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音楽は郷愁の表現か?
- 音楽は郷愁を表現する独特の響きであると言える。
- 郷愁は個々の帰郷や故郷への思いを含み、音楽はそれを奏でている。
- 現代音楽にはこの郷愁が少ないと感じられる。
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>音楽とは 郷愁である。(今道友信) そんな言葉を言ったひとが居たのですね。非常にいいところをついて居るように思います。 いいメロディを聞くと感じる懐かしさ、これは何なんだろうといつも思います。既視感が美を連想させると足穂が書きましたが、それと共通の(ような)何か。 何度か聴いて記憶に残る音楽が強い感動を与える(また聴きたい)のと同じ種類の構造的な脳の働きなのでしょうか。 ふるさとというはかなげで懐かしいいろんなものを連想させる言葉、短いフレーズの詩文が心に残るのとも近いことかもしれません。 心のふるさとはいくつもあります。地理的なものだけでなく、文学の中にも音楽にも友人関係にもあります。美の壷? 懐かしいという感情がどこかで美の感覚につながるそのあたりを以前からいろいろ考えていたのですが、 ブラジェロンヌさんの言いたかったことから離れてしまったでしょうか。ね
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こんにちは。ゲシュぷらタポです。 >Maenades というのは 日本語でどう呼ぶのですか? 「女となり、マイナデスとなり、バッカイとなる衣装に身をやつして」 (エウリピデス『バッカイ』915 逸身喜一郎訳 岩波文庫91ページ) 「こういうと高鳴る胸を抱えて狂女のごとく屋敷の中を駆け抜け」 (ホメロス『イリアス』第22歌460 松平千秋訳 岩波文庫(下)328ページ) 「迎えよ、ニューサの大神、この神は狂乱女たちとともどもに」 (アリストパネース『女の平和』1284 高津春繁訳 岩波文庫102ページ) 「近くにある墓は「バッコス信女コレイアの墓」と呼ばれている。」 (パウサニアス『ギリシア案内記』第2巻第20章4 馬場恵二訳 岩波文庫(下)97ページ) 「レウキッペとアルシッペとアルキトエだけはディオニュソスを祀る乱舞を拒んだが、その理由は、夫を恋い慕っていたからで、そのためにディオニュソスに仕える狂信女にはならなかったのである。」 (アイリアノス『ギリシア奇談集』第3巻42 松平千秋・中務哲郎訳 岩波文庫140ページ) >思い知ったか? はい。音楽は郵便局だ。 「郵便局といふものは、港や停車場と同じように、人生の遠い旅情を思はすところの、魂の永遠ののすたるぢやだ。」 (『萩原朔太郎詩集』「散文詩」新潮文庫192ページ)
お礼
★ アイリアノス『ギリシア奇談集』 ☆ なんぢゃ これ? -ノスというからには ギリシャ人ですか。ぢゃあ ふつうにふるいわけだ。いやにこまかくくわしい話。・・・ということは――おっと ご回答をありがとうございます。こんにちばんは。――くわしい言い伝えがあるということは バッコスの信女の話は 事実性が皆無ではない。ふむふむ。しかし こわいよ。母親が オウムに入っちゃったと 突然知ったら こわいよ。八百万方角美人の誰かさんが 一方通行の( あっ これが sens unique ですか)ほぼ鎖国〔不〕美人に変身したとしたら。 はぎわらもおぎわらも さくたろうもももたろうも 無知ィーーーーーですもんね わたしゃぁ。 このあいだ 日経の文化欄に 西脇順三郎の研究者が 西脇のひととなりを紹介していた。いっとき読んでいたことは読んでいたんですよね。理知的な感じでした。つまり 何でしたか Ambarvalia でしたか(綴りが違っているかも) って分かります? 一読で。 もう韃靼海峡から 元来た道を帰ります。 と言っても またまた《高貴とは何ぞや?》の質問を挙げていますが。 高津春繁にはお世話になりました。じっさいにはそのお弟子さんの風間喜代三先生。生徒は 二人だけの教室で。
回答番号10のplapotaです。質問文にオデュッセウスの名が出てゐたので、アリストテレスの文章が頭に浮かんだだけです。先回の補足に回答できませんでしたので、気になつてゐました。 偉人、聖人の名前だけでありがたがつたり、数式や科学用語を見ただけで高度だとみなしたり、そんな風潮と無縁なのが、ぶらげろさんの良いところではありませんか。メッシナ海峡は、蝶蝶が一匹で渡つて行つたところですか。ディテュランボスといふ複アカはどんな意味ですか。
お礼
ぷらたぽ式ゲシュタポだと言いたいところだったという意味です。すんでのところで言ってもいました。 もう引っ込めてもよいのですか? ★ 偉人、聖人の名前だけでありがたがつたり〔する〕そんな風潮 ☆ に乗じて――そのような社会力学の勢いを笠に着て―― 異端分子だと感じたらただちにそれに対して ショッカーの破壊攻撃に出るのは〔身についた物象化なる条件反射であるというのも然ることながら〕 明らかにゲシュタポの論理です。バッコスの信女たちです。 Maenades というのは 日本語でどう呼ぶのですか? 韃靼海峡の詩は そう言えば そこだけおぼえているだけで 中身を知らないしだれが書いたのかも知らないという体たらくですので あまり刺激しないで! 思い知ったか? どうもご回答をありがとうございました。
- nyan_nyanko
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こんばんは 「音楽とは 郷愁である」・・・いい言葉ですね。 No.の回答者さまも言っておられましたが、 「いいメロディを聞くと感じる懐かしさ、これは何なんだろうといつも思います。」 実を申しますと、小生も考えたことがございました。どこからこの感覚がやってくるのか? です。 答えはまだわかってはいません。ですが、同じように音楽を聴くひとがおられるのには、どことなく安心感がえられました(このような聴き方・感じ方をするのは自分だけかと思っていたものですから)。 それでは、失礼させていただきます(まったく舌足らずで申し訳ない限りでございますが)。
お礼
いえいえ――つまり《舌足らずでうんぬん》についてですが―― 印象や感覚の問題であるところが大きいと思います。音楽はですが。 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ No.4の回答者さまも言っておられましたが、 「いいメロディを聞くと感じる懐かしさ、これは何なんだろうといつも思います。」 実を申しますと、小生も考えたことがございました。どこからこの感覚がやってくるのか? です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ◆(回答No.4) 懐かしいという感情がどこかで美の感覚につながるそのあたりを以前からいろいろ考えていたのですが、 ☆ といった経験ですよね。まったく単純に ★ 「音楽とは 郷愁である」・・・いい言葉ですね。 ☆ とわたくしも思います。うまく言ったものだと思ったものですから。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ [・・・]どこからこの感覚がやってくるのか? です。 答えはまだわかってはいません。ですが、同じように音楽を聴くひとがおられるのには、どことなく安心感がえられました(このような聴き方・感じ方をするのは自分だけかと思っていたものですから)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ことは単純なものですから あまり何度も引き合いに出すのもおかしいかも知れませんが まづはこの感覚を共有してみたいと思います。 どこから来るのかは ナゾとしておきましょうか。
>その帰郷の旅をオデュッセウスよろしくいくつかの回り道を通らねばならない アリストテレスによれば、『オデュッセイア』の筋書きは以下のことだけです。 「ある男が長年家を留守にしていた。彼はポセイドンに監視され、しかもたった一人きりであった。そのうえ、故郷では財産が彼の妻の求婚者たちによって浪費され、息子は生命を狙われていた。彼は嵐で難破したのち帰国し、幾人かの者に自分が誰であるかを明らかにしてから、敵を襲った。そして自身は救われ、敵はほろぼされた。」 (アリストテレース『詩学』1455b 松本仁助・岡道男訳 岩波文庫67ページ) 「帰郷の旅」も「回り道」も普遍的筋書きとは無縁の「場面」にすぎない、といふのがアリストテレスの見方です。この本は「カタルシス」ばかりが取り上げられるのですが、いろいろ議論できる内容に満ちてゐます。 「故郷」といつても、土地としてだけでなく、「自分自身の心のよりどころ」の意味に広くとらへれば、「普遍的な感覚」がかなり成立しさうです。 先日の補足の意図がわかりませんでした。すみません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 先日の補足の意図がわかりませんでした。すみません。 ☆ 《トンスル・試し腹》なるナラハシを例に出して 韓国教をも オウム=ディオニュソス狂の内に序列しましたので その例証として《自分たちに抵抗する者はみなごろし》なる定言命法に当てはまる事例を示しました。 アリストテレスによる『オデュッセイア』なる作品の批評を提示された意図がわかりませんでした。すみません。
補足
ということは あのメッシナ海峡を エイゴウカイキとかチョウジンとかでぃおにゅそすとかでぃちゅらんぼすとかとささやくキレーネーの声がマガイモノであるというぶらじゅろんぬ氏のみちびきによってようやく抜け去ってやはり帰郷の旅をすすむという経験は アリスト何とかいうおっさんのひと声でかき消されてしまった。という意味でしょうか? カタルシスも おれには要らないと。 あるいは それは要るが ぶらじゅろんぬのおっさんの助けは要らないということでしょうか。
哲学を馬鹿にしてるのではありません・・ 哲学を学ぶ人は 屁理屈の塊だと言ってるだけです・・ 質問して 回答を貰っても 誰の意見も「あっそんな考えもあるんだ」なんて 思わないのが 哲学を学んでる人の欠点だと言う事です・・・ 他の分野の人は それが少ないのを知って下さいね・・・
お礼
あっ それでしたら 哲学に忠実すぎましたでしょうか。わたしが。 つまり――いえ 先にまづはともあれご回答をありがとうございます―― 《楽しいは楽しい》という同じ語の反復は 《回答》ではないと思っていましたから。 ということは そういう感性によるご回答もあるんですね とお応えしていたらよかったんですね。いまとなっては遅いでしょうか。 音楽 お好きなんでしょ? いろんな感想があると思うんですけれど。 あっ ちょっと待った。 ★★(回答No.1) ドレミドレミドレミドレミ・・・・これには 郷愁等 微塵も無いでしょ・・・ ☆ つまり もし ★ 質問して 回答を貰っても 誰の意見も「あっそんな考えもあるんだ」なんて 思わないのが 哲学を学んでる人の欠点だと言う事です・・・ ☆ とか ★ 哲学を学ぶ人は 屁理屈の塊だと言ってるだけです・・ ☆ というのは どうもウソですね。 ★★ 郷愁等 微塵も無いでしょ ☆ って言ってるぢゃないですか? 質問に対して いちゃもんをつけてるぢゃないですか? ふつう回答者は そういうことをしません。反省してください。
- a_hona
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その郷愁は、一種普遍的な故郷を想いうかべる様に思います。 個人的な思い出、例えば二十歳の頃に聴いていた曲を、四十になって再び聴いた時に、当時を思い出すというのはあるかもしれない。 しかし、例えばサカナクションを聴きながら知らない街の高速道路を走っていると、一種普遍的な都会像の中に自分はいて、そこにしかも懐かしさを感じる、といった様な心象が起こるのを見れば、音楽は普遍的な郷愁を呼び覚ますものだと言われて、納得できるとこがあります。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 たぶん・おそらく 《ふるさと》という言葉が ミソだったのではないでしょうか。 単純ですけれど 理屈抜きで親しいところであり・ものであり・ことでもある。いくつか出来る場合もある。 《わたしがわたしである》ことのキッカケになる。そのチカラは かなり大きい。何ものよりも大きい。家族や幼なじみと同じほどであり しかも人間よりも大きなチカラを持ち得るように思われる。人間の場合には仲違いが起こらなかったとは限らない。 ですかね。 復唱をせずじまいになりますが 実感があって 力強いご見解=感想だと思いました。サカナクションは ロックバンドと知りました。
- kohichiro
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NO.4 です。いつもながらご丁寧なお礼をいただき感謝です。 >今道友信:想念の断章性と思想の体系性) 音楽の分析ですね。面白そうです。小林秀雄がやろうとしてやれなかったしごとですね。 ブルックナーの5番ですか、ぜひ聴いてみようと思います。 >>ジャンケレヴィッチも言うとおり 音楽には l'indicible (言いがたきもの) l'ineffable (脱=言表的)という《言語に絶する思い》を奏であげるところがあって それこそが実存の自己開示や神秘の自己啓示やいずれにせよパトス( πάθος )につながる思いの包摂された《音のフレーズ》の時間的展開である。 初めて目にする言葉もあり難しそうですが、機会があればこれも買って読ませて頂きます。でもブラジュロンヌさんほど学がないので細部は理解できないでしょう(恥;;)。 >>テーマの内容を求めることが無意味であるとはいえないだろう。ブルックナーの第五交響曲のテーマの重い高さの重圧と悲痛な響きの深さには光を包む神秘の雲のもとに佇む人間の実存の姿が浮かぶのである。 作曲は殆ど理論で進める知的な作業らしいですが、その中に感情とそれよりも深いこころの流れを刻み込んでいくのはやはり特殊な才能だと思います。しかしそれに感応するのは平凡な我々大衆なので、そこに人間の真実があるのだと思います。 >いえいえ。次のような表現は 実感をあらわしつつ 共通の内容としても分かりやすいと これ、ちょっとぴんと来なかったのですが、私の最後の” 離れてしまったかも” の否定なのですね。 理解し安心ました。ありがとうございました。
お礼
いえいえ。わたしは このあいだの【Q:音楽って何のために・・・】でやっと音楽について考え始めたのです。 聞いている時間はかなり長いことになっていると思いますが ほとんどいつもBGMだったんです。ですから 音楽美学は 哲学の一部だと思って いくらかは読み始めたといったところです。 この今道の文章も ブルックナーやブラームスやジャンケロヴィッチやもきちんとは知らず 音楽のイロハについてもダメと来ていますから 引くだけ引きました。掲げました。抽象的な表現には けっこうわたしは慣れているにはいますが。 ★ 作曲は殆ど理論で進める知的な作業らしいですが、その中に感情とそれよりも深いこころの流れを刻み込んでいくのはやはり特殊な才能だと思います。しかしそれに感応するのは平凡な我々大衆なので、そこに人間の真実があるのだと思います。 ☆ ほおお。なるほど。《光を包む神秘の雲のもとに佇む人間の実存の姿》を彷彿とさせる曲調を表現しきるということでしょうか 作曲者は。 絵画よりも神秘であることに間違いないように思います。観念から自由ゆえに。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >いえいえ。次のような表現は 実感をあらわしつつ 共通の内容としても分かりやすいと これ、ちょっとぴんと来なかったのですが、私の最後の” 離れてしまったかも” の否定なのですね。 理解し安心ました。ありがとうございました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ やっちゃいましたね。音楽の世界に じゅうぶん入って行っておられるようだと思いました。わたしも ついて行けるようになろうと思います。
ねっ・・屁理屈の塊でしょ・・ あぁ言えばこう言う・・それが哲学です・・(特に此処での哲学の質問者は・・勿論 本当の哲学者も・・・)
お礼
おもしろかったでしょ? でも 楽しいの中身はどういうものか? という問いはあり得ますし その答えもあり得ますよ! その楽器を奏でることに没頭していて たのしさの中身を分析することなど出来ないでしょうか? いちいち分析などはしたくないでしょうか? たのしみを独り占め なのですね。 ご回答をありがとうございます。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
美術と音楽に共通したもの、それはその担い手である視覚 (=光)と聴覚(=音)が、どちらも、他の触覚や味覚のように 生理的に直接影響する作用と異なり、より情報性の高い= 長距離&非生理的な先行感覚である事である。 脳の重要な機能の1つに、「五感の相関した経験の蓄積に おいて、新たな情報性の高い先行感覚に対して、より生理 的な感覚を励起させる=そこへ行けば何が起きるかの予測 =空間的広がりの感受」がある。 その「五感の相関した経験の総和機能」において、歪みも 生じる。 例えば色彩とは、可視光線の連続的な波長の変化であるに も関わらず、「赤は青の反対」といった非物理的な認識を行う。 それは、赤には、赤の波長を伴う経験において、火や血、肉 などの異なる原因によるものを平均化してしまう結果、「熱い、 危険、食欲をそそる」といった直観を付与する結果、単なる 波長の領域に「赤」という特性が生じるのだ。 一方、青の経験には水や空といった「冷たい、清浄」な直感を 付与するものが平均化され、連続的な波長の変化であるにも 関わらず、「赤は青の反対」といった感覚を生じるのだ。 それは光の物性に基づくのではなく、人間の側の広い環境に おける経験という個別的・恣意的なものに由来している。 この、光において起きた事は、同じく先行的感覚である聴覚 においても、音色や旋律に対して、過去の五感の相関した 経験の蓄積における歪みを適用し、固有の感情を生じるのだ。
お礼
光(視覚)と音(聴覚)との――知覚としての――類似の問題 これはまだ一概に言えるかどうか分かりません。とまづは反応します。(保留となります)。 ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ この、光において起きた事は、同じく先行的感覚である聴覚 においても、音色や旋律に対して、過去の五感の相関した 経験の蓄積における歪みを適用し、固有の感情を生じるのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どう言いますか お尋ねするのですが 既得の感情を同じようなかたちで惹き起こす刺激とそしてそうではなく そのような既得・既成の感性のあり方をすり抜けて違った別の世界へとみちびく視覚的ないし聴覚的な刺激とのふたつがあるのではないのですか? それというのも それでは 既得のものではない視覚像ないし聴覚像は 永遠に知覚できないということになりませんか? 単純に言うとすれば 《過去の五感の相関した経験の蓄積における歪み》を――適用するような反応を起こすのではなく そうではなく――すり抜けて超え出て行くような知覚の起きる余地が 人の身と心とにはあるのではないか? それとも そういったあらたな反応を惹き起こす音楽の刺激は すでに作曲家にあっては 既得となっておりやはり《ゆがみ》が出来ている。ということでしょうか?
哲学は「屁理屈の塊」 それだけです・・
お礼
★★(回答No.1) 楽しい時は楽しい ☆ 音楽は音楽 音は音 楽しいは楽しい 哲学は哲学 理屈は理屈 屁は屁 塊は塊 ですよ!! ★ それだけです・・ ☆ よ。 ご回答をありがとうございます。
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お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そんな言葉を言ったひとが居たのですね。非常にいいところをついて居るように思います。 いいメロディを聞くと感じる懐かしさ、これは何なんだろうといつも思います。既視感が美を連想させると足穂が書きましたが、それと共通の(ような)何か。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 稲垣足穂ですか。しぶいですね。いっとき読んでいました。でも もう忘れたかも知れません。 わたしもまだ必ずしも今道の文章として分かっていないところがあるので そのくだりをかかげておきます。: ▼ (今道友信:想念の断章性と思想の体系性) ~~~~~~~~ [* ・・・脈絡を切るかのごとくに勝手に中略しますが・・・]私は内容のないテーマなどありえないと思うから 作曲者の意図ではなしに楽曲のテーマの内容を探索しなくてはならないと思う。 ジャンケレヴィッチも言うとおり 音楽には l'indicible (言いがたきもの) l'ineffable (脱=言表的)という《言語に絶する思い》を奏であげるところがあって それこそが実存の自己開示や神秘の自己啓示やいずれにせよパトス( πάθος )につながる思いの包摂された《音のフレーズ》の時間的展開である。 [・・・] それゆえ たとえばブルックナーの第五を聴くときそれがどのような脱言表性であるかを聴取することができるときもある。それらの経験の集積が象徴的に構造化されるとき 音楽的時間の展開の相には精神の回遊の軌跡が刻まれてくる。それを持つ人びとの意見交換によって音楽の figura (姿態)が定められてくる。 形相( forma )の時代が去ろうとするとき 音楽的思考の形相的一義性が求められないからといって テーマの内容を求めることが無意味であるとはいえないだろう。ブルックナーの第五交響曲のテーマの重い高さの重圧と悲痛な響きの深さには光を包む神秘の雲のもとに佇む人間の実存の姿が浮かぶのである。 ある人は海の竜巻の旋回する近くに度を失った船の像をみていた。それらはいずれも不完全であるがあの重厚な そしてこれでもか これでもかと説きかけるような謎の呼びかけの不可思議を何かのイメージでつかみながら その脱言表性の音楽を聴きつつその表現的塑性の根本に帰ろうとしている。それはひとつのノストス(帰郷的回帰)なのである。音楽は郷愁である。 (今道友信:思想の自己呈示としての音楽 in 今道友信編:『精神と音楽の交響 西洋音楽美学の流れ』1997 pp.38-39 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ いえいえ。次のような表現は 実感をあらわしつつ 共通の内容としても分かりやすいと感じます。そのまま再掲します。: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 何度か聴いて記憶に残る音楽が強い感動を与える(また聴きたい)のと同じ種類の構造的な脳の働きなのでしょうか。 ふるさとというはかなげで懐かしいいろんなものを連想させる言葉、短いフレーズの詩文が心に残るのとも近いことかもしれません。 心のふるさとはいくつもあります。地理的なものだけでなく、文学の中にも音楽にも友人関係にもあります。美の壷? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
デルポイの神託にて BAとさせていただきました。 もっともっとエピソードが聞かれるかなとも思っていました。 またの機会がありましたら どうぞよろしく。 みなさん ありがとうございました。