こんにちは。
「♪お江戸日本橋七つ発ち・・・」
これは、元々は大名行列・・・が正解です。
後には、庶民もそれにならいました。
回答から先に述べると、
江戸時代、大名行列は「七つ刻」に出発をするのが一般的でした。
(よもやま話)
★参勤交代は、慶長7年(1602)に加賀の前田利長が、江戸で人質として暮らしていた母芳春院を訪ねて江戸へ出て来たのが初めとされています。
この時、「礼」を尽くすため家康に拝謁したところ、家康が大層喜び「忠義者である」と誉めたたえました。
これを聞いた諸藩の大名たちも、忠節をアピールするために、次々と江戸へ出府し将軍家へ「反意のないこと」を示すために拝謁をしました。もちろん、出府しない大名もいました。
★当初は、特に決まり事がなかったため、大名たちも、いつでも好きな時に出府をしていましたので統制もきかず、また、将軍家でも予定が立たない。
★そこで、3代将軍家光が寛永12年(1635)に「武家諸法度」全19ヶ条を定め、その第2条に「参勤交代」を制度化しました。
★初期の頃の参勤交代の期日は「夏四月中」とだけ書かれており、現代の太陽暦に直すと、おおよそ5月。つまり、入梅以前に参勤するように書かれてありました。
★しかし、各地の大名が一斉に行動をしたため、宿場や街道筋などでのトラブルが多発するようになり、寛永19年(1642)(家光)からは、西国の譜代大名は2月、関東、東海の譜代大名は9月。外様大名は依然として4月。というように時期をずらせました。
★大名行列では、「道中奉行」が任命され、行列の先回りをして「宿」の手配をしました。
★宿場などで「本陣」「脇本陣」と言う宿泊施設を、主に庄屋や名主などが経営していました。
「本陣」・・・殿様とその側近の宿泊施設。
「脇本陣」・・その他の随行してきた家来たちの宿泊施設。
★しかし、夜五つ(午後8時)までに宿へ入らないと、宿側も断ることができ、そのような時は「野宿」をしました。
★もっとも、参勤交代は、あくまでも「軍事行軍」とみなされており、必ず、陣幕や鍋、釜、食材、風呂桶、さらには、殿様用便器までも持ち歩いていましたので、野宿も多少は不便ではありましたが、可能な態勢でした。
★さらに、宿に入っても宿の料理人が食事の支度をするのではなく、宿の調理場を借りて、家来の中の「御膳掛り」が全てを調理をして食事をしました。
また、一応「風呂場」という場所もありましたが、そこは単なる板敷きで、持参した風呂桶をそこに据えて入浴をしました。
★★★そして、翌朝の出立は七つ(午前4時)と決められていたのです。ただし、遠国の大名などになると、八つ半(午前3時)~八つ(午前2時)頃には宿を出立しました。これには幕府の許可を必要としましたが、陽のあるうちに行程を縮める必要があったからです。
これが後の、庶民のお伊勢参りなどでも定着し、「七つ発ち」が習慣的となったのです。
★「下に~」「下に」と先触れが声を張り上げますが、これは自分の領内と他藩の領内へ入る時、出る時。そして、江戸へ入る時だけでした。
その他の場所では供揃えも乱れ、雑談をしたり、景色の良いところでは立ち止まって眺めたりしました。
★幕府の役職者、例えば、老中とか若年寄などは常に千代田城(江戸城)に常駐していなければなりませんでしたので、参勤交代は免除されました。また、京都所司代や大坂城代なども常駐することが義務付けられていましたので免除されました。
太田道灌が江戸に城を建てた頃は「江戸城」と呼ばれていましたが、家康が入府してからは「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」または「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼ばれ、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました。「江戸城」の呼称が復活したのは明治になってからでした。
★参勤交代の供揃えの人数については、当初は決まりがなく、加賀の前田藩では、実に4,000人とも言われました。
参勤交代は、もちろん、大名たちの財力を減らして謀反を起こさせないようにするためでしたが、大藩ならともかく、小藩では商人たちから借金をしてまでも参勤交代をせざるを得なくなり、不満も出始めたため、幕府は藩を大、中、小に分けて、人数制限をした記録も残っています。ただし、余り詳しい史料は残ってはいない。
史料に残るものとしては、享保19年(1642)の秋田藩を見てみると、
家臣131人、医師3人、陪臣(家臣の家来)856人、御徒衆49人、御小人衆70人、足軽189人、夫丸18人、御茶屋衆10人、総計1,350人。馬42騎。となっています。
★参勤交代では、当然、他藩を通過するわけですが、前出の「道中奉行」が通過する藩へ事前に「およそ何日ころ通過します」と伝え、礼を尽くしました。
そして、通過される藩も道筋の草刈りや整備、橋の補強や修理などと、まあ、お互いに気をつかいました。
しかし、その領内に入っても、大名同士が合うことは一切禁じられていました。
これは、もし、仲良くなって「幕府転覆」などを話し合われては一大事でしたので、たとえ、親戚筋であっても、大名同士が合うことは固く禁じられていました。
ただ単に、使いの者が行き来しただけです。
★隣接する諸藩は、お互いの話し合いによって、交互に参勤しました。
従って、全国の大名が江戸で一同に会することはありませんでした。
例えば、「豊前」「豊後」を見てみると、
中津、杵築、府内・・・譜代大名。
日出(ひじ)、臼杵、佐伯、岡、森・・・外様大名。
そして、
子、寅、辰、午、申、戌年には、中津奥平氏、臼杵稲葉氏、佐伯毛利氏、杵築松平氏。
丑、卯、巳、羊、酉、亥年には、府内松平氏、日出木下氏、岡中川氏、森久留島氏。
これを「御在所交替」と呼びました。
★通行中のトラブル。
11代将軍家斉の頃、明石藩松平斉宣(家斉の第53子!!)が御三家筆頭の尾張藩を通行中に猟師の源内とい者の子ども(3歳)が行列を横切ってしまいました。
怒った家臣がその子供を捕まえて本陣まで連れて行ってしまいました。直ちに、名主や坊主、神官までもが本陣へ行き許しを請いましたが、斉宣は聞き入れず、目の前でその子どもを斬り捨ててしまいました。
尾張藩の耳にもその事件が耳に入り、これをおおいに怒り、使いを出して「このような非道をするならば、今より当家の領内は通らないでもらいたい。直ちに退去願いたい」と伝えました。
斉宣は将軍の子とはいえ、一大名。ましてや、尾張藩は御三家筆頭で格上。
斉宣は、やむなく、ただちに本陣を引き払い、まるで農民のようにコソコソとした格好で尾張藩領内を抜け出して野宿をしました。
その後、猟師の源内は斉宣が20歳になったのを期に、木曽路で得意の鉄砲で斉宣を射殺してしまいました。もちろん、源内は死罪となりましたが、子どもの恨みを晴らした、と言うわけでした。
★良くTVなどでは、宿に入った御殿様が芸者を揚げてドンチャン騒ぎ、果ては、遊女と一夜を明かす。
とんでもない大ウソ!!
前述しましたが、参勤交代はあくまでも「軍事行軍」。従って、絶対的に女人禁制。
また、「遊女」と名乗って良いのは江戸、京都、大坂のみ。いるとすれば「宿場女郎」か「飯盛り女」。こんな安物を大名たる者が買うはずもなく、一夜を過ごすなどは「もってのほか」。単なるTV視聴率を上げるための所業。大ウソ八百!!
まあ、まだまだ面白い話はありますが、大分長文にもなりましたので、またの機会といたしましょう。
お礼
ありがとうございました。 ご薀蓄からの詳細なお話、大変勉強になりました。