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縛られ地蔵、実際の話は…?
- 連続時代劇「大岡越前」で、問題の地蔵をお縄にして野次馬を誘き寄せるストーリーが展開される。
- 「縛られ地蔵は業平橋の退蔵院で祭られている」とナレーションで知らされる。
- 実際の歴史的な話については複数の話が存在し、大岡忠助とお地蔵さんの関係についても知られている。
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>「問題の回だが、モデルになった、歴史的な話を、何回か、聞いた事ある。 ご指摘のTVのお話は大岡政談が元にはなってはいますが、下記のお話のほうが広く知られています 「悪の絹問屋の主人」だの「雇ったヤクザ2人」などという人物は登場しません。 大岡裁き(二)縛られ地蔵 - 珍獣の館・今昔かたりぐさ www.chinjuh.mydns.jp/ohanasi/365j/0508.htm このサイトの末尾に下記のような但し書きが記載されています ただし、大岡政談はあくまでフィクションで、ほとんどは作り話だったとも言われている。地蔵と木綿の話は『本朝藤陰比事』などの古典にほとんど同じ話が収録されている。 大岡政談につきましては下記のサイトに概略の説明があります 大岡忠相 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/大岡忠相 大岡政談という項目に説明があります 包拯 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/包拯 しばれ地蔵のお話の元になった人物という記載があります >「縛られ地蔵は、業平橋(東京都墨田区)の退蔵院で、縛られ地蔵として、祭られていて、参詣者に、親しまれてる…」的な内容で、知らせてました。 やや違います。 祀られているお寺は退蔵院ではなく南蔵院です 現在は業平橋周辺にはありません。 関東大震災で罹災して昭和4年に東京の葛飾区に移転して現在に至っています。 業平山 南蔵院(東京都葛飾区東水元2-28-25) 「男はつらいよ」でお馴染の葛飾柴又帝釈天の近くですので是非一度訪ねてみて下さい。 お地蔵様は健在で現在も縄でぐるぐる巻きになって立っておられます。 この縄を巻くのは願掛けの一つです。 >歴史的に言えば、どの様に、関係してるか? 非常に難しいご質問です。 「水戸黄門漫遊記」と「水戸光圀」とはどういう関係かという質問と同じ類のご質問です。 史実とは無関係ですが、伝承してきた庶民の気持ちが共通している、ということになります。 では、なぜ伝承されてきたのか、ということになりますと、社会心理学や民俗学の問題となってきます。 ヒントとしましては、大岡忠助なる人物が当時江戸で最も恐れられていた広域火災の予防に町火消制度を設けるなど、社会政策や現在で云う社会福祉に尽力して、庶民から好意を持って支持されていた人物だったということになります。 平たく言えば庶民にとって善政を施した名君ということになります。 また、江戸庶民特有の正義感やいき、きっぷ、などという心情にマッチした人物だったのだろうと推測されます。 蛇足 江戸町奉行所という役所は犯罪捜査や裁決はほんの一部の業務でした。 主要な業務は現在の東京都庁のような役割の役所でした。 しかも町政は全て町役人という自治組織に委ねられていました。 江戸の町政は全てこの自治組織を通じて行われており、幕府はこの自治組織の長を管理することによって目的を達成するという言わば間接統治をしていました。 幕府内部は町奉行所の他に勘定奉行、寺社奉行、など縦割りの組織で、各々がこの自治組織の長を通じて行政を行っていました。 身分制度上も庶民が公式に武家と対話する場合には、現在で云う有産階級の人を通じてのみ可能な社会制度でした。 TVの時代劇のお白洲の場面でも必ず家主が同席するのはこのためです。 このことからも分かりますように、しばられ地蔵の話の中にも、当時の社会制度とは矛盾する光景が含まれています。 史実とは矛盾があることと、文芸作品としての評価とは別次元の話ですので誤解なきようにお願いします。
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No.2です 補足を頂戴しました。 「歴史上、本当に関係する、話なのか?」とありますが、畏れ入りますが、お知りになりたい点が今一つ理解できません。 「関係する」と仰られている範囲がよく理解できません。 犯人のあぶり出し、という観点からみますと現代でいえばおとり捜査の手法の一つかと思いますが如何でしょうか、 疑問は奉行所を舞台としたおとり捜査があったのかなかったのか、という点でしょうか。 あるいは、一般におとり捜査という手法が使われていたのかどういかという点でしょうか。 犯罪としては、現代の窃盗犯(置き引き、コソ泥)の範囲の犯罪ですが、このような犯罪があったのかどうかでしょうか。 仏像を犯罪者に見立てて捕縛するような事例があったのかどうか、ということでしょうか。 「子争い」につきましては、母親は自分の子供の苦痛を回避することを、自分の利益よりも優先するものだ、という観点からすれば、類似の事例は数多くあったであろうと推測できます。 江戸時代は現在のように情報機関が発達していなかったこともあり、迷子が非常に多い時代でした。 一度迷子になりますと、親元に戻るのが非常に難しい時代でした。 このために、子供には常に神社のお守りと同時に迷子札を身に着けさせていました。 これだけでは充分ではなかったことから、下記のサイトのような情報交換の石碑が多数建てられていました 浅草寺の迷子しるべ石 : 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 wheatbaku.exblog.jp/16108352/ 一石橋迷子石 tenbou.travel.coocan.jp/suijun/suityo/chuo.htm このことからも分かりますように、実母と育て親が後日子供を取り合うということはあったものと推定することは可能です。 蛇足 江戸時代の「訴えー捜査ー捕縛ー取り調べー裁判ー判決」という流れが現代とは基本的に違いますことを御理解願います。 基本的には警察権を誰が行使していたのか、という行政上の違いもあります。 藩幕制度というのは基本的に軍事制度だったとご理解願います。 現代の刑事事件にせよ民事事件にせよ武家身分以外の身分階級の人達にかかわるいわゆる民政は、身分毎の自治組織に委ねられていました。 統治はこの身分別の自治組織の長を掌握して管理することで維持されていました。 江戸の街の場合には、町年寄という自治組織の最高機関を頂点として実施されていました。 町人身分の中も、租税を負担している階層と租税を負担していない階層とに峻別されていました。 自治組織の構成員は租税を負担している階層のみに限られていました。 租税を負担していない階層の人達は現代でいう市民権が全く認められていませんでした。 平たく言いますと、長屋の熊さんや八っさんは税金もお祭りの経費も一切負担することはありませんでした。 一方で犯罪を公式に訴える権利も認められていませんでした。 取締りに際しても「捜査ー捕縛ー取り調べ」の実務はすべて自治組織から認められた町人が受け持ち、この町人を町奉行所の末端官僚である同心が個人契約の形で利用していました。 つまり銭形平次は、単なる町人です。 公的な給与は一切支払われていませんでした。 「知らしむべからず、寄らしむべし」ということが徹底していて、現在の刑法に相当するものは奉行本人以外には公表されていませんでした。 同心も銭形平次も正式な刑法をしらない状態で業務に当たっていたとお考えください。 拠り所は、過去の事件の裁決の事例を積み上げて判断していました。 史実としてどうかということになりますと以上のような社会制度からしますと、話事態が成立し難いということになってしまいます。 参考 大岡裁き(一)子争い - 珍獣の館・今昔かたりぐさ www.chinjuh.mydns.jp/ohanasi/365j/0507.htm 江戸の刑事裁判 - nifty homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/keizi.htm 畏れ入りますが、御疑問の点を再度補足いただくようお願いします。
- pupPeTeer119
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以下のサイトに来歴が書かれていますよ。 http://shibararejizo.or.jp/shibararejizo.htm
お礼
回答、有難うございます。 「詳しい回答なので、BAにしたい」と、思います。 又、質問した時は、よろしくお願い、致します…。
補足
回答、有難うございます…。 「退蔵院」と、出したのは、質問の発端となった、「大岡越前」の問題の回では、ナレーターの人が、伝えてた寺の名前が、「退蔵院」と、聞こえてた為、そのまま、出してしまいました。 指摘、有難うございます…。 「歴史的には、どの様に、関係するか…?」の部分ですが、「時代劇では、脚本化されてるので、多少異なるが、歴史上、本当に関係する、話なのか?」と、思った為、出しました。 他にも、「現在なら、小学生位となる、ある、女の子の母親は、育ての親か、産みの親、どちらかを、判断する裁き」も、同じ様な話として、何回か聞いていて、「縛られ地蔵」と同様、「大岡越前」でも、1回、制作されてたのは、再放送で、見た事あります。