結論から言えば、昔-昭和初期までは、巣鴨の方が有名だったと思います。その理由は交通手段の変化が大きかったようです。
ところで、現在の豊島区は、おおよそ江戸時代初期の駒込・巣鴨・雑司ヶ谷・下高田・池袋・長崎村の領域に成立しています。その後に例えば染井村が駒込村から分立するなどの動きがありますが、もともとの六つの村は戦国時代にはその存在が確認されています。その中で巣鴨も池袋も平凡な農村であったと考えられています。
ところが、江戸時代に江戸の地に幕府が開かれ、五街道などが整備され、*中山(中仙)道が巣鴨の地を通るようになると、徐々に変化します。それに加えて、駒込・巣鴨・雑司ヶ谷・下高田は大名屋敷(下屋敷・抱え屋敷)が建てられ、それに伴い、駒込・巣鴨の集落は小石川流域にあったものが、江戸時代の最初期に大名屋敷の造成のために移転したとの説があります。ともかく、駒込・巣鴨・雑司ヶ谷・下高田は、大名屋敷や旗本屋敷が建てられ、特に駒込・巣鴨は中山道沿いに大名・旗本屋敷が建てられ、その上に巣鴨には後に幕府の御薬園がつくられます。そのため、江戸時代も中期になると、元文2(1733)年に、巣鴨村の中山道沿い、駒込村の藤堂家下屋敷北側、妙義坂近辺に町屋が許可になり。巣鴨・駒込(後の文京区内の本郷駒込地区を含む)の中山道沿いの12丁(約1,1km)の中で、8丁が大名・旗本屋敷が道の両側もしくは片側、残り4丁の内両側に町屋が2丁、片側が町屋、片側が武家屋敷が2丁という状況になり、町屋部分の4丁を、巣鴨町上組、上仲組、下組、下仲組と称するようになります(独立の町として分立するだけの規模を持っていない)。延享2(1745)年には町奉行支配地になり、町並地となります。
このように巣鴨地区が発展したのは、中山道沿いであることが大きいのですが、すぐ先に王子権現、王子稲荷があり、享保年間には飛鳥山が整備されるなど、江戸近郊の行楽地が後背地として存在したこと、染井・駒込・巣鴨の地が江戸の園芸産地であり、染井を中心にツツジ・キリシマ・ボタン・キク・カエデなどの園芸物が季節に客を呼ぶなどの要素があったことにもよります。この地区は植木生産だけでなく、大名・旗本屋敷などに出入りして庭の手入れをする植木職人としても活躍します。
これに対して池袋にはそのような大名屋敷などはなく、純然たる農村であったようで、長崎村と合わせて町奉行所の支配外でした。巣鴨も中山道沿いや、大名・旗本屋敷、御薬園を除くと農地が広がっています。染井・駒込を中心に植木地が広がり、巣鴨でも菊に代表されるように園芸品も栽培されますが、巣鴨、池袋共に、台地上の農地が多く、水田は少なく畑地が多い地域でした。そのため夏は江戸に出す蔬菜、冬は麦作が一般的だったようです。調べた限りでは、巣鴨は小蕪が有名だったようで、それ以外には茄子苗や大根の種子などの栽培が盛んで、中山道沿いに種子を売る店が並ぶことになるほどでした。これに対して池袋村は、キノコの一種であるササコ(ナラタケ)の産地だったそうです。なお、駒込は茄子の産地です。
ともかくも、明治に入っても、江戸時代の趨勢は変わらず、巣鴨地区の方が繁栄をしていました。途中経過を省くと、明治22年に北豊島郡が成立した時点で、巣鴨地区の内の町場の旧巣鴨町上組、上仲組、下組、下仲組と、駒込村・染井村などが巣鴨町を形成、その他の巣鴨地区と池袋村、新田堀之内村などが巣鴨村(後に西巣鴨町)を形成し、池袋は巣鴨村内の大字地名となり、巣鴨に形の上では包含される地名となったわけです。この時点で巣鴨は村と町に分かれますが、現在の池袋から大塚、巣鴨、駒込駅の周辺にまたがる東京内でもかなり広い地域名だったことになります。サンシャインビルの前身地の巣鴨拘置所が池袋地区(現在の東池袋)にありながら、巣鴨の名称が使用したのはこの時の町名に由来するとされます。昭和7年の大東京市の成立時には、巣鴨町、西巣鴨町も豊島区になり、現在に至っています。池袋は巣鴨村内の大字地名となったのも、池袋よりも巣鴨の方が通りが良い、有名だったことがあるのだと思います。
このような巣鴨優位の状況が変わったのが鉄道路線の開通でした。明治18年に品川から渋谷・新宿・池袋を通って赤羽の間に現在の山手線のもとになる路線が開通します。この時点では池袋駅は造られませんが、明治36年に池袋駅から田端駅に路線が開通し、池袋・大塚・巣鴨駅が造られます。当初は目白駅(明治18年開業)から線が伸びる計画であったようですし、明治18年に池袋駅が造られなかったことと併せて考えても、当時の池袋の知名度、重要度が分かるように思います。その後、大正3年に現在の東武東上線が、大正4年に現在の西武池袋線が池袋駅を起点に開業します。この両線共に当初は巣鴨や大塚駅に接続を望んであますが、東京府、逓信省及びその鉄道部門の後継機関の鉄道院の指導で池袋を起点としています。池袋駅が現在の赤羽線と山手線の分岐駅だったことが大きかったのでしょうが、これが池袋の発展のもとになります。ただ、大正期、第二次世界大戦前までは、大塚が歓楽街として発展していたこともあり、巣鴨の方が有名であったようにも思います。
戦後、池袋は空襲で焼け野原になって、その後に巨大な闇市が形成されたりしましたが、デパートも再建されたり、新規創業されたりしたように商業・飲食・宿泊施設なども増え、東京が発展し、後背地が遠くなるにしたがって、ターミナル駅としての重要度が高まると共に、池袋駅を利用する人口も爆発的に増え、池袋の認知度も全国レベルになり、巣鴨を凌駕するようになります。
巣鴨から池袋への繁栄の移動、知名度の変化は、人間の主要な移動手段が、徒歩(中山道)から鉄道に変化することが、地域の繁栄、知名度の栄枯盛衰に大きく関わっているということだと思います。しかし、それだけでなく、都市の位置付け、存在感、都市政策なども関わり、複合的であり、偶然の要素も強いように思います。例えば、明治36年に目白駅から田端までの路線が開通していたならば、今の池袋の繁栄はなかったように思います。私自身池袋にジュンク堂があるのでよく行きますが、赤羽線の池袋の次の駅が板橋駅というのは、今調べてわかったくらいです。
*中山(中仙)道=起点の日本橋から碓井峠を通り、信州を縦断し、馬籠宿を通り、美濃の中津川に出て、関ヶ原を過ぎて近江に入り、その後草津で東海道と合流(中山道としては終点)して、京都三条大橋に至る道です。日本橋から板橋宿に至る道は、おおよそ現在の国道17号線であり、JR巣鴨駅脇を通る通称白山通りです。
http://kaidouarukitabi.com/5kaidou/nakasen/nakasen00.html
長くなりましたが、参考まで。
お礼
ご回答ありがとうございました。