幼名でもあるのか 2.諱は乳母の名に基づくのか(養育地や出生地でなく) 例 桓武天皇の山部 3.諱は乳母でない養育者に基づく場合があるのか 例 藤原不比等の史 3.諱は養育された地(場所)の場合があるのか? 例 光明皇后の安宿媛 4.諱は出生地の場合があるのか 5.養育者はどのような経緯で決められるのか 6.皇族貴族の子でありながら、なぜ親元から離れたところで養育されるのか 以上ですが、どうかよろしくお願い致します。 なお、日本古代史における諱について総合的に解説した文献があれば、それもご教示いただければ幸いです。
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1.諱は実名とされるが、幼名でもあるのか 幼名は幼名として別にありました。 幼名に対して成人すると字(あざ、あざな)というのがありました。 成人には諱と字があるということです。 2~5 さしたる決まりはありませんでした。 6.皇族貴族の子でありながら、なぜ親元から離れたところで養育されるのか 近代になる以前は洋の東西を問わずにこのような習慣がありました。 いずれのご質問も基本的には幼児死亡率が高かったことに由来します。 親元から離すのは原理的には、出産後の母親の体力回復(産後の肥立ち)を意図していました。 これに数々の習慣が重なっていました。 他人の手で育てられると丈夫に育つという考え方がありました。 子供を捨てたことにして拾うという儀式などがありました。 秀吉がやっと生まれた秀頼をおひろい(拾丸)と名付けた話がよく知られています。 現在でも厄年の女性が出産した場合には、捨て子の儀式と呼ばれるものが行われている地域や習慣が残っています。 江戸時代までは幼児は七歳前後までは人間と神様との中間の存在とされていて、死亡しても葬儀などはありませんでした。 このために取りあえずの呼び名として幼名があります。 現在でも宮家(皇族)にはこの習慣が残っていて〇宮と呼ばれます。 浩宮(ひろのみや)徳仁(なるひと) 礼宮(あやのみや)文仁(ふみひと) 紀宮(のりのみや)清子(さやこ) 諱は中国伝来のものです。 諱(いみな)に忌む名という意味が含まれていますように、直接この名前を呼ぶことはタブーとされていました。 中国では実名敬避俗と呼ばれ、儒教の精神で無礼なこととされていました。 日本では古来から言霊思想というのがあり、名前を呼ぶのは相手を支配下に置くことになる、という考え方がありました。 これが中国の諱の習慣をスンナリ受け入れる元になりました。 直接名前を呼ぶな、というのは旧約聖書の十戒にも見られます。 「神の名をみだりに唱えてはならない」とされています。 神の名というのはヤハウェ (JHWH) あるいはエホバ(Jehovah)と表記されます。 直接名前を呼ばないという習慣は古くからありました。 紫式部も清少納言も朝廷の官職名です。 実名は伝わっていません。 現在でもサラリーマン社会に残っています。 上司の向かって〇〇さんと言わずに課長とか部長と役職名を呼ぶのがこれです。 >日本古代史における諱について総合的に解説した文献があれば、それもご教示いただければ幸いです。 未読で詳しくは知りませんが下記のような書籍があるようです。 名前の日本史 (文春新書) 新書 紀田 順一郎 (著)
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- trytobe
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古代の範囲の定義も不明瞭なご質問ですが、 1.現世で名乗っていた名前を忌み嫌うための習慣だから、諱。死後に生前の名前をもって死者を称するのは、幼名であっても忌み嫌われるのみ。つまり、諱を1つに定める行為は本末転倒。 2.3.4.生前の名前として、「区別しやすい呼び名」であればよい。一夫多妻が存在していた時代に、天皇や皇位継承者が、すべての妻のすべての子を把握できるような情報であれば十分。 5.世継ぎとなる実子が、女性によって確実に育てられること。 6.後継者争いとして、皇位継承者が殺害されることを危惧する場合には、警護しやすいところに置くことや、仏門に入れることもあり得る。
お礼
2,3,4(旧 あとの3)、5(旧4)は 「いずれのcaseもある」ということでしょうか。 6(旧5)と7(旧6)についてはよくわかりました。 早速のご解答ありがとうございました。
補足
trytobeさまのご指摘のように古代の範囲が不明瞭でした。 そこで範囲を、推古天皇から桓武天皇(平安時代になりますが)の時代までに訂正します。 また、3番が重複していますので、申し訳ありませんが、あとの3以下を+1で読み替えて頂きますようお願いします。
お礼
ichikawaseiji さま 詳細なご回答ありがとうございました。 先のtrytobeさまのと合わせて、次のように理解しましたが、これでよろしいのでしょうか。 (1)諱と幼名とは異なる。 (2)諱の命名にはさしたる決まりはなく、「区別しやすい呼び名」であればよい。 (3)乳幼児が親元から離れたところで養育されるのは、主として 子供については安全な養護と危害防止のためであり、 また母体の産後ケアのためでもある。 ご紹介いただきました、紀田順一郎『名前の日本史』文春新書、2002年 は早速読ませて頂きます。 実は、私は主に飛鳥・奈良時代の人物の出生地、養育地に関心を持っています。 例えば、光明皇后は『東大寺要録』に「諱安宿媛」の記載があり、安宿(河内飛鳥か)と光明子の関わり方について、 藤三娘は 安宿で生まれたのか、安宿で育ったのか、安宿は養育した人物の姓(例 安宿王)なのかを考えています。 また、機会がございましたら宜しくご教示くださるようお願い致します。 ありがとうございました。