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この説話がわかる方、教えてください
昔むかし、ある村に若いお坊さんがいました。村人のために尽くして、たいそう尊敬されていました。お坊さんは本山に修行にゆくことになり、村人はこころよく送り出しました。 数年経ち、お坊さんが修行から帰ってくると、もとのありがたみが薄れており、村人達は以前のようにお坊さんを敬わなくなりました。 Q1. この話の出典はどこでしょうか? Q2. この話の意味するところは、なんなのでしょうか?普通なら本山で修行したら、その分成長すると思うのですが・・・
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Q1 はわかりませんが Q2 はなんとなく分かります。 心が篭った奉仕は、その行為自体がありがたいので、偉い人がしても、無名のヒトがしても価値は変わらない と言っているのでしょう。おそらく、その若いお坊様は、本山で修行して位階を得、袈裟の色が変わり、無意識のうちにも、ちょっと偉ぶるようになって権威をひけらかすようになったのではないでしょうか。 だから村人は離れていったのだろうと思います。
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ニワトリが鳴くまでに3回知らないと言ったペテロ」←この部分も比喩です・・ 言葉通りに取らない事・・ 隠された意味があるのです・・
- Tefu_Tefu
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こんばんは glass-rabbitさん >この話の意味するところは、なんなのでしょうか? この話はお坊さんの視点からより、村人の視点で考えてみると理解できます。 前半の文章から、「溺れる者は藁をも掴む」という諺を連想しました。 後半の文章から、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という諺を連想しました。 村人が困っていた時は、村人は若いお坊さんの親切心だけでありがたかった。 しかし、若いお坊さんが村からいなくなってから、村人は村の問題を話し合いで解決するようになった。その結果、村は豊かになった。 若いお坊さんが立派になって村に帰ってきても、村人は他人に縋るより自分達で話し合い、そして、考えて行動するこが必要なことが分かった。 村人にとって立派になったお坊さんの説教は、もはや、何の意味も無いものに聞こえたのでしょう。 >立派になったお坊さんも「無知の知」を理解できれば良かったんですが。 明らかに、村人にとって必要(自分達で話し合い、そして、考えて行動する)なのは、一緒に考えてくれるお坊さんだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 お坊さんがいないあいだも、村の現実問題は続いてゆき その間もなんとかしなければいけないので、 村人は自分たちで成長して解決した。 このように捉えると、はしごは登ってしまえば不要になる、とか 法華経で、お釈迦様は実は死んだのではなく常にこの世界にいるが、 人々が頼りすぎるのもよくないので一度亡くなったのであるという お話しにつながる気もします。
- urbanite
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こんにちは。 出典がわかりませんので、この説話の本当の意味は分かりかねますが、主体をどこに置くか、何の為に用いるかで実に多様な解釈をする事が可能な話しだと思います。 村人に焦点を当てると、「人は尽くされているから尊敬をするのであって、数年間本山で修行し、真理の体得が進んだとしてもその数年間は尽くしていないから尊敬の念が薄れている。つまりギブアンドテイク意識」という民心の低劣さみたいなものを示す話しにも見えますし。 前の方が仰っている様に修行で少しばかり偉そうになってしまっているのかもしれませんし。
お礼
そうですね。この話は含みがあって、いろいろと考えさせられます。 村人に尽くす行為は利他ですが、本尊での修行は基本的に利己ですから 村人と溝ができてしまうのもしかたないのかもしれません。
この話の出典はどこでしょうか←出典では無く 普通に宗教なら 戒めとして用いられる事もあるし 無宗教者により作られる事もある話・・でしょうね・・ そして イエスキリストも ゲッセマネの祈りの時に 弟子達は 眠っていた・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ この話の意味するところは、なんなのでしょうか←逆の立場を あなたは理解していない・・
お礼
「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」 (マタイ26:41) ニワトリが鳴くまでに3回知らないと言ったペテロ このお坊さんの話も信仰心は薄れやすいという戒めなのかもしれませんね。 回答ありがとうございます。
お礼
回答ありがとうございます。 わたしもこの話に疑問を持ったのち、あなたのような 受け取り方をしました。 たぶん、お坊さんの最初の奉仕は雑念もなく村の現実問題に打ち込んでいて尊かったものが、 本山での修行中に別のロジックに取り込まれて、ありがたみが薄れてしまったのではないかと。 今の私たちの身の回りでも、似たような事例で、 市民運動で盛り上がってた人が、選挙で当選して国会に送り出されると、 永田町の論理にからめとられて輝きを失ってしまうとか、 若者の気持ちを歌って共感されてたミュージシャンが、 メジャーデビューして何年かしたら業界の風に染まってしまったとか、 面白くてみずみずしい文章を書くOLがエッセイストになったら、 編集者やらの文壇話ばかりになって鼻白むとか、 そんな感じの話かもしれません。