- ベストアンサー
生活を微分して得られる信仰のイメージとは?
- 生活を微分すると、非思考の庭である信仰のイメージが得られるのではないかと考えられる。
- 自分自身の生活や人格を微分しても、有神論の信仰のイメージは得られず、不連続であるとされる。
- 無神論の信仰では、生活を微分するとフラットな横の一線や円や球になり、存在意義としての義を持つとされる。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>>多くの日本人にとっては、信仰なんてどうでもよいのだと思います。 先祖代々の“習慣”を受け継いでいるだけ。要するに恰好だけの信仰でしかない。いや、信仰ですらない。 というのは、、、質問者様もご存知の様に、日本人の多くの民は神社あり、十字架あり、寺ありの信仰です。これは“信仰”なのです。 しかしながら、『何にでも縋れば良いというものではない。』ということです。或いは、縋るのではなく、『イメージ』によって結婚式や葬式や初詣を“行ってしまう”民族なのです。 こうなると、もはや“信仰”という形の“信仰心のない儀式”としか言いようがない。 『あなたの宗教は何なの??』、、、と、つい聞いてしまいます。 すると、多くの民は『無宗教です。』などと、馬鹿丸出しで回答してきます。 世界の多くの国を見るに、先ず宗教があって、それをもとに人が集まり国になった例も少なくないと思います。もしくは、異教徒を武力をもって徹底的に弾圧し、追放したりして最終的に国が形成されたり。多くの場合は『島国』ではなく大陸で陸続きなため、ある程度移動は可能だったのではないでしょうか。 この辺りが、日本と外国の大きく違う点だと思います。 また、日本は飛鳥時代~平安時代において、百済・中国より仏教が伝来して、日本に古来から伝わる宗教と混在してしまいました。さらに、仏意ではなく多くの学僧により研鑽がなされたのは良いのですが、個義により教義が展開され多くの宗派を生み出し現在に至ります。 朝廷・幕府は権力を上として、仏教を重んじず利用し、研鑽もせず放置した結果、現在のように無用な宗派が多く蔓延ってしまう結果となった。要は朝廷・幕府にとって寺や神社の宗教的組織が利用するもので脅威ではなかったのでしょう。 そういった意味からも、海外との歴史的背景がまるで異なると思うのです。
その他の回答 (1)
- ks5518
- ベストアンサー率27% (469/1678)
>現代の人間論についてさらにご見識をたまわりたいと存じます。 ◎人間とは、、、、 a.世界中の人間を指す(日本人含む)。 b.日本人限定で論議する。 ※多くの日本人にとっては、信仰なんてどうでもよいのだと思います。 先祖代々の“習慣”を受け継いでいるだけ。要するに恰好だけの信仰でしかない。いや、信仰ですらない。 c.世界の人々と日本人と分けて考え、それぞれについて論議する。 さて、いづれでしょうか??
お礼
なるほど。具体的な問題が横たわっていそうですね。 ご回答をありがとうございます。 論理だけで考えれば 答えは: ◎人間とは、、、、 a.世界中の人間を指す(日本人含む)。 になるでしょうね。そして場合によっては c.世界の人々と日本人と分けて考え、それぞれについて論議する。 ことになるかも知れないと。 すなわち その《場合によって》というのは当然のごとく b.日本人限定で論議する。 とした場合によほどの特殊性があると認められたときでしょうね。 さて ということは 次の問題を明らかにしてみるのがよいのでしょう。: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ※ 多くの日本人にとっては、信仰なんてどうでもよいのだと思います。 先祖代々の“習慣”を受け継いでいるだけ。要するに恰好だけの信仰でしかない。いや、信仰ですらない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どうなんでしょうかねぇ。 わたしなりの捉え方です。 すでに 日本人の――個人的な信仰ではなく 集団〔の一員〕としての――シュウキョウにかんしては 次のような状態および情況にあるのではないかと考えています。 【Q:クウキ教たる一神教としての日本教をどうあつかうか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa9028197.html ☆☆ (その趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~ この日本教=クウキ教には 神道をベースにして 仏教の諸仏を採り入れ そしてキリスト教の姉妹編としての唯物論教(つまり 無神論教)をもじゅうぶんに有益にはたらくかのような異端分子としてやはり採り入れています。 日本教・総本山 神道 仏教支部 儒教支部(?) キリスト教支部 マルクス教支部 無神論教支部 《お花畑》平和教支部 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 多かれ少なかれ日本人なら このクウキ教の中に息をして生きています。そのクウキを読んで《積極的に》流れに棹差す向きもあれば この雰囲気を嫌い《お花畑》志向に進む場合もあるかと思います。 あるいは けいえす5518さんのところの場合は 異端の中の異端であってもよいから このクウキ教社会の中でそれとして有力な一角を占めることによって あたかも一般の思潮に対抗し得るほどに有力な独自のいまひとつ別のクウキ〔なる勢力〕を成すということ。こういう生き方ではないかと考えます。 例によってわたしは明け透けですから何でもしゃべっちゃいますが この場合の問題点は 別種のクウキが けっきょく主流としてのクウキと――中身は違っていたとしても その社会的・集団的な人びとのまとまりを形成するための手段としては――《同じ穴のムジナ》路線を走っているのではないか。こうは思います。 ですから ただし 総論としてのクウキ教に対して反骨精神を持つ人間たちは 個人としての信仰を確かに抱いている。ということになるかと考えます。 ところで 先ほどの質問の趣旨説明欄には 次のようにもしるしています。: ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 日本人にとっては ムラムラにおける自然との共生を生きる古くからの―- 一人ひとりにとっての――信仰が息づいていると見ます。生活の問題です。 ただしこれを基礎として 社会形態が国の家というごとく二階建ての構造となったときには それとしての民族宗教がつくられました。あるいはつまり 民族としてのひとつにまとまった神をまつる実質的に一神教が――空気のごとく――形成されてきた。 ムラびとたちは これに くにゆづりをした。ムラムラのマツリは お二階さんたちのマツリゴトによって吸収されるかたちを採った。ムラびとたちどうしのヨコの助け合い寄金が――あるいは神々とのタテの祀りの品が―― お上なる二階とのタテの関係(国家財政)の中へ吸収されて行った。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり言いたいことは それぞれのムラ(市町村)にはそれとして自分たちの《まつり》が持たれてもいます。まだなお息づいています。 したがって 単純に言いますと ひとりの日本人は ふたつの顔を持つ。 ひとつは お二階さん相手のタテの関係としての顔であり これは クウキ教の問題です。 もうひとつは ムラの中のマツリにおける互いのヨコどうしの関係としての顔。これは 大昔からの・集団的にして個人をもそれとしてとうとぶ個人にとっての信仰の顔です。 つまり 意識せず自覚していなくとも 日本人は何なりと信仰は――隠したかたちとしてでも――持っていると思われます。 問題は その個人としての信仰が お二階さん主導の大日本クウキ教のゆるやかな縛りの中で どれだけ自由な動きが出来るか? ではないでしょうか。 そして確かに中には その自覚が何ら持ち得ずに生活しているといった場合もあるのかも知れません。 その上で 昔は (さ)のような助け合いを生きる共同体的な生活がやはりあったであろうし いまは(こ)のように個々バラバラの行き方の色彩が濃くなって来ているのではないかと思われます。 この問題――《日本人問題》――は ただ通りすがりにちょっと議論しておけば足りるというような問題ではないようです。 少しづつ 小主題を取り上げて互いに問い求めて行くかたちを採るのがよいかと思っています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というのは、、、質問者様もご存知の様に、日本人の多くの民は神社あり、十字架あり、寺ありの信仰です。これは“信仰”なのです。 しかしながら、『何にでも縋れば良いというものではない。』ということです。或いは、縋るのではなく、『イメージ』によって結婚式や葬式や初詣を“行ってしまう”民族なのです。 こうなると、もはや“信仰”という形の“信仰心のない儀式”としか言いようがない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このくだりには いろんな要素やいろんな日本人の生活の側面が交ざっているのではないかと考えます。 神社・寺・十字架あるいはすなわち初詣で・葬式・結婚式の混合は わたしは大した問題ではないと考えています。 ひとつに いちばん大きな理由として 信仰にとって神は 普遍神であるしかなく そのような場所や行事の違いは何ら問題にならないと考えます。 日本教の中の神道支部・仏教支部・キリスト教支部といった振り分けや棲み分けの問題としてではなく――そうだとしたら ただのクウキ教の中にどっぷり浸かるだけの話になります そうではなく―― 神主も僧侶も神父や牧師をもみんな 普遍神なる神のもとにつかえる人たちとして一般市民は使えばよい。という考えです。 シュウキョウとしては日本教総本山に仕えているのでしょうけれど―― 一面としてそうなのでしょうけれど―― 信仰としてはやはり普遍神に仕えていると 強引にでも 見なして行けばよいのではないでしょうか。 ということは おそらく成すべきこととしては 日本教を骨抜きにすること。ではないでしょうか。 クウキとしてあたかも誰もが従わなければならないような靄がかかっているというとき この靄をきれいに晴らすことです。 ひとつには あぁ アース役はつらいよ けっこう毛だらけ猫灰だらけ・・・という大合唱をおこなっていくこと。これによって 靄は晴れ クウキは――当面は――ガミガミ役の立ち場が不利になるように流れて行くようになること。これを目指します。 ゆくゆくは 人びとみんなの民主的な話し合いをめざします。話し合い形式がクウキなるコミュニケーション形式に取って代わるという意味です。 ★ しかしながら、『何にでも縋れば良いというものではない。』ということです。 ☆ じつは こういう非常に弱い信仰のすがた これも実際ではないかとわたしも思います。 信仰というよりは 撞球の球のようにあっちから突かれてこっちへ来て そこでまた突かれたら 向こうへ行くというような成り行き信仰ですね。 まぁ でもこういう場合は クセがありません。クセがないだけ 信仰に目覚めるのは早い。でしょう。 《島国とシュウキョウ》の問題ですが 次のひとつの――わたしに言わせれば――歴史的大事件が 何ごとにも重要な鍵をにぎると思っています。 タカマノハラのアマテラス人たちが イヅモのくにを見て 治水をうまくやり薬草の研究に熱心で早くから医療に精通している なかなかいい国ぢゃないか ようし あれは 昔からおれたちの領土だ 行って服属するよう言い渡してやれ と言って帝国主義的行動を採ったところから この島国での国家が始まったのです。 つまり 攻めて来たので イヅモは非戦論を採って くにゆづりをしました。どうぞ 社会にも神棚をつくりますから そこにお住みくださいと言って くにの経営を任してやりました。いまに到っています。千五百年。 つまりは お二階さんの主導様式 これが 日本教でありクウキ教であり れっきとしたシュウキョウです。 いろんなシュウキョウ・宗派は このアマテラスお二階さんの意向にしたがうという大いなるシュウキョウのもとに宗派の対立を超えて国民精神総動員の体制に貢献しているのではないでしょうか。じつに まとまりがよい。 ★ そういった意味からも、海外との歴史的背景がまるで異なると思うのです。 ☆ でも 韓国教・中国教 アメリカ教・ロシア教 インド教エトセトラ・エトセトラがあると思いますよ。 政治は マツリゴトであり シュウキョウだと考えます。 ちょっと 《国家教》という一面に片向きすぎましたか?