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親族の集い、本音で出席の有無を決めない意義とは?
親戚の集まり、腹に何かたまっていて親族に嫌悪感があっても、義務のように集まる。そして、それを態度や言葉に出す人もいる。そういう人は、なぜその集まりに行くのでしょうか? 例えば結婚相手の親族が結婚したら、祝いの席に行くのが常識というのは分かる。そして祝う気持が無い場合、その本音で欠席したら非常識なんだろう、やっぱり。 親族の集い、本音で出席の有無を決めないことに、人の、何か大切なことがあるのでしょうか?どんな意義があるのでしょうか?
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- 56syukumou
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回答No.2
私も親戚の集まりは義務と思っていましたが、うちの親族は違います。 長男次男の嫁は、新年会や義母の入骨式にも来ませんよ。 それをとがめる人もいません。 来たい人が来れば良いだけです。 嫌なら行かなくても良い時代です。
- yaasan
- ベストアンサー率22% (2731/12290)
回答No.1
義理を果たすというのはとても大切なことです。それは後々、他人の力が必要になった時に借りることが出来るからです。 人間は生きていれば、ほとんどの人はどこかで人の力を借りなければ困難を脱出することができない事態に陥ることがあります。また、人のつながりがあることで幸運を授かる回数はない人に比べてとても多くなります。 人付き合いは面倒でも心が伴わなくともそういう時のために最低限の義理を果たしておくべきだと思います。伴えばもっといいですが。 ですから言葉や態度に出す人はとても損をしているのです。行かないと同じような状態を作っているのですから。 集まりには顔を出す、(相手が)仕事といえどもしてもらったら「ありがとう」を言う。その言動によってどれだけ自分が生きやすくなるか、世間の人々をじーっと眺めると真実は見えてきますよ。