東学が成立する背景には3つの事柄があるように思います。
第一に、東学をはじめ李氏朝鮮時代の思想の底辺を流れるものは、中国の明清の王朝交替を契機とする「華夷変態」で、それまでの中華であった明が、蛮族(夷)である満州族により取って代わられた、つまり中華は夷に取って代わられ、中国の中華は滅び、本当の中華は朝鮮に残ったとする考え方です。日本にも同じような考え方が同時期の明清交替時に興りますが、朝鮮においてはより強く、支配階級、両班階級、書院勢力に幅広く共有されます。現実には清の扶養国であっても、心情としては我々は中華であると、清を見下している面があります。ですから、崔済愚による東学思想の中には、儒教を否定する言説もありますが、それは儒教を完全否定するのではなく、東学は儒教以上の思想であると言っている面があります。
第二に、政権、両班階級、書院勢力による封建的搾取があります。三政といわれる田政(税務)・軍政(兵務)・糧政(還穀)の弊害だけでなく、両班階級や地方の土豪は広大な土地を占拠し、免税特権を取得するために、一般農民に耕作する土地が行き渡らず、さらに先賢に奉仕し、学問奨励のために設けられた書院が、運営のために下賜された土地と奴婢を得て、免税特権をも取得し、農民にさらなるしわ寄せがいきます。支配層は政争に明け暮れ、このような地方の現状、農民の困窮に目を向けることなく、地方は官吏の腐敗がすさまじく、農民を搾取します。甲午農民反乱の契機も、地方官吏の搾取にあります。
第三が、外国勢力の進出があります。まず、キリスト教が中国経由で18世紀に朝鮮に教線を広げ、多くの信者を得ます。さらに1875年の江華島事件、翌年の江華島条約(日朝修好条規)に端を発し、列強と不平等条約を結び、開国します。その結果、イギリス製の綿製品が主に日本商人の手により持ち込まれ、朝鮮の零細な織物業に打撃を与えます。さらに、金・金地金や米・大豆などの米穀が海外に流れ、米穀の価格騰貴が起ります。それにつられて各地域で開港場に向けて米穀が流出し、米穀不足が起り、首都ソウルへの米穀の供給不足と、米穀価格の騰貴を招きます。それらがソウルに住む兵士などの都市下層民と、農村の農民を直撃し、困窮に拍車をかけます。この中で、日本商人の進出が急であり、摩擦も多く、西洋人と並べて排斥の対象となっていきます。*日本が米の完全自給を達成したのは昭和30年代後半で、それまでは朝鮮などからの輸入をしていいました。
東学の初代教祖である崔済愚は1864年に処刑されていますので、開国以降の情勢には影響されてはいませんが、没落両班である崔済愚にとって、虐げられ、困窮する下層農民は身近な存在であり、東学は下からの改革と、平等思想にその特色があると言えます。宗教でもあり、社会運動とも言えると思います。なお、「済愚」という名は、愚民を済(すく)うの意味があるとされています。また、御存じのように東学は、西学(キリスト教)に対する名称です。
さて、東学について概要は、1860年に崔済愚により慶尚道で提唱され、民間に伝わる古代以来の伝統信仰である天を敬う内容が基礎に、呪術な面や、儒教、仏教、道教(仙術)の考えがまじりあっています。東学の中心をなす思想は「人乃天(人はすなわち天である)」という考え方で、万民平等思想に通じ、伝統的な封建身分社会では、社会秩序を覆す革命思想の面を持っていました。また、「後天開闢」を唱え、地上の天国を実現することを教義とし、現世に万民平等を実現し、官や両班階級による暴政や日本を筆頭とする外国勢力の侵略から暮らしを守り、世直しを行なうとします。「至気今至 願為大降」八字呪文や、「侍天主造化定 永世不忘万事知」十三字呪文を唱え、護符をうければ、平等で豊かな社会が到来し、万病は平癒する。現世利益を説いています。その後、開国にともなって都市下層民や農民の生活がより困窮するようになると、「輔国安民」「農者天下之大本」「斥和斥洋」「斥和洋倡」のスローガンが掲げられることになります。
東学の今一つの特色はその組織にあり、各地に「包」という小組織をつくり、そのいくつかの包を束ねる「接」を設け、接主を置き、各地に都所(本部)を設置します。接のトップである接主を教祖が指導するピラミッド型の組織をつくり、勢力を広げていきます。
東学は甲午農民戦争後も存続し、その後日韓併合を推進した一進会と連携するなどの動きを見せるなど、その行動にはブレが見られるようになります。
さて、初代教祖である崔済愚は1864年に処刑されていますが、この年は甲子の年にあたります。甲子はご存じのように甲子革命の年とされます。東学が始まったのが1860年の庚申、翌年の1861年が辛酉(これも革命年とされます)、1862年が壬戌で壬戌民乱と呼ばれる大規模な農民反乱と続きます。崔済愚は讖緯説に基づく甲子革命について当然知っていて、壬戌民乱には参加せず、数年後に兵乱が起るようとする文章を残しています。実際には1864年の甲子の年には兵乱は起らず、傍系の高宗が即位し、実父の(興宣)大院君が政権をとり、三政改革に乗り出すと共に、惑世誣民(世の中を惑わし、民衆を欺く)として、崔済愚を処刑します。
以上のように、東学、甲午農民戦争についてみると、欧米列強が東アジアに進出し、日本・朝鮮・中国に進出しようとしますが、それぞれの国で、当然のこととして摩擦を生み、政権は行き詰まり、経済は開国により大混乱をきたし、そのしわ寄せは庶民に向かいます。どの国でも初期には排外主義が勃興すると共に、世直し的な改革運動が起ってきます。日本の幕末にも尊皇攘夷や、世直し一揆、討幕が起りますし、朝鮮においても東学に見られるように排外主義、世直しを志向する宗教・運動が起ります。中国でも扶清滅洋のスローガンや義和団の行動も同じような底流にあるのではないでしょうか。
長くなり、満足のいく回答でもありませんが、参考まで。
お礼
ここまで詳しく解説して頂けるとは思ってもみませんでした。 甲午のほうもご回答いただけますか。お待ちしております。ありがとうございます。 \(^o^)/
補足
朝鮮半島で起きた日清戦争の発端となった東学党の乱、甲午農民戦争に関連して、東学党とはどういう新興宗教だったのか?という質問をした経緯がありました。 中国語では日清戦争を、中日甲午戦争と呼ぶそうです。 日本側の解釈としては、この戦争の時に朝鮮が中国に助けを求めた事(宗主国の問題)に危機感を感じて、出兵したという形だったでしょうか。 甲午というと、青い馬。 2014年も甲午の年でした。 これは、フリーメイソンですとか、イルミナティという組織を意味するシンボルでもあり、またトロイの木馬「自由・開放のしるし」でもあるそうです。イタリアで精神科病院を廃止する180号法案を実現した、フランコ・バザーリアの勤務していたサンジョバンニ病院にも、患者たちが可愛がっていた青い馬がいたというエピソードがあります。 東学(とうがく)は、朝鮮半島において1860年に慶州出身の崔済愚が起こした思想。東学を信奉する者を東学教徒、その集団を東学党と呼ぶ。 また、第3代教祖、孫秉煕からは天道教と呼ばれる。東学の本質は従来の思想である朱子学とも、西洋の新しい思想である西学(天主教)とも異なる朝鮮独自の思想体系を成すことを旨とした。 北京の紫禁城も、形態としてはユダヤ教徒の宿舎(シナゴーグ)と似通っているといいます。 日本にも、似たような形態の神社がたくさんあります。 また九星気学では、甲午が陰陽の切り替えの判断で重要な役割を果たしています。 冬至またはその前後の日が甲午である場合には、その甲午を七赤として陽遁を始め、夏至またはその前後の日が甲午である場合には、その甲午を三碧として陰遁を始めることになっています。 こうした面も踏まえて、では東学党という宗教団体の存在がなんであるのか、知りたいと思いました。 http://sp.okwave.jp/qa/q9022288.html