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謙譲の助動詞はなぜない?

 現在の学校文法では、尊敬の助動詞とされる「れる・られる」があり、これを動詞につけることで簡単に尊敬表現を作ることができます。それに対して謙譲の表現は、動詞を「お~する」ではさむか、動詞を謙譲の動詞に換えますが、同様のやり方は尊敬の表現にもあります。尊敬の表現にだけ、「助動詞をつける」というやり方が、いわば一つ多くあると言えませんか。  なぜ、尊敬の助動詞はあるのに謙譲の助動詞はないのでしょうか。どなたか理由を解説していただけませんか。

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回答No.1

レル・ラレルは、古文ではル・ラルです。 これの元の意味は「自発」です。 日本語では、AがXをした、と直接的に言うよりも、AにXという事態が起きた、と間接的言う方が好まれます。とくに尊敬すべき相手について、直接的な表現を避け、なるべく間接的に言おうとします。 そのようにして、「自発」から「尊敬」の用法が生まれました。 「お~になる」も同じような発想ですね。 ご質問に表面的にお答えするとすれば、 尊敬の助動詞は自発から生まれた派生表現であり、 謙譲の助動詞を生むような、もとの助動詞がなかったから、 となります。 さて、同じ尊敬とは言っても、尊敬のレベルが違います。 相手によって使い分けるわけです。 「食べる」「食べられる」「お食べになる」「召し上がる」の順に敬意が上がります。 「おほとのごもる」は貴人専用です。 それに対して自分は一人ですから、レベルの上げ下げは考えませんでした。 相手によって自分を低める程度を変える、という手段はとらなかったのです。 謙譲も尊敬も両方複雑なシステムは選ばず、そして、自分を低めるより、相手を上げる方を優先したともいえるでしょう。 相手はいろいろ、でも自分は一人、と考えれば、あながち不合理ではないと思います。

marisuka
質問者

お礼

>謙譲の助動詞を生むような、もとの助動詞がなかったから >自分は一人ですから、レベルの上げ下げは考えませんでした >相手によって自分を低める程度を変える、という手段はとらなかった >謙譲も尊敬も両方複雑なシステムは選ばず >自分を低めるより、相手を上げる方を優先した  このへんがご回答の要点かと思いますが、であるならば「謙譲の助動詞」を一つ設定して、すべてそれですませる、という行き方もあったはずです。そのやり方であっても、上記の下の四点は満たせると考えられます。そのうえで、なぜその方法がとられなかったのか、なぜ「もとの助動詞」がなかったのか、を知りたいのです。  まあ言語ですから、「なぜ」は不毛な質問で「そうだったんだからそうなんだ」以外に説明のしようがないとは思いますが。  ともあれ、この不毛な質問に真剣にお考えくださったことに感謝いたします。本当にありがとうございました。