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終戦時、支那派遣軍総司令官・岡村寧次の行動
- 終戦時、岡村寧次大将は南京で降伏文書に調印しましたが、蒋介石と手を結び、積極的に蒋介石を支援しました。
- 岡村が蒋介石に積極的に接近した理由や、蒋介石が岡村に接触してきた経緯は不明ですが、両者の思惑が一致したと思われます。
- アメリカは共産主義の広がりを阻止するために蒋介石に働きかけ、岡村寧次と日本軍を利用した可能性がありますが、具体的な情報はありません。
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えっ?!もう締め切るのですか^^ 何て冗談はさておきまして、 本来なら回答投稿側である私の方が自らの投稿分を整理すべきところ、 断片情報を書き散らかしただけで誠に申し訳ありませんm(_"_)m No.6お礼コメント欄で御提示いただきました、 「国民政府「対日戦犯リスト」と蒋介石の意向 ─天皇の訴追回避と米国の影響に関する研究─/城山英巳」 『ソシオサイエンス vol.20/早稲田大学大学院社会科学研究科/2014-3-25』(50-66頁) につきましては、(※キーワード「国民政府」検索でヒットから※) No.6投稿前に「国民政府の対日戦後処理方針の実際-戦犯問題と賠償問題/和田英穂」 とともに軽く^^は読んでいましたが、 …I 戦犯リストの全体像 1.GHQに提出された「名単」… [51頁]<2/17>に …「陸軍罪犯」のトップに挙げられたのは、「日皇裕仁」だった。西尾寿造(中国派遣 軍総司令官)、岡村寧次(同)、寺内寿一(華北方面軍司令官)と続くが、… と直接「岡村寧次」名の記述が上記のみであったことと、リストの変遷も分かり辛く、 天皇と続くため、No.6投稿では特にはURL貼付をしませんでした。 「“第7次戦犯リスト”について疑問」と仰るのが 「45年6月に作成されたのが「侵戦以来敵国主要罪犯調査票」(機密、軍令部第2庁 第1処=以下「調査票」)だ。」とのズレ?のことなのか分かりかねますので コメント出来ません(><) さて、冒頭記述のとおり自らの投稿分を整理すべきところではありますが、 誠に勝手ながら楽をして申し訳ありませんが、 …GHQとの関係において一部疑問点もありますが、 素人の私には分かりやすかったです… 下記URLを貼付して、整理に代えさせていただきます。 既に御存知の場合は御容赦下さい。 〇「日本軍の山西残留に見る戦後初期中日関係の形成/張宏波」 『一橋論叢 134巻2号(2005.8)/日本評論社』(187-208頁) http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/15542 以上
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- Kittynote
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自治会公園清掃&法事などでバタバタしておりまして、 No.7お礼コメント欄を拝見するのが遅くなってしまいました。 >岡村たち戦犯は、マッカーサーが用意した専用船『ヨハネビックス』号で >帰国しています。 >これが事実なら、なぜ“専用船”を差し向けたのか、という疑問が生じます。 >マッカーサーが岡村を確実に逮捕するためだったのか、 >それとも蒋介石に頼まれたのか? 国会会議録検索システムにて、 http://kokkai.ndl.go.jp/ 簡易検索/検索条件(昭和20.8.15~30.12.31/院名すべて/検索語:戦犯)の結果、 検索件数…932件ヒット、検索結果一覧表示のあと、日付による並び替え「古い順」。 (※個々の文字は、画像から読みとったテキストデータですので、誤字・脱字等がある 可能性がありますが、会議録(冊子)画像での確認はしていません※) によりますと、 〇[054/932]/回次4/衆議院/本会議/号数5号/昭和23年12月07日 <10/24>○国務大臣(吉田茂君) お答えをいたします。…(中略)…また、ただいま引揚げ同胞の問題についてお話があり ました。これは最近の吉報として御披露いたしますが、中華民國が御承知のごとく今日 はなはだ不安な状態にあるので、なお戰犯その他の関係から中華民國に残留いたしてお る同胞の安否については、われわれもはなはだ懸念いたすのでありますが、最近承知い たしたところによりますと、連合軍司令部においては、特に艦を仕立てて、その日本へ の帰還について、すでに準備を進めておるそうであります。…(後略)… 〇[64/932]/回次5/参議院/本会議/号数8号/昭和24年04月04日 <14/27>○國務大臣(吉田茂君) お答をいたします。御質問の御趣意は誠に御尤もであります。政府といたしましても、 この処置につきましては從來とも甚だ心配いたしておつたのでありまするが、特にここ の申上げたいことは、昨年の十月であつたか、十一月であつたか、ちよつと記憶があり ませんが、確かな日にちは記憶はありませんが、恰かも南京、上海、あの辺が危險状態 になつて、そのために南京、上海地方において拘禁せられておる陸軍の戰犯に関係して おる將士の安否については甚だ心配な状態のように新聞その他において見られたもので ありまするから、マツカーサー元帥に、これはどう処置せられるものか。 新聞に傳うるところによつては、今にも上海或いは南京地方が共産…中共でありますか、 のために占領せられて、不幸な事件が起りはしないかと思つて心配するのであるという 話をいたしましたところが、元帥は、直ちにそれは船を送つて、そうして全部日本に帰 還せしめることにしておるという話でありました。 それから間もないと思いますが、三百四十何名かと思いまするが、日本に帰還して今は 巣鴨におります。というような…これは上海、南京の話でありまするが、北部の地方に ついては実は状況甚だ不明なのであります。…(後略)… 上記発言だけでは、GHQの独自判断か蒋介石の依頼によるかは定かでありませんが、 中国共産党軍の勢力拡大に伴い、少なくとも中国(国民政府)の管理下にある戦犯などは 昭和23年12月7日以前(10月11月?)から 「…連合軍司令部においては、特に艦を仕立てて、その(※戰犯その他の)日本への帰還 について、すでに準備を進めておるそうであります。…」 状況にあったことは確かなようです。 御教示いただきました 『「日本政界の台湾ロビー及び中日関係に対するその影響/张進山」 2、「恨みを徳で返す」下での日蒋軍事結託』は、 筆者の立場が変われば表現も変わるのが面白かったです^^ また、『ヨハネビックス』号と船名まで記述されているのは中々のものですね。 ただ、「1949年1月26日アメリカと蒋介石の意…」との曖昧表現は、 他の論文などにも言えることですが、岡村寧次無罪判決にGHQが事前関与したのか、 単に事後追認なのか、それとも東京裁判A級戦犯以外の中国国内戦犯については、 中国(国民政府)判決が尊重されたのか、あるいは中国(国民政府)判決にかかわらず、 GHQが改めての控訴的な意味合いの訴追も有り得たのか、 …何れにしても裁判とは名ばかりで戦勝国の一方的な制裁に過ぎないと考えますが… 残念ながらこのあたりがハッキリしません。 〇「中国の対日戦犯処理政策:厳罰主義から「寛大政策」へ/豊田雅幸」 『史苑 69/立教大学/(2009-03-19)』(15-45頁) https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&all=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%AF%BE%E6%97%A5%E6%88%A6%E7%8A%AF%E5%87%A6%E7%90%86%E6%94%BF%E7%AD%96&count=50&order=0&pn=1&st=1&page_id=13&block_id=49 <6/31> 国民政府のこのような処置に対し、共産党側は、二日後の一月二八日、これに反対する 声明を発し、「あらためて岡村寧次を逮捕するとともに、われわれがのちほど通知する 期日と地点にしたがって、責任をもってかれを人民解放軍のもとに護送しなければなら ない。その他の日本人戦犯は、しばらく諸君が拘禁しておき、われわれの処理をまつこと、 これを一人でも勝手に釈放したりわざと逃がしたりしてはならない」と命じた。 しかし国民政府は、共産党側の主張を容れることはなく、岡村に加え、既決戦犯二六〇 名をも日本へ送還したために、二月四日の、A級戦犯容疑者に対する裁判の権利を主張 した中央委員会の声明の中で、岡村に対する再審の権利と、二六〇名の再送還を要求し ている。 これに対し国民政府は、要求自体は拒否しつつも、岡村に対する最終決定は考慮中であり、 「若し判決が不当なものと判れば再審のため中国に送り返される」との見解を示した。 <『毎日新聞』1949年2月5日付、『新聞史料にみる東京裁判B・C級裁判 第2巻 BC級裁判・戦犯裁判一般』(毎日新聞政治部、内海愛子・永井均監修・解説、現代史 料出版、2000年)108頁> 上記フレーズが中国共産党に対する単なるデタラメ宣伝なのか、 実際の仕組みを述べたに過ぎないのか定かではありませんが、 当時、仮に中国共産党に岡村寧次が逮捕されるような事態に陥った場合、 一番困るのはGHQではなく、自らのアキレス腱にもなりかねない 蒋介石だったのではないでしょうか。 以上 またまた文字数の割に中味が薄くて申し訳ありませんm(_"_)m
お礼
衆議院本会議の議事録まで調べて下さって真にありがとうございます。 “専用船”と聞いて豪華客船を想像しましたが、戦犯の管理は移送も含めてGHQの業務ですから、岡村を特別扱いにしたわけではないようですね。 >……岡村寧次無罪判決にGHQが事前関与したのか、単に事後追認なのか、それとも東京裁判A級戦犯以外の中国国内戦犯については、中国(国民政府)判決が尊重されたのか、あるいは中国(国民政府)判決にかかわらず、GHQが改めての控訴的な意味合いの訴追も有り得たのか、 >…何れにしても裁判とは名ばかりで戦勝国の一方的な制裁に過ぎないと考えますが… >残念ながらこのあたりがハッキリしません。 ハッキリしませんね。 これは、今回の質問とは別に質問を立てた方がよい問題だと思います。 >……当時、仮に中国共産党に岡村寧次が逮捕されるような事態に陥った場合、 一番困るのはGHQではなく自らのアキレス腱にもなりかねない蒋介石だったのではないでしょうか。 同感です。 結局、事実が分かったとしても、その事実をどのように認識するのかは、立場(国)によって異なりますから両論併記で結論としたいです。 質問:岡村大将が昨日の敵・蒋介石と手を結び、積極的に蒋介石を支援したのはなぜですか。 蒋介石が、終戦後の日本軍に対して寛大な態度を示したから。 その訳は一言で言えば“岡村との個人的な関係”があったから。 もちろん様々な反対論があったにもかかわらず押し切ったのは、両者、とくに蒋介石にとってメリットがあったから。 では、岡村と蒋介石の間に何らかの“取引”があったのか。 あったに違いないが、取引と呼ぶか、協力と呼ぶのか、なんとでも言える。 そういう訳で、(両論を書きませんが)両論併記ということになります。 岡村の処遇について、蒋介石がアメリカの意向を聞いたのか、聞いたとしても参考程度に留めたのか、何とでも解釈できるので、両論併記ということで締め切りたいと思います。
- Kittynote
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再三お騒がせ致します^^ >ホントに「取引」したのか、したとすればいつ頃か、 少なくとも下記記述からは、蒋介石・岡村寧次間の取引があったとは思い辛いです。 ・『若手研究者研究成果報告論集No.1/愛知大学国際中国学研究センター/2006-03-31』 http://iccs.aichi-u.ac.jp/report/report.html?report_id=32 〇「国民政府の対日戦後処理方針の実際-戦犯問題と賠償問題/和田英穂」 http://iccs.aichi-u.ac.jp/report/file.html?file_id=988 3 アメリカへの反発と現実─酒井隆中将、岡村寧次大将の引渡しをめぐって [128・129]<6・7/11> (2) 岡村寧次大将のケース ただし、帰国後、対GHQ、G2など米国の裏舞台との関係では、 現時点では想像の域を出ませんが、 戦犯容疑部分を含め何らかの取引があってもおかしくないと考えています。 下記は古い論文で、岡村寧次関連の記述<13/77など>も僅かではありますが、 朝鮮戦争前後の米国の裏舞台の状況がある程度把握出来るように思います。 〇「対外関係の構造変化と外交/関寛治」 ・『年報政治学 Vol.28(1977)/日本政治学会』(63-139頁) https://www.jstage.jst.go.jp/article/nenpouseijigaku1953/28/0/28_0_63/_article/-char/ja/ 以上 再三の断片情報に過ぎませんが 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
お礼
再度のご回答真にありがとうございます。 質問の原点に戻りますと、 「まさに手のひらを返すがごとく百八十度方針転換して、昨日の敵・蒋介石と手を結び、積極的に蒋介石を支援したのはなぜですか。」。 私は、岡村大将と蒋介石両者の間に何らかの「取引」があったのだろう、それも岡村が自己保身のために蒋介石にもちかけたのだろうと、推測しました。 事実は、まさに正反対に近いものでした。 岡村大将の無罪判決について若手研究者が研究成果を発表しているのですね。 『若手研究者研究成果報告論集No.1/愛知大学国際中国学研究センター/2006-03-31』は、たいへん参考になりました。 後日読み返すこともあるので核心部分を抜粋しておきます。 「以上のように岡村に対して破格の待遇を以って処していたことがわかる。特に軍上層部は世論の岡村の裁判を求める声,あるいは GHQ からの東京裁判への証人としての出廷要請をことごとく連絡班の任務,または病気を理由に最後までかばい続けたのである。この理由として迅速な引揚げを成功させた功績や寛大政策を挙げているが,それ以上に当初は岡村との個人的な関係,そして国民政府の国内・国際的地位が危うくなってからは,対日・対米関係などが作用していたことがうかがえる。」 また、回答#2で提示された「「<論説>南京1945年8~9月─支那派遣軍から総連絡班へ─/三好章」の一節ですが、私にとっての疑問に答えてくれました。 「国民党が日本軍「将兵を信服させるような一連の措置を取った」ことが効果的であり、中共が「国民党政府のように、日本軍に正式な指示を出せる権限がなかった」ゆえに日本軍の抵抗にあったと指摘するのは、本稿の立場とも共通している。」 日本がポツダム宣言を受諾した直後、まず始めに蒋介石のいわゆる「以徳報怨」声明が出たのですね。 この声明は知っていましたが、この思想が国民党軍の末端まで浸透しているとは、思っていませんでした。 トップの「きれいごと」くらいの感覚で捉えていました。 これでやっと「取引」と呼ぶような裏交渉はなかったのだ、と納得しました。 蒋介石・国民党軍が親切だったから、岡村大将以下日本軍もその親切に応えた、そして現在まで日台は友好関係が続いている、という構図と思います。 しかし、捕虜の人格を認めるという思想は、日露戦争に見るが如く、もともと明治日本にあった思想ですね。 日本に留学した経験をもつ彼らがこの思想を実践したのに、教えた日本が今次大戦ではそれを忘れてしまったのはなぜでしょうか。自問自答しています。 前回のお礼欄に「交渉というよりは友好的に話し合いをする中で、蒋介石は岡村大将を戦犯として訴追しないと、自然に思ったのではないでしょうか。」と書きましたが、戦犯として訴追しています。 間違ってました。 いろんな資料・史料を教えてくださるので、丹念に読めば質問したこと、知りたいことがだんだんはっきりと姿を現してきます。 ご教示に感謝申し上げます。 これで締め切りたいと思います。 (メモ)『若手研究者研究成果報告論集No.1/酒井隆中将、岡村寧次大将の引渡しをめぐって』において“第7次戦犯リスト”について疑問があります。後日調べます。 岡村は中国各地の日本官兵善後連絡部を統率し,日本軍民の引揚げや戦犯処理に関して重要な役割を担った。この時期,中共側からは戦犯リスト第一号,国民政府からは“第7次戦犯リスト”に挙げられ,世論からも裁判の要求が高まっており,更には GHQ から東京裁判への出廷要請もあった。 https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/44230/1/SocioScience_20_Shiroyama.pdf#search='%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%94%BF%E5%BA%9C+%E7%AC%AC%EF%BC%97%E6%AC%A1%E6%88%A6%E7%8A%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88'
- Kittynote
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No.2&No.4の Kittynote です。再び失礼致します^^ >日本軍の何が欲しかったのかと言えば、“兵”以外には思いつきません。 もう一つお忘れではありませんか?^^ 軍属と、軍以外ではありますが民間人の技術者なども… 試しに下記を覗いてみますと ・件名:支那総軍電報綴 史実資料 自昭和20年12月至昭和21年5月 第1軍司令部(1) [階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>中央>作戦指導>重要電報> 支那総軍電報綴 昭和20年12月~21年5月 [レファレンスコード]C12122310400[年代域]昭和20年~昭和24年[画像数]49 「(20.11.28)徴用日本官兵ノ待遇…徴用人員…」 「(20.12.1-2)馬取扱兵其ノ他中國側ヘ差出シアル要員ノ復歸…」 「(21.1.10-11)技術関係徴用者ノ歸還ニ関シ疑義ノ向アリシヲ以テ本日中國陸平總司令 部第二處長鈕少將ニ對シ「中國ニ殘留ヲ希望セザル技術関係徴用者ハ復員末期迄ニハ全 部内地ニ歸還セシメラレ度 但シ衞生関係人員一般將兵居留民ノ歸還輸送ノ間ニ於テ衞 生勤務ニ支障ナカラシムル如ク逐次之ト共ニ歸還セシメラレ度」旨連絡セシ處之ヲ諒承 シ且中國殘留者ノ待遇ニ関シテハ目下研究中ノ旨回答アリタルニ付承知セラレ度 尚各軍ニ於テハ右技術徴用者及服役辨法ニ基ク人員ヲナルベク軍司令部所在地ニ於テ 勤務セシムルニ努ムルト共ニ最後ノ輸送即チ軍司令部歸還ニ當リテハ中國殘留所希望 者以外全部ヲ洩ナク収容歸還セラレ度」 「(21.1.14-15)衞生部人員ノ現地殘留…中國側ニ於テ本人ノ技術程度ヲ承知シ積極的ニ 指名殘留ヲ希望シアルコト…殘留希望者ニ於テモ將來ヲ見透シタル熱烈ナル希望ヲ有シ アルコト…殘留者ノ待遇ニ関シテハ日軍衞生人員暫行徴用辨法ニ準據シ現地毎ニナルベ ク有利ニ折衝セラレ度…衞生部人員ノ部隊歸還(移駐)後ノ徴用ハ本人ノ現地殘留希望ア ル場合ニノミ適用セラルルモノト解シアリ」 「(21.1.20)中國陸軍總司令部訓令…三、徴用日籍技術員ニハ國際慣例ニ據リ工賃ヲ支 給セザルモ奬勵金ノ外酌量支給スルコトヲ得 其ノ工作ニ努力シ成績優良ナル者ニハ 中國人同等職員相當ノ待遇ヲ與フルコトヲ得…」 「(21.1.24-26)日本軍民徴用服役者ノ歸還ニ関シ一月二〇日附誠字第二一九號發令セラ ル<1>日本軍民送還ハ米側ト具體的計畫ヲ協定セル所ニシテ米側ノ海運ヲ適時投合スル 見地ヨリ徴用服用ノ日本軍ハ悉皆歸國セシムベシ<二>各機関ニシテ日本人技術者ヲ徴用 スル必要アルトキハ曩ニ頒布セル中國境内日籍適用暫行徴用通則ノ規定ニ基キ引續キ徴 用スル旨請求スベシ但シ殘留希望者ト否トノ二種ニ分カチ殘留希望者ト技術者ハ長期徴 用スルコトヲ得ルモ希望セザル者ハ最後ノ輸送ヲ以テ歸國セシムベシ…」などなど 民間技術者等の徴用、将兵の服役(=軍務)、医師・看護婦の徴用?等がありますから ほぼ強制でしょうが、一応は殘留希望者以外は帰還の方向にはあったようです。 ただ、日本側現地上層部の匙加減が生じる余地はありそうですね。 また、ハルピンの八路軍、中共軍側の話ではありますが、 満鉄社員からハルピン工大学長になった父をもつ方(当時17,18歳)の体験談によれば、 軍医中尉の義兄は捕虜になって東北民主連軍総司令部で医師、 自らは半強制で石炭坑に送り込まれそうになったところを義兄の助手として参軍、 父はと言えば経歴から技術者等の留用の為の人選の役目を負わされ、 多くの技術者等の引揚を阻止したが為に自らも残留の道を選んだとか… (「或る中国体験 : 混沌の時代・回想と省察/鈴木正信」(127-223頁) 『創大中国論集 8/創価大学/2005-03』) 本題から逸れそうなので軌道修正 >「密約」「裏取引」は表には出てきませんからね。 この手の話は何とでも言い得ますので、 WEB上に散見される関連URLを貼付るのは簡単ですが、 自ら「疑り深い」と仰る kouki-koureisya 様に対しましては、 下手な小細工は通用しないでしょうし^^ また私自身も可能な限り裏付け等が取れないことには 手が出し辛いと言うのが正直なところです。なので現状では 「マッカーサーやウィロビー等の何らかの裏工作が有ったと思わざる得ません。」から 前に進めません(><) >百万人全員に支給されたのか、一部の将兵だけだったのか、 どうやら、昭和20年10月15日時点では、下記の様子も、 中國戰區日本徒手官兵服役辨法(民國34年10月15日中國陸軍總司令部發布) 第六條によれば、「…待遇ハ規定ニ依ルモノヽ外各受降區ヨリ主副食ヲ支給スルモ凡ソ 過去ニ於テ日本ノ破壊セルモノヲ修復スル一切ノ建設ニ對シテハ總テ工賃ヲ支給セス 但シ其ノ工事ニ勤勉ニシテ成績顕著ナル者ニハ毎月賞與一回ヲ支給ス、個人ニシテ成績 顕著ナルモノニ對シテハ別ニ個人奬金ヲ支給ス.…」 昭和20年11月26日からは、 ・件名:中国戦区最高統帥命令 第1号(12) [階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>支那>大東亜戦争>全般> 中国戦域終戦関係資料綴 昭和20年9月9日~21年1月20日 [レファレンスコード]C13031913000[年代域]昭和20年~昭和21年[画像数]50 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13031913000 <30/50> 中國陸軍總司令部訓令 理字寫四號 中華民國三十四年十一月二十六日 於南京 總経主電第五一五号 今般集中營(※収容所?)ノ日本軍將兵ノ待遇ハ軍政部ノ規定ニ依リ主副食ヲ支給スル外 ニ左ノ如ク雜費ヲ支給スルコトトス (一)將官毎月八、〇〇〇元(二)佐官毎月四、〇〇〇元(三)尉官毎二、〇〇〇元 (四)下士官毎月四〇〇元(五)兵毎月二〇〇元 尚同雜費ハ日本軍將兵個人ニ支給スルモノニシテ主副食以外ノ日常生活必需品トシテ 必要ナル煙草、甘味品、歯磨粉、歯刷子、便箋、封筒、塵紙、石鹸等ヲ購入スル代金ニ 用ユルモノトス本雜費支給後ハ從來許可シアリタル日用品、煙草、甘味品等ノ現品ハ 一切支給セズ右ノ旨各受降主官ニ夫々電達セルニ付承知スベシ 右中國戰區日本官兵善後總連絡部長岡村寧次大將ニ訓令ス 中國軍總司令陸軍一級上將何應欽 集中營(※収容所?)の日本軍將兵は一律支給されると読み取れますが、 その支給を受ける為には、所有一切の公私現金の収納(没収)が課されたようです。 またまた主題から外れた投稿でお騒がせして申し訳ありません。 途中から何を調べているのか忘れてしまいそうです^^
お礼
再度の丁寧なご回答真にありがとうございます。 「支那総軍電報綴 史実資料 自昭和20年12月 至昭和21年5月 第1軍司令部」を全て読みました。 >「日本軍將兵ノ待遇ハ軍政部ノ規定ニ依リ主副食ヲ支給スル外ニ左ノ如ク雜費ヲ支給スルコトトス」 活字で読んでも「あっ、そうなの」「ホント?」「書類だけの建前論でしょ」と言いたくなりますが、パソコン上の画像とはいえ、ホンモノは迫力が違います。 冬季、華北は寒いから採暖用の燃料を増やして欲しいと要求したら了解してくれたのですね。 ここまで蒋介石はしてくれたのか!! 「密約」や「裏取引」があったに違いないとの先入観をもって質問した私の考えを軌道修正せねばなりません。 敗戦直後、1945年8月28日付『読売報知』のインタビュー記事で石原莞爾中将は述べています。 蒋介石は、先般重慶全軍に対して「暴に報ゆるに暴を以てすべからず、日本との永い抗争は水に流した、日本人に危害、略奪の暴挙をするな」との布告を放送したといふが、…ここにおいて私は支那には戦争でも道義でも完全に敗けたと痛感した。 石原莞爾のこの話を思い出していろいろ考えたのですが、岡村大将は「ギブアンドテイク」だと思って交渉したのかも知れませんが、蒋介石も同じ考えだったのだろうか、と思い始めました。 交渉というよりは友好的に話し合いをする中で、蒋介石は岡村大将を戦犯として訴追しないと、自然に思ったのではないでしょうか。 ここまでくれば小説の世界ですが、歴史を楽しむ私の、今のところの結論です。
- Kittynote
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No.2の Kittynote です、再度失礼致します。 その後、アメリカの当時の対中政策について下記などを紐解いてみましたが、 ・米中関係の歴史と日本/小野勇 『江戸川女子短期大学紀要 11/1996-03-31』(103-113頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110000468845 ・アメリカの中国観/山極晃 『二松學舍大學東洋學研究所集刊 27/1997-03-31』(83-94頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110006178107 ・「中国の喪失」(一) : 朝鮮戦争とアメリカの対中政策イメージの変容/石田正治 『法政研究 58(3)/九州大学/1992-03』(371-491頁) ※これは飛ばし読み^^※ http://ci.nii.ac.jp/naid/110006261860 やはり当時の米国の対中政策については、表舞台での積極性は感じられません。 ただ一方で、岡村寧次元陸軍大将は「'49年1月に国民党政府に由る「無罪」判決」 とは言え、帰国すればGHQから改めての訴追があってもおかしくないところ、 GHQ参謀2部のカイン大佐と面会した程度でお咎め無し、 後年例えば昭和26年5月26日衆議院行政監察特別委員会でも、 「梨木委員/岡村寧次元陸軍大将は蒋介石政権の最高顧問として中国においても活躍し、 その後いろいろの情報によりますと、日本においての募兵計画についての大きな密令を 帶びて日本へ来ているというように伝えられております。…」 「梨木委員/…さらに岡村寧次元大将が日本に帰つて来た後において、台湾から呉鉄城 氏という人が来まして、この岡村寧次元陸軍大将を訪れたということを雑誌などでわれ われは散見するのでありますが、…」等と質問に出る程度で勿論お咎めも無し。 なので蒋介石・岡村寧次間の問題に止まらず、 GHQの黙認と言うよりは関与抜きには考え辛いため、 米国の表舞台の対中政策とは別に、マッカーサーやウィロビー等の何らかの裏工作が 有ったと思わざる得ません。 また、前投稿では 「戦犯容疑者という己の立場を軽減・回避する為の自己保身と考えるのが妥当かと…」 カキコミましたが、敗戦とは言え自らは負けていないとの思いの中の復員・引揚業務、 それが軍事顧問などを引き受けることで職業軍人としての新たな活路が見出せたこと、 やがて戦犯容疑者という立場を回避することにも繋がったかと… ややニュアンスを変えてみました^^ あと、余談ですが気になったこと。 蒋介石の留学期に関しましては、下記が典拠も明確で詳しいかと思います。 ただし、注[10][12}[16]等のいわゆるアジ歴のデータ側に関しましては、 「蒋介石」が当時の称は「蔣志清」になっています。 〇「蒋介石の人格形成と日本/黄自進」 『日本研究 42/国際日本文化研究センター/2010-09』(93-121頁) http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/handle/123456789/1637 [93~98]<1~6/29> 二、留学期 以上 またまた新ネタは殆ど無く、お騒がせして申し訳ありませんm(_"_)m
お礼
再度のご回答真にありがとうございます。 >敗戦とは言え自らは負けていないとの思いの中の復員・引揚業務、それが軍事顧問などを引き受けることで職業軍人としての新たな活路が見出せたこと、やがて戦犯容疑者という立場を回避することにも繋がったかと… そうですね。そういうことも言えるでしょう。 中国から見れば、憎い相手の一番手は暴支膺懲声明を出した近衛文麿、そして日本軍人では南京戦の松井石根でしょう。 この二人に比べると、岡村は許せる存在かと…。 >やはり当時の米国の対中政策については、表舞台での積極性は感じられません。 分かりました。 アメリカは、共産主義の広がりを阻止するために、蒋介石に働きかけ、岡村寧次と日本軍を利用したのではないか、と想像していましたが、こんな露骨なことはやっていませんね。 自己保身だろうと疑うのは、何かの本で外務大臣・東郷茂徳が次のようなことを書いていたのを思い出したからです。 「最高戦争指導会議」で“国体護持”が最重要と言っていた軍部が、会議が終わるとすぐさま東郷のもとへ寄ってきて「自分は戦犯になるのか」としつこく聞いてきた。軍にとっての国体護持の意味とはこの程度のことだと思った。 しかし、#5のご回答を読んで、保身のための「取引」や「密約」というような裏交渉があったのか、考え直しています。
- mm058114
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追記です。 密約がありました。 内戦に、日本将兵が『義勇軍』として参加する事です。 これを、蒋介石側が依頼しています。 そして、岡村寧次大将が受け入れたいれています。 詳細は分かりませんが・・・ 当時の日本政府は、食糧事情悪化から、 外地の日本将兵の復員不可。現地帰化を決定しています。 もっとも、アメリカに却下されていますが。 日本政府側も、この『義勇軍』を歓迎していたのでは。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 義勇軍の密約があったのですね。 不思議ではないです。 >当時の日本政府は、食糧事情悪化から、外地の日本将兵の復員不可。 この話、聞いたことあります。 朝鮮から米が入ってこなくなったので、切実な問題でした。
- Kittynote
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>大本営も支那派遣軍にだけは、 >「重慶軍及延安軍の無秩序なる行動に対し万止むを得ざるに於ては >局地的自衛の措置を実施することを得」という例外を認めています。 下記論説[65~67]<10~12/21>によれば、 8月17日午前10時、支那派遣軍総司令官名で 「派遣軍ハ厳粛ナル軍紀ノ下ニ一ニ本職ノ命令ニ基キ挙措進退ヲ律シ ……蒋委員長ハ速ニ中国軍全部ニ対シ末梢部隊ニ至ル迄即時現態勢ヲ以テスル停戦実行 ヲ徹底セシメラレンコトヲ要請ス 自今右不穏行動ヲ継続スルモノニ対シハ…… 派遣軍ハ已ムヲ得ズ断乎タル自衛行動ニ出ヅルコトアルヘシ」と通告した流れから、 大本営は単に現場判断を追認して8月22日付で例外条項を認めたとも読み取れます。 また、支那派遣軍の降伏受理交渉である芷江会談は、中国側と中国戦区アメリカ軍作戦 司令部参謀長バトラー准将も加わって8月21日から3日間に亘って進められ、 8月23日、最終的に陸軍総司令何応欽が中国側に代表として加わり、 そこまでの交渉を確認し、10分程で散会した様子からも、 時系列で見る限り少なくともこの時点では、中国・米国側と言うより、 支那派遣軍(岡村寧次)側の自衛の為の主張と大本営の追認と受け取れますとともに、 8月21日20:30-23:30の芷江会談(後記「●件名:第3号 細部に関する連絡事項」)では、 …「蔡(※中国陸軍総司令部副参謀長少将蔡文治)」 何総司令ハ蒋委員長ノ命ヲ奉シ全責任ヲ有シ居ルヲ以テ何総司令ノ命令ヲ受ケタルモノ 以外ニ對シテハ如何ナル部隊ヨリ武装解除ノ要求其他ノ交渉アルモ貴軍トシテハ自衛行 動ヲ採ラルヽモ可ナリ此等武装團体ハ土匪ニ類スルモノナリ… と中国側も支那派遣軍(岡村寧次)側の自衛行動を認めています。 〇「<論説>南京1945年8~9月─支那派遣軍から総連絡班へ─/三好章」 『愛知大学国際問題研究所紀要 143号/2014-03-25』(55-75頁) https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4085&item_no=1&page_id=13&block_id=17 ●件名:第3号 細部に関する連絡事項 [階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>支那>大東亜戦争>北支> 第1軍司令部備忘録綴 昭和20年 [レファレンスコード]C13070335500[年代域]昭和20年[画像数]19 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13070335500 <4/19> なお、前記論説<17/21>によれば、 …1945年11月からは国府軍から日本軍将兵への雑費が毎月支給され、その金額は 「将官八千元、佐官四千元、尉官二千元、下士官四百元、兵二百元」 (『岡村寧次大将資料』75頁)であり、 「この金額は、中国正規軍将兵の給料と同じであった」(黄自進『蔣介石と日本―敵と 友のはざまで』武田ランダムハウスジャパン、2011年1月、190頁。)という。… ことと、下記[96]<24/26>の註100)『辞海』の「岡村寧次」経歴の 「→日本投降後に蒋介石の秘密軍事顧問→'49年1月に国民党政府に由る「無罪」判決→」 を併せ見れば、双方の持ちつ持たれつ関係が浮かびます。 〇『立命館国際研究.15(1)/立命館大学/2002-06』 「儒商・徳治」の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(2)/夏剛 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8313250/1 [96]<24/26> 註 100) 『辞海』の「岡村寧次」(1884~1966)の経歴には、 陸軍大学卒→1925年直(河北)系軍閥・孫伝芳の軍事顧問→ '28年に日本軍歩兵聯隊長、済南惨事の元凶→(略)中国派遣軍総司令(最終軍歴)、 「三光」政策を実施→日本投降後に蒋介石の秘密軍事顧問→'49年1月に国民党政府に由る 「無罪」判決→'50年に台湾「革命実践研究院」高級教官に招聘→日本に死去、と有る。 なお、下記によれば「台湾の国民党軍を秘密裏に支援した旧日本軍人による義勇軍を マッカーサー最高司令官が黙認」ということはあったようですね。 〇47NEWS>共同ニュース>記事詳細 http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010122201000838.html 2010/12/22 19:43 【共同通信】 旧日本軍人の台湾支援黙認 マッカーサー関与の新資料発見 戦後の冷戦下、台湾の国民党軍を秘密裏に支援した旧日本軍人による義勇軍を、 連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官が黙認していたことを示す資料を、 有馬哲夫早大教授が22日までに米国立第2公文書館のCIA文書から発見した。 米側が中国共産党軍に対抗するため、ポツダム宣言で武装解除された旧日本軍人の戦闘 行為を、情報工作の一環として非公式に認めていたとみられる。 見つかったのは、国共内戦中の1949年2月4日付の報告書。 GHQ参謀2部(情報機関)トップのウィロビー少将の部下カイン大佐が、 国民党政府に同年1月釈放され帰国したばかりの元戦犯容疑者、 岡村寧次・旧中国派遣日本軍総司令官と面会した際のやりとりが記録されていた。 あと、下記からは、米国の対中方針にも揺れがあった様子が伺えます。 〇「敗者の帰還─中国からの復員・引揚問題の展開─終戦外交と戦後構想/加藤陽子」 『国際政治 Vol.1995 No.109』(110-125頁) https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1995/109/1995_109_110/_article/-char/ja/ >岡村陸軍大将の行動をどう解釈すればよいのでしょうか 断片情報を繋ぎ合わせる限りでは、反共の為に蒋介石と手を結んだ何て言うよりは、 (岡村寧次氏の関係者の方々には申し訳ありませんが) 戦犯容疑者という己の立場を軽減・回避する為の自己保身と考えるのが妥当かと… ただ、残念ながら『戦後、戦死者五万人のなぞをとく/大庭忠男/本の泉社/1999』は 未読なので何ともコメント出来兼ねますが、山西残留事件などを持ち出すまでもなく、 共産党軍と衝突=岡村寧次の責任というのは少し違うように思います。 以上 纏まらないままではありますが 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
お礼
丁寧なご回答真にありがとうございます。 戦争末期、軍首脳部が最重要課題としたのは、表向きは国体保持、本心は戦犯逃れ(自己保身)だったと思っています。 岡村大将の行動も自己保身以外の何ものでもないと思っていましたが、質問には「どちらにせよ両者の思惑が一致したのでしょう」と婉曲に書きました。 人は誰しも、まず自己が大事と思うのは本能ですから、岡村の行動の是非をとやかく言うつもりはありません。 ホントに「取引」したのか、したとすればいつ頃か、という疑問があって質問しました。 蒋介石は、天皇の戦争責任に言及していますが、岡村を許しています。 そこまでして蒋介石が岡村から何を得たのか、得るものがあったのか、疑問でした。 日本軍の武器・弾薬は武装解除で入手できます。 米軍からは飛行機まで支給されていますから、日本軍の何が欲しかったのかと言えば、“兵”以外には思いつきません。 「密約」「裏取引」は表には出てきませんからね。 >共同ニュース「旧日本軍人の台湾支援黙認 マッカーサー関与の新資料発見」2010/12/22 「戦後の冷戦下、台湾の国民党軍を秘密裏に支援した旧日本軍人による義勇軍を、連合国軍総司令部のマッカーサー最高司令官が黙認していた」 「米側が中国共産党軍に対抗するため、ポツダム宣言で武装解除された旧日本軍人の戦闘行為を、情報工作の一環として非公式に認めていたとみられる。」 こんな事実 (義勇軍) があったのですね。 うっかりしたことはいえませんが、これも蒋介石と岡村の「取引」の一つだったのでしょう。 すると、1945年11月から国府軍から日本軍将兵に毎月支給された「雑費」は、“傭兵”としての費用になるのかも。 百万人全員に支給されたのか、一部の将兵だけだったのか、カネを貰っても日本兵個人が街で使えたのか疑問は尽きませんが、いつか調べてみます。 『立命館国際研究』の「儒商・徳治の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(2)」は、 本文よりも「註」の方が面白いですね。エピソード満載です。 毎回、面白い資料を教えて下さること、楽しみにしています。
- mm058114
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蒋介石は、日本陸軍士官学校21期出身の知日派です。 歴史は、指導者として、日本と戦う事になりますが、日本に少なからず好感を持っていました。 蒋介石は、終戦時に「徳を以って恨みに報ず」という声明を出し、その後日本へ早期復員に努力もしています。 また、岡村寧次大将は、中国通として知られていて、 中国にも、個人のパイプはあり、速やかな降伏が行われました。 終戦直後に、天皇特使の朝香宮鳩彦王から、速やかな戦闘終結、中国への協力を伝えられていましたのも、大きいでしょう。 また、太平洋戦争開戦前には、蒋介石に、終戦後首相の東久邇宮稔彦王大将が、終戦について秘密工作を個人的に行なっていたとも、言われています。 蒋介石と岡村寧次大将は、双方から近づいて行って、スムーズの交渉成立したのではないでしょうか? 実際の交渉では、蒋介石は、陸士の先輩にあたる岡村寧次大将に、上官への礼をもった態度を示したとも言われています。(岡村寧次大将は16期) アメリカの共産主義阻止は、考えすぎではないでしょうか? まだ、中国は内戦状態で、国家も成立していません。 戦勝国に名を連ねたのは、蒋介石側が、しゃしゃり出てきて、しょうがないから仲間に入れただけです。 どちらかというと、戦勝国に名前を連ねる事によって、中国の正当な政権として、内部に示したのではないでしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど“陸士つながり”ですか…。 調べてみますと、降伏文書調印式での中国側代表・何応欽も陸士28期でした。 話せば分かる仲とは言えるでしょうね。 何を取り決めたのか知りませんが、それによって5万人もの戦死者が出たとは…。
お礼
何度もご回答くださって真にありがとうございます。 >「“第7次戦犯リスト”について疑問」 >「45年6月に作成されたのが「侵戦以来敵国主要罪犯調査票」 >(機密、軍令部第2庁第1処=以下「調査票」)だ。」とのズレ? のことなのか分かりかねますのでコメント出来ません。 “第7次”ということは、第1次、第2次があると推定すれば、かなり後になります。 いったい、中国は、岡村大将の戦犯としての重要度をどのように認識していたのか、という疑問です。 下記資料のURLをうまく添付できませんが…。 立教史学会『史苑』第54巻1号 「終戦前後における中国の対日政策 戦争犯罪裁判を中心に」 (11/18) 1947年7月、中央政府はさらに日本重要戦犯リストを公表し、地方政府が一層戦犯の犯罪行為を調査するよう指示した。 このリストには261人が掲載されており、階級、職務、主な犯罪行為などが付されていた。 リスト順に並べると、1土肥原賢二、2板垣征四郎、3南次郎、4荒木貞夫、5畑俊六、6東條英機 7平沼騏一郎、8阿部信行、9米内光政、10小磯国昭が上位10名である。 同じページの註12 1945年10月のリストは次の通りである。 1土肥原、2本庄繁、3谷寿夫、4橋本欣五郎、5板垣、6磯谷廉介、7東條、8和知鷹二 9影佐禎昭、10酒井隆、11喜多誠一、12畑 (10/18)にはこれら12名を選んだ理由についての説明があります。 これとは別に中国は2回にわたって極東国際軍事裁判所に33人の重要犯罪リストを提出した(このうち蒋介石が自ら12人の戦犯をきめた)。この中の15人が後日、東京裁判の被告となる。 前回のお礼欄に核心部分を抜粋しました。 「以上のように岡村に対して破格の待遇を以って処していたことがわかる。特に軍上層部は世論の岡村の裁判を求める声,あるいは GHQ からの東京裁判への証人としての出廷要請をことごとく連絡班の任務,または病気を理由に最後までかばい続けたのである。この理由として迅速な引揚げを成功させた功績や寛大政策を挙げているが,それ以上に当初は“岡村との個人的な関係”,そして国民政府の国内・国際的地位が危うくなってからは,対日・対米関係などが作用していたことがうかがえる。」 これを読むと決め手は、「この理由として迅速な引揚げを成功させた功績や寛大政策を挙げているが,それ以上に当初は“岡村との個人的な関係”,そして(以下略) 」だと思います。 では“岡村との個人的な関係”とは何ですか、という疑問が出てきます。 このようにいくらでも疑問が出てきますので、このあたりで締め切ろうと思いました。 もちろん“岡村との個人的な関係”でケリをつけるのは甘っちょろいと思います。 しかし、追求していけばキリがありませんから、若手研究者がこのような結論を導いているので、その結論を一応、由としたいです。 本当は、今の中国(中華人民共和国)の見解がどうなのか、これと比べておかねばなりません。 終戦当時の蒋介石は、当面の敵は日本軍でしたが、真の敵は共産軍のはずです。 中国大陸を制する壮絶な権力闘争を将に始めようとしている時期です。 蒋介石としては“岡村との個人的な関係”を最大限に活かして、日本軍とアメリカを利用しない手はありません。 このような観点から考えると次の論文は参考になります。URLをうまく添付できませんが。 「日本政界の台湾ロビー及び中日関係に対するその影響」 中国社会科学院日本研究所 4ページ 2、「恨みを徳で返す」下での日蒋軍事結託 これによれば、かなり異なる結論を導くことができます。 岡村たち戦犯は、マッカーサーが用意した専用船『ヨハネビックス』号で帰国しています。 これが事実なら、なぜ“専用船”を差し向けたのか、という疑問が生じます。 マッカーサーが岡村を確実に逮捕するためだったのか、 それとも蒋介石に頼まれたのか? >本来なら回答投稿側である私の方が自らの投稿分を整理すべきところ、 断片情報を書き散らかしただけで誠に申し訳ありません。 歴史を楽しむタイプの私は、kittynote 様のご回答で十分満足しています。 断片情報であっても解決につながる大きなヒントが隠されていたことがたびたびありました。 今回でも「電報綴り」は衝撃的でした。 ホントに感謝しております。