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田代柵

 昨日群馬県利根郡川場村歴史民俗資料館を訪ね、添付画像の説明(下に一部引用)に遭遇しました。 「桂昌寺(けいしょうじ)文書(もんじょ)によると大友館の前身(ぜんしん)は、田代柵(たしろさく)といって蝦夷(えぞ)を防(ふせ)ぐために建(たて)てられ、田代山(たしろやま)にあったと伝えられている。」その中の田代柵のくだりにとても興味を惹かれました。  近所の白沢村には上古語父(かみこごふ)(下古語父も在る)という不思議な地名があり、それを調べると「こくぶ」「こくぼ」ともいう(角川日本地名大辞典)とあります。  Wikiの城柵によれば柵が後に国府になった例もあるようでますます興味が惹かれます。  東北の蝦夷征伐等は学校でも教わりますが、群馬もそうだったのかというのはちょっとショックです。  もっと詳しく教えてください。あるいは素人でも読めそうな文献等を教えてください。

みんなの回答

noname#224207
noname#224207
回答No.4

No.2.3です 補足(5月7日)を頂戴しました。 補足に 「弥生人の文化の痕跡が桂昌寺を中心に徐々に広がり、逆にエミシの文化の痕跡は狭まっていくというような理想的な発掘ができないと、証明することは難しそうですね。」 とありますが、追加で説明させて下さい。 学校の教科書などでは縄文時代→弥生時代→古墳時代と時代を区分して一方的に進んだような記述となっていますが、実際は明確な区分が非常に難しいということをお考えください。 群馬県一帯で古墳が非常に発達したのは、それを受け入れて造るだけの人が既に暮らしていたと考える方が自然です。 全国有数の古墳を造るには、古墳の文化を持った人が突然大量にどこからか移住してきたというのには無理があります。 縄文時代、弥生時代という区分も土器のデザインを基にした考え方ですが、これを誰が作ったのかという観点からの議論もあります。 縄文人と呼ばれる人が突然いなくなり弥生人と呼ばれる人が作ったと考えるのは如何なものかという議論がされています。 縄文人と呼ばれる人々の中により簡素で肉厚の薄いいわゆる弥生式土器の制作技術が伝わり、その技法を取り入れて作るようになった。 土器を使う人が増えたことから煩雑な模様を付けた重い縄文式土器よりも弥生式土器の方が扱いやすく量産し易かったので広がった。 と考える方が自然ではないのか、ということです。 つまり、排除淘汰されていったというよりも同化していったと考える方が自然かと思います。 貝塚などは貝殻や魚の骨など腐り難い物が残っているために後世発見され易いです。 群馬県の一帯は落葉照葉樹林が現在でも広がっています 落葉広葉樹は硬果を豊富に生みだします。 硬果つまりドングリやクリ、トチノミの類です。 山林に豊富に食料がある環境だったということです。 これ等の食べ残しは植物質ですから簡単に腐って消えてしまいます。 つまり貝塚のような遺跡が残らなくても当然のことです。 山林というのは極めて豊かです。 現在も山菜料理などが豊富にありませんでしょうか。 従来は弥生時代と稲作がセットになっているように考えられていましたが、稲は縄文時代と呼ばれる時期に既に栽培されていたことも近年分かってきています。 雑穀と呼ばれるものも沢山栽培されていたことも知られてきてきます。 湿地帯であればこれ等の痕跡は泥に埋まって残りますが、山林地帯では忽ち樹木に吸収されてしまいます。 水稲を主体とした歴史観とは別の歴史観があります。 古い郷土料理なども調べてみて下さい。 古墳を構築するのには、大規模な土木作業がともないます。 現在の考古学のような考え方はありませんから、昔の住居跡なぞ構わずドンドン壊したいったかと思います。 つまり、西国の遺跡を基にした考え方に囚われずに関東は関東として地形や植生、気候条件などを加味して考える必要があります。 北関東よりも気候条件の厳しい青森で三内丸山遺跡が発掘されて、従来の温暖な西国の発掘結果からだけ類推していた考古学の常識が見直されてきています。 お近くの郷土博物館などでも盛んに研究が行われているかとおもいます。 是非従来の考え方に囚われずにシンポジュームなどを聞いてみて下さい。 参考 【第二章】縄文海進が残したもの | 龍神を造った男たち―両総用水・その ... suido-ishizue.jp/nihon/ryoso/02.html 千葉県の郷土史が中心となっていますが、関東地方がいかに豊かで独立した文化を発達させていたかがご理解頂けるかとおもいます。 1-3 伝わったのは縄文時代の終わりころ-1 米はどこからきたのだろう ... www.komenet.jp/bunkatorekishi01/112.html 弥生時代 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/弥生時代 群馬県 - 平成26年度 堅果類の豊凶調査結果について www.pref.gunma.jp/07/p13710038.html 現在も熊などの大型動物を養うだけの豊かな自然が残っていることの一つの証明です。 ドングリ - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/ドングリ 現在でも工夫次第で幾らでも食材になります。

noname#224207
noname#224207
回答No.3

No.2です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます お礼に「関東の毛人(エミシ)について研究した方はいらっしゃらなかったのでしょうか。いらっしゃたのなら是非、その方のお名前や著書等を教えて下さい。」とありますが、 寡聞にして具体的な著書等は知りません。 考古学の文献は一般人向けのものが極めて少ないのが現状です。 お近くの博物館などへ行かれれば、専門的な研究論文やシンポジュームなどで使われたパンフレットなどが入手可能です。 群馬県の博物館・資料館 - おでかけナビ www.odekake-navi.jp/gunma/museum.htm 群馬県が副読本を指定して一般向けに販売するようです。 内容的には極めて読みやすいかと思います。 群馬県 - 「東国文化副読本」の一般販売について(7月23日発売) www.pref.gunma.jp/03/c4200140.html 東国文化副読本~教師用マニュアル www.karisen.gsn.ed.jp/boe/htdocs/?action=common_download_mai... 内容の概要が分かります。 東国に関しては文字史料が少ないために議論も大和朝廷側に残されているものを論拠として行われています。 結果として、論文著者の推定が多数含まれていて甲論乙駁の状態です。 多元王朝説などというものもありますが、主義主張の範囲内です 多元王朝説 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/多元王朝説 坂上田村麻呂と干戈を交えたアテルイ(阿弖流爲)についても、大和朝廷側の記録のみが基になっています。 考古学の文献は断片的でかつ専門的、あるいはマニアックな情報が多く読みにくいかとは思いますが頑張って下さい。

noname#224207
noname#224207
回答No.2

学校などで教える歴史の基本となっているのが歴史学ですが、歴史学というのは学問の性格状あくまでも文字史料を基本としています。 文字史料が豊富に残されているのは奈良地方いわゆる大和政権が書き記した史料です。 現在のように学問としての中立的な資料というよりも。大和朝廷を中心とした記述となります。 蝦夷という文字も中華思想に基いた文字を使用したもので、大和朝廷に従わなかった人々を表す用語として使われました。 蝦夷を「えぞ」と読み蔑称となるのは平安時代以降の話です。 古代中国でも日本を表記するのに和ではなく倭という文字を当てたのもこの中華思想に基いたものとされています。 つまり、大和朝廷に対抗するだけの土着の豪族が既に居住していて、素直に従わなかったために蝦夷とされたと考える方が自然な考え方です。 大和朝廷が覇を広げるのに当たり障害になったために柵(前線基地)を設けたというだけのことでしょう。 群馬県をはじめ関東一円の古代史は考古学に依存せざるを得ません。 遠い青森で三内丸山遺跡が発見されていますように、縄文人の系譜をひく東国は弥生人の系譜を引く西国とはことなる歴史を歩んでいたことはよく知られています。 糸魚川静岡構造線と呼ばれる地質学的な区分からも明らかなように東西で植生つまり植物の分布も違っています。 参考 日本史ー古墳時代その3、ヤマト政権の発展 reservata.s61.xrea.com/akitu/4-kohun3.htm 抜粋 ちなみに、「毛人(えみし)」という言葉は、7世紀頃から「蝦夷(えみし)」という漢字が使用されるようになっていくが、もともとは蔑称(べっしょう)ではなかった。中華思想に基づいて東の服属されていない周辺民族を表す「夷(い)」という字が使用され始め、やがて平安時代になって「蝦夷(えぞ)」と呼ばれるようになるまでに、次第に蔑称化していったらしい 群馬県の旧名上野も当初は上毛野と記載されました。 蝦夷もこの文字が使われる以前は毛人と書きあらわされました。 群馬も「ぐんま」ではなく「くるま」と呼ばれていました。 上野の国の守には天皇家の人間のみが就任できる国でした。忠臣蔵で有名な吉良義央も上野守ではなく介を名乗りとしたのもこの為です。 大和朝廷の支配下に入っても決して粗末に扱われていた訳ではありません。 三ツ寺 I 遺跡 - 公益財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団 www.gunmaibun.org/remain/guide/tyumo/mitudera01.html 以上のように東国の古代史は西国の中心勢力であった大和朝廷を主体とした歴史観とは別の歴史観で考察されることをお勧めします。 特に関東平野は広く平坦であったことから現在の県という区分で考えますと誤解や混乱が起きますので注意して下さい。 この点も狭い奈良盆地で発達した大和朝廷とは違う歴史観が必要です。 考古学は近年急速に発達してきているために、なかなか素人向けのまとまった書籍がありません。 比較的まとまったものとしては下記のような書籍があります。 古代史はこう書き変えられる 松尾光 立風書房 上記書籍の第六章 大和王権の成長と東国社会p161~202の中に ヤマトと結ばれた東国豪族の居館p172~189という項があり、三ツ寺 I 遺跡 を中心とした記述があります。 ご指摘の田代柵周辺の古代史については下記のようなサイトがあります 自衛隊群馬地方協力本部:本部長の群馬紀行 www.mod.go.jp/pco/gunma/honbucho/gunmakikou/gunmakikou_32.ht...

yoneyama1234
質問者

お礼

三つ寺の瓦のがれきは面白いので今までに3,4度見に行きました。 鏡文字や子供が書いたような文字もどきがとっても好きです。 関東の毛人(エミシ)について研究した方はいらっしゃらなかったのでしょうか。 いらっしゃたのなら是非、その方のお名前や著書等を教えて下さい。

yoneyama1234
質問者

補足

お礼コメントの「三つ寺」は上野国分寺跡と取り違えていました。 考えると難しいですね。桂昌寺から渡来人の骨が、周辺からは縄文人の骨がみつかり、弥生人の文化の痕跡が桂昌寺を中心に徐々に広がり、逆にエミシの文化の痕跡は狭まっていくというような理想的な発掘ができないと、証明することは難しそうですね。

  • trytobe
  • ベストアンサー率36% (3457/9591)
回答No.1

この前後の段落を見ると、いわゆる大和の都からみての異民族である「蝦夷」対策に田代山に柵が作られていたのはだいぶ前の話で、その跡地に大友邸を構えた、 というかなり古いエピソードの文書が、寺ができたころかその後に記されただけかもしれません。 つまり、「蝦夷」も含めた異民族というか都側に取り込まれていない族は、元号がつく前から大和の都のすぐ東までは居たわけで、それが共同して取り込まれていく集団もいれば、敵対して征伐されて北方に後退していく集団もあり、 京都より東にはアイヌの言葉を由来とする地名が残っていたり、敵対していた民族との戦場跡が残っていたりする、 ということだけだと思います。中部地方にも、アイヌの言葉が語源と思われる地名・町名などが残っていますし。 アイヌ語 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E 対蝦夷政策史 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/emisi.html 蝦夷 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7

yoneyama1234
質問者

補足

アイヌ語云々はないと思います。アイヌと同族が居たのは青森、秋田、岩手、山形、宮城あたりまでだと思います。関東征伐も東北征伐と同じ手口だとすると、まず最初に柵を設けて軍隊を派遣し、地域を制圧した後に、静岡あたりから屯田兵を移住させ、水稲を中心とした殖産興業をおこなった。はむかったものはどうなったのか、東北と同じように俘囚として後方へおくったのか、それを思わせる地名がでれば面白いと思います。大和政権は「夷を以て夷を制す」を行っていたようですから、関東より西にはそれを思わせる伝承や地名等がのこっているのではと思います。