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維書について
日本では明治維新以前は、干支が辛酉や甲子の前後に革命が起こることを恐れて改元(元号を変える)する慣わしがあったとされます。 皇紀元年もこの讖緯思想(しんいしそう)を参考に算定されたとされています。 讖緯思想は中国古代の維書(いしょ)という予言書に載っているものとの事なのですが、これについて詳しく知りたいです。
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緯書は、儒教の経典の解釈にかこつけて神秘的な預言、未来について述べたもの、禍福吉凶の予言について記された書のことを言います。緯書は一つの書名ではなく、一連の儒教の経典に対して、いくつもの緯書が書かれています。緯書の成立は前漢末頃とされ、その当時重んじられた『易(経)』『書(経)』『詩(経)』『礼(経)』『楽(経)』『春秋(経)』『孝経』にそれぞれ緯書があり、まとめて「七緯」と言います。また、『論語』も緯書とは呼ばれませんが論語讖がつくられます。「七緯」については、例えば、『易(経)』に対する緯書はまとめて「易緯」と呼ばれますが、代表的なものとして『乾坤鑿度』『周易乾度』『易緯稽覧図』『易緯弁終備』『易緯通卦験』『易緯乾元序制記』『易緯是類謀』『易緯坤霊図』などがあります。これは代表的なものだけですが、それ以外にも多くの「易緯」があったとされますが、上記の書籍例を含めて完全な形で残っているものは少なく、多くは逸文の形で他の書物に内容の一部が残っているにすぎません。他の「七緯」についても同様です。 改元に関する讖緯思想について参考になるのは、昌泰四(901)年(辛酉の年にあたります)に文章博士三善清行が提出した、改元についての諮問に対する意見書(勘文)である『革命勘文』になります。『群書類従』の二十六輯(集に同じ)の巻第四百六十一に記載されています。下記にそれを公開しているページがありますので、そのURLを張っておきますので、確認してください。なお、文中の「鄭玄」は、上記「易緯」の例に挙げた書名の多くの作者とされます。 http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/kakumeikannbunn/gen.htm 以上、短いですが参考まで。 なお、東学党の乱・甲午農民戦争について締切にされたようですが、こちらについても来週中にこの質問に追記の形で回答したいと思います。満足のいくような回答にはならないとは思いますが、もしよろしければ一週間ほど締め切りをお待ちいただければ幸いです。
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- fumkum
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東学が成立する背景には3つの事柄があるように思います。 第一に、東学をはじめ李氏朝鮮時代の思想の底辺を流れるものは、中国の明清の王朝交替を契機とする「華夷変態」で、それまでの中華であった明が、蛮族(夷)である満州族により取って代わられた、つまり中華は夷に取って代わられ、中国の中華は滅び、本当の中華は朝鮮に残ったとする考え方です。日本にも同じような考え方が同時期の明清交替時に興りますが、朝鮮においてはより強く、支配階級、両班階級、書院勢力に幅広く共有されます。現実には清の扶養国であっても、心情としては我々は中華であると、清を見下している面があります。ですから、崔済愚による東学思想の中には、儒教を否定する言説もありますが、それは儒教を完全否定するのではなく、東学は儒教以上の思想であると言っている面があります。 第二に、政権、両班階級、書院勢力による封建的搾取があります。三政といわれる田政(税務)・軍政(兵務)・糧政(還穀)の弊害だけでなく、両班階級や地方の土豪は広大な土地を占拠し、免税特権を取得するために、一般農民に耕作する土地が行き渡らず、さらに先賢に奉仕し、学問奨励のために設けられた書院が、運営のために下賜された土地と奴婢を得て、免税特権をも取得し、農民にさらなるしわ寄せがいきます。支配層は政争に明け暮れ、このような地方の現状、農民の困窮に目を向けることなく、地方は官吏の腐敗がすさまじく、農民を搾取します。甲午農民反乱の契機も、地方官吏の搾取にあります。 第三が、外国勢力の進出があります。まず、キリスト教が中国経由で18世紀に朝鮮に教線を広げ、多くの信者を得ます。さらに1875年の江華島事件、翌年の江華島条約(日朝修好条規)に端を発し、列強と不平等条約を結び、開国します。その結果、イギリス製の綿製品が主に日本商人の手により持ち込まれ、朝鮮の零細な織物業に打撃を与えます。さらに、金・金地金や米・大豆などの米穀が海外に流れ、米穀の価格騰貴が起ります。それにつられて各地域で開港場に向けて米穀が流出し、米穀不足が起り、首都ソウルへの米穀の供給不足と、米穀価格の騰貴を招きます。それらがソウルに住む兵士などの都市下層民と、農村の農民を直撃し、困窮に拍車をかけます。この中で、日本商人の進出が急であり、摩擦も多く、西洋人と並べて排斥の対象となっていきます。*日本が米の完全自給を達成したのは昭和30年代後半で、それまでは朝鮮などからの輸入をしていいました。 東学の初代教祖である崔済愚は1864年に処刑されていますので、開国以降の情勢には影響されてはいませんが、没落両班である崔済愚にとって、虐げられ、困窮する下層農民は身近な存在であり、東学は下からの改革と、平等思想にその特色があると言えます。宗教でもあり、社会運動とも言えると思います。なお、「済愚」という名は、愚民を済(すく)うの意味があるとされています。また、御存じのように東学は、西学(キリスト教)に対する名称です。 さて、東学について概要は、1860年に崔済愚により慶尚道で提唱され、民間に伝わる古代以来の伝統信仰である天を敬う内容が基礎に、呪術な面や、儒教、仏教、道教(仙術)の考えがまじりあっています。東学の中心をなす思想は「人乃天(人はすなわち天である)」という考え方で、万民平等思想に通じ、伝統的な封建身分社会では、社会秩序を覆す革命思想の面を持っていました。また、「後天開闢」を唱え、地上の天国を実現することを教義とし、現世に万民平等を実現し、官や両班階級による暴政や日本を筆頭とする外国勢力の侵略から暮らしを守り、世直しを行なうとします。「至気今至 願為大降」八字呪文や、「侍天主造化定 永世不忘万事知」十三字呪文を唱え、護符をうければ、平等で豊かな社会が到来し、万病は平癒する。現世利益を説いています。その後、開国にともなって都市下層民や農民の生活がより困窮するようになると、「輔国安民」「農者天下之大本」「斥和斥洋」「斥和洋倡」のスローガンが掲げられることになります。 東学の今一つの特色はその組織にあり、各地に「包」という小組織をつくり、そのいくつかの包を束ねる「接」を設け、接主を置き、各地に都所(本部)を設置します。接のトップである接主を教祖が指導するピラミッド型の組織をつくり、勢力を広げていきます。 東学は甲午農民戦争後も存続し、その後日韓併合を推進した一進会と連携するなどの動きを見せるなど、その行動にはブレが見られるようになります。 さて、初代教祖である崔済愚は1864年に処刑されていますが、この年は甲子の年にあたります。甲子はご存じのように甲子革命の年とされます。東学が始まったのが1860年の庚申、翌年の1861年が辛酉(これも革命年とされます)、1862年が壬戌で壬戌民乱と呼ばれる大規模な農民反乱と続きます。崔済愚は讖緯説に基づく甲子革命について当然知っていて、壬戌民乱には参加せず、数年後に兵乱が起るようとする文章を残しています。実際には1864年の甲子の年には兵乱は起らず、傍系の高宗が即位し、実父の(興宣)大院君が政権をとり、三政改革に乗り出すと共に、惑世誣民(世の中を惑わし、民衆を欺く)として、崔済愚を処刑します。 以上のように、東学、甲午農民戦争についてみると、欧米列強が東アジアに進出し、日本・朝鮮・中国に進出しようとしますが、それぞれの国で、当然のこととして摩擦を生み、政権は行き詰まり、経済は開国により大混乱をきたし、そのしわ寄せは庶民に向かいます。どの国でも初期には排外主義が勃興すると共に、世直し的な改革運動が起ってきます。日本の幕末にも尊皇攘夷や、世直し一揆、討幕が起りますし、朝鮮においても東学に見られるように排外主義、世直しを志向する宗教・運動が起ります。中国でも扶清滅洋のスローガンや義和団の行動も同じような底流にあるのではないでしょうか。 長くなり、満足のいく回答でもありませんが、参考まで。
お礼
前述の書籍は韓国のかたが、なぜ日本に併合されるに至ったのか、その韓国側の要因について分析している物のようです。まだ第2章までしか読んでいないのですが、両班の世襲体質や宗主国という中華主義の考え方なども書いてありました。 今回、この回答をここまで読んでまず、目から鱗だったのは「本当の中華は朝鮮に残った」でした。確かに中国史の本を読んでいたときに引っ掛かっていた部分でした。中国はあれだけ侵略されていたのに、なぜ未だに漢民族が大多数なのか。ピーマンの肉詰め状態ですね。こうした面についてはおそらく今読んでいる書籍にも書かれていないと思いますし、私は知りませんでした。これは日本が黒船来航以来、置かれてきた状況とも少し似ていると感じます。 正直、まだこの文面を全て理解しきれていないのですが、これにまた追加質問をすると掲示板のような状態になってしまいますので、しばらくじっくりと読み返してみたいと思います。 ありがとうございました。 \(^-^)/
- fumkum
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回答が遅れて申し訳ありません。 東学党の乱・甲午農民戦争については、以前は東学党の乱と呼称され、東学党を主体とする反乱とされていましたが、現在では東学教徒が多数参加したものの、東学教徒とはいえ主体は農民であり、水税をきっかけに地方官吏の農民に対する暴政に農民が立ち上がった農民反乱であるとの考え方が強くなり、甲午農民戦争と呼称されるのが一般的です。また、日清戦争に至る契機として、甲午農民戦争が日本に有利に働いたことから、日本陰謀説が当時からありましたが、当時の朝鮮の情勢を見ると、政争に明け暮れ、庶民の困窮に無関心であり重税を課す支配層、収奪に血道を上げる地方官吏・両班・土豪層、開国に伴い進出した外国勢力特に日本の勢力、それらにより困窮の度を深め、生死の間際に追い詰められた農民や下層民の反乱であって、どう考えても根本的な原因は当時の朝鮮王朝の失政であり、救いがたいような官吏の腐敗であり、支配層に為政者としての自覚が皆無であり、自己・一族本位の考え方にあったとしか思えない状況でした。最高支配層の一員である大院君が農民戦争の後ろで糸を引いていた等の説もあり、少なくとも大院君と農民反乱の指導者である全琫準との間に交流があり、全琫準が大院君の食客であった時期があることは事実であったようです。 さて、反乱のきっかけは、1892年に全羅道古阜郡守に赴任した趙秉甲が収奪を極め、暴政を行ったことでした。その上、趙が赴任以前に完成した東津江の水利施設の万石洑の利用税である水税を過大に課したことで農民の堪忍袋の緒が切れ、何度もの陳情の末に、それを拒否され、1894年1月に全琫準をリーダーに反乱を起こします。その時の綱領には、 1、人を殺さず、物を害せず 2、忠孝を尽くし、世を救い、安民をはかる 3、日本などの蛮夷を追放し 4、軍をソウルに追い出し、権勢家を追い出す の四条が示され、さらに檄文には、 1、民を塗炭の苦しみから救い、国家を盤石の上に置き、 2、内に貪虐な官吏を切り、 3、外には横暴な強敵(日本・欧米列強)を追い出し、 4、両班と富豪により苦痛を受け、観察氏使と守令の下で屈辱される兵士は立ち上がれ という内容です。 つまり、「輔国安民」「農者天下之大本」「斥和(倭)斥洋」「斥和洋倡」のスローガンにその考えの一端が示されています。反乱のリーダーである全琫準をはじめ農民反乱者の多くが東学教徒であったことから、東学の組織・教徒を通じても反乱が広がり、農民反乱軍は次々と政府軍を打ち破り、5月には全羅道の道都全州を陥落占領します。これに驚いた朝鮮政権=閔氏政権側は清国に派兵を要請します。それを受けて清は派兵すると共に、天津条約の規定により、派兵を日本に通告します。この通告を受けた日本も派兵します。両国の派兵の報に農民反乱軍も朝鮮王朝軍も和戦に応じ、全州和約が成立し、農民反乱軍は全州を明け渡します。その後全羅道の治安・行政について、官と東学教徒の協調が行われ、官の機関に対応して全羅道の53州の官衙に民間機関の執綱所が設置されます。執綱所には、執綱をトップに書記、省察、童蒙などの役職があり、主に東学教徒が就任し、官吏と並んで治安・行政に当ったとされます。 また、政治改革も推進したとされ、貧官汚吏の粛清、両班土豪の影響の排除、土地再配分の要求、農民軍の参政権の要求、奴婢解放、日本勢力の排撃などを行ったともされますが、このような体制は短期間に崩壊しますので、改革の進度については不明です。 さて、日本についてですが、1875年の江華島事件を契機として、翌年に江華島条約(日朝修好条規)を結び、朝鮮を開国させると共に朝鮮への影響力を強める政策を次々に実施します。1880年前後になるとロシアへの脅威が叫ばれ、朝鮮側の閔妃を中心とする閔氏政権も開化政策を取るようになり、その手本として日本を想定し、行政機構、軍の改革に着手します。軍については旧来の郡とは別に別技軍と呼ばれる西洋式の軍隊を新設し、軍事教官として日本公使館付武官を招聘します。また、日本、アメリカに視察団を派遣したりします。このような政策を遂行する中で、官吏の中に開化派が出現するようになります。これに対して朝鮮国内では保守派の書院(儒者)勢力と(興宣)大院君が結び、開化政策に反対します。1882年には給与の未払いに憤激した在来の軍隊の下級兵士が反乱を起こし、都市の下層民もこれに加担して、閔氏政権の高官を殺害する壬午軍乱が発生します。この時に日本公使館も攻撃を受け、公使以下の官員は朝鮮から脱出します。閔妃は王宮を逃れ出て、地方に潜行し、政権は一時的に大院君(軍乱の首謀者との説も強い)が担います。潜行した閔妃は手紙で国王高宗と連絡し、清の派兵を要請させます。この結果、清は日本に先んじて急遽軍を派遣し、軍乱の平定にあたります。この時大院君は軍乱の首謀者として清の天津に移され、幽閉されます。また、政権も元に戻され、閔氏政権が復活します。出遅れた日本は、清に日清開戦の意図がないことを確認すると外交交渉に移り、済物浦条約と日朝修好条規続約を結び、軍乱首謀者の処刑以下損害の補償を決め、公使館保護のための日本軍の駐留、開港場の追加、遊歩範囲の拡大、外交官の内地旅行券の獲得等権益を拡大します。この結果、清国は朝鮮の宗主国としての存在感を高め、日本も権益を拡大することになります。 その後、清により危機を脱した閔妃は清を頼るようになり、開化派の中の急進的なグループは清の宗主権から脱して独立を勝ち取り、開化政策を推し進めようと考えます。逆に穏健なグループは清の宗主権のもとで漸進的に開化政策を進めようとします。 1883年になると大院君の帰国のうわさが広まり、危機感を抱いた高宗は日本に接近するようになります。また、宗主国の清はベトナムの帰属をめぐりフランスとの戦争状態に入ります。このような中、急進開化派と日本が結び、翌年の1884年にクーデターを起し、王宮を占拠すると共に国王を擁して政権を樹立します。しかし、閔氏政権と清の対応は素早く、清軍の出兵を要請し、日本軍は戦わずに退去します。そのため急進開化派の多くは殺害され、残った金玉均以下の少数の開化派は、日本公使などと共に日本に逃れます。これが甲申政変で、これにより親日的な勢力は壊滅することになります。この政変の事後処理として日朝間に漢城条約が結ばれ、日本の圧力に屈した朝鮮は日本に謝罪し、賠償することと、公使館警備のための日本軍の派遣を取り決めます。さらに、日清間に天津条約が結ばれ、両国が朝鮮への再派兵権を認め合い、軍隊を同時に撤退させることとしました。また、一方が朝鮮に派兵する時は、他方に通告することも取り決めました。 この政変失敗の影響は大きく、日本は朝鮮におけるプレゼンスを落し、清は袁世凱を送り込み、朝鮮の内政外交に存在感を示します。逆に日本国内では外交交渉派の力を弱め、主戦派の影響が大きくなります。 このような情勢で推移している中、1894年に前述のように農民反乱が起るのですが、清軍の派兵の通告を受けた日本は、居留民・公使館の保護・警固を名目として出兵します。しかし、出兵前後に朝鮮国内で農民軍と官との和約がなり、出兵の名目が薄れた日本は朝鮮の農民反乱の原因とも言える内政改革の実行を要求し、その実施のために駐留するとし、居座ります。そして、7月23日に大院君(すでに清国から帰国していた)を押し立てて、クーデターを実施し、王宮を占拠し、王を保護下にし、政権を掌握します。その2日後に清軍と開戦し、勝利すると、朝鮮政府に迫り甲午更張と呼ばれる内政改革を実施させ、中央官制と社会制度に大幅な改革を実施させます。これは当時の朝鮮にとって必要な改革であり、それまでの朝鮮王朝が改革できずに放置していたものですが、それを日本の強い影響のもとで実施し、日本に都合のよい改革との一面も当然ありました。 さらに、清との戦争の最中、農民軍が9月に再蜂起すると、日本軍とその指揮下にあった政府軍はこの年の末までに農民軍をほぼ鎮圧し、全琫準以下の指導者も多くは捕縛、戦死し、捕縛されたものも翌年の4月中までには処刑され、甲午農民戦争は終結します。
お礼
ひとまず、貴重な時間を割いてここまでしていただき恐縮です。 ご回答ありがとうございました。 先日たまたま文春新書から出版されている「韓国併合への道」呉善花著を古本屋で見つけたので読み進めていたところで、ちょうど日朝修交条約の前後の様々なゴタゴタについて読み進めていたところで、ナイスタイミングでした。 (*´ー`*)
お礼
ここまで詳しく解説して頂けるとは思ってもみませんでした。 甲午のほうもご回答いただけますか。お待ちしております。ありがとうございます。 \(^o^)/
補足
朝鮮半島で起きた日清戦争の発端となった東学党の乱、甲午農民戦争に関連して、東学党とはどういう新興宗教だったのか?という質問をした経緯がありました。 中国語では日清戦争を、中日甲午戦争と呼ぶそうです。 日本側の解釈としては、この戦争の時に朝鮮が中国に助けを求めた事(宗主国の問題)に危機感を感じて、出兵したという形だったでしょうか。 甲午というと、青い馬。 2014年も甲午の年でした。 これは、フリーメイソンですとか、イルミナティという組織を意味するシンボルでもあり、またトロイの木馬「自由・開放のしるし」でもあるそうです。イタリアで精神科病院を廃止する180号法案を実現した、フランコ・バザーリアの勤務していたサンジョバンニ病院にも、患者たちが可愛がっていた青い馬がいたというエピソードがあります。 東学(とうがく)は、朝鮮半島において1860年に慶州出身の崔済愚が起こした思想。東学を信奉する者を東学教徒、その集団を東学党と呼ぶ。 また、第3代教祖、孫秉煕からは天道教と呼ばれる。東学の本質は従来の思想である朱子学とも、西洋の新しい思想である西学(天主教)とも異なる朝鮮独自の思想体系を成すことを旨とした。 北京の紫禁城も、形態としてはユダヤ教徒の宿舎(シナゴーグ)と似通っているといいます。 日本にも、似たような形態の神社がたくさんあります。 また九星気学では、甲午が陰陽の切り替えの判断で重要な役割を果たしています。 冬至またはその前後の日が甲午である場合には、その甲午を七赤として陽遁を始め、夏至またはその前後の日が甲午である場合には、その甲午を三碧として陰遁を始めることになっています。 こうした面も踏まえて、では東学党という宗教団体の存在がなんであるのか、知りたいと思いました。 http://sp.okwave.jp/qa/q9022288.html