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「もののあわれ」と「無常」の違い
外国人の友人から質問されましたが、答えられませんでした。 「もののあわれ」と「無常」は、意味が違うのでしょうか…? インターネット上で調べてみましたが、よくわかりません。 よろしくお願いします。
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外国の方への説明ということになりますと、恐ろしく難しいご質問です。 「もののあわれ」という言葉の後半の「あわれ」という言葉が非常に幅の広いニアンスを含んだ言葉です。 「無常」というのは元々仏教用語からきた言葉ですが、日本に渡来してきた以降は「あわれ」という美意識が加わり独特の解釈となりました。 この為に「あわれ」という言葉の説明の際に「無常観」などという言葉で説明されるようになりました。 このことがご質問された原因といいますか、外国の方に説明がし難かった原因です。 サイトで無常を調べられても本来の仏教用語の定義に基づいた説明か「あわれ」という日本人特有の美意識の説明抜きで説明されるかのいずれかですので、分かり難かったかと思います。 「あわれ」は言葉としては可哀想という意味以外には以下のようなニアンスを表す言葉であるとされています。 しみじみ心に染みる感動、また、そのような感情を表す。 ○底知れないような趣。情趣。ものがなしさ。 ○どうすることもできないような心の動き。感慨。 ○しみじみとした情愛・人情。慈愛の気持ち。 ○しみじみともの悲しく感じるさま。はかなく、また、さびしく思われるさま。「夕暮れは、なんとなく―に思われてしかたがない」 ○ しみじみと心を打つ風情があるさま。趣があるさま。 ○しみじみと心に染みて愛着を感じるさま。いとしいさま。かわいいさま。 ○しみじみとした愛情があるさま。優しいさま。 これだけでも外国の方に理解してもらうのは大変です。 感性と言いますか美意識の違いが典型的に現れるのがお月見です。 月夜の風景に対する受け取り方が極端に違います。 日本人特有の美意識を学ぶための基本図書ーー佐々木健一『日本的 ... borges.blog118.fc2.com/blog-entry-1763.html 満月に遠吠えする狼を連想するのは西欧人特有の連想でしたが、最近の日本の若者もこの感性に近いものとなっています。 全く人工の光がない月夜と言うのが縁遠くなったためでしょう。 こんなことを言っている人もいます ローウェルの桜 www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn4/Sakura_ij.htm 日本人は場所を賞でるだけでなく、また時を賞めでる。ある場所は日の出の時に見る。またある場所は月夜に見る。あるところは春に訪れ、また別のところを秋に訪れる。(he appreciates not only places, but times. One spot is to be seen at sunrise, another by moonlight; one to be visited in the spring-time, another in the fall.) 名月と言えば、小林秀雄の書いているなかに、自然に馴染んでいる筈のスイス人が、どんちゃん騒ぎをしていた日本人の月見の集団がまぁーるい月の東の山の端から出始めた途端、静まり返ったのを見て奇異に思ったらしいというのがある。これも時を選んでいる あるいは 西洋で、月を愛でることはあっても、月見はない。同じように、花を愛でることがあっても、花見はない。花もそうだが、月も独りで楽しむ。或いは恋人と。 という人もいます。 Wikipediaにも以下のような説明があります。 もののあはれ - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/もののあはれ 平安末から鎌倉初期の歌人で、自然を愛し諸国放浪した西行は、『旅宿月(旅路で野宿して見る月)』と題する歌において、「都にて 月をあはれと おもひしは 数よりほかの すさびなりけり」<都にいた折に、月を“あはれ”と思っていたのは物の数ではない すさび(遊び,暇つぶし)であった>と詠んだ。これは西行が、自身が都に住んでいた時に、月を見て、「あはれ」と思ったのは、すさび=暇つぶしでしかなかったと詠じ、旅路での情景への感動を詠んだ歌である。また、「飽かずのみ 都にて見し 影よりも 旅こそ月は あはれなりけれ」<飽きることなくいつも都で仰いでいた月よりも、 旅の空でながめる月影こそは、あわれ深く思われる>という歌もある。 仏教で云う、無常といいますのは、常住不変なものはあり得ないということを表す恐ろしく哲学的な言葉です。 ありとあらゆる物も物事も常に変化しているという考え方です。 キリスト教やイスラム教圏では唯一絶対なものとして神というものを想定しています。 このために不変なもの絶対なものに価値観をおきますが、日本人は変化に価値観を置きます。 無常はマイナスのイメージではなくプラスのイメージでとらえています。 夕暮れのように昼から夜へかわることが実感できる時間帯にも美を感じます。 心なき 身にも あはれは 知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ というような和歌も残されていて名歌として長く継承されてきています。 夏から冬へ変わる秋にも同じような美を感じます。 紅葉も紅葉狩りとして春のお花見のように楽しみます。 夜や冬という衰退(マイナス)へ変わるというイメージは余りもちません。 外国の人のように、昼の終わりとか楽しかった夏の終わりという受け取りかたは余りしませんでした。 この点も最近の若者は外国の人と同じような受け取り方をする人が増えてきています。 以上非常にわかりずらい説明だったおもいますいが、何かあれば補足で追加質問をお願いします。
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nihongo77さん No・2です。 いいかげんな回答を付けてしまって ごめんなさい。 私の勉強不足でした。 皆さんの回答を読ませてもらって 私も学ばせていただきました。 nihongo77さん 深くお詫び申し上げます。
お礼
とんでもありません。ありがとうございました。
- steinfluss
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あれ、わざわざ尋ねるまでもない。 「もののあはれ」と「無常」はあんまり似てもいないでしょう。 「もののあはれ」について、かの清少納言たんはこんな文を遺しています。 もののあはれ知らせ顔なるもの。 はな垂り、間もなうかみつつものいふ声。 眉抜く。 (『枕草子』三巻本版第85段、能因本版第89段。http://manapedia.jp/text/2647) (この段については、こちらのページにちょっと面白い解釈が記してありました。 http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2008/02/post_4909.html) 多少諧謔的に書き記したものなんでしょうけれど、 「鼻水が垂れていて、ひっきりなしにかみつつしゃべっている声」や 「眉毛を抜いているところ(※これはおしゃれのためにしている行為です。特に平安貴族の成人女性にとっては必須の身だしなみ。)」 というものが「無常を感じさせる」ものにはなりにくいでしょう。 「あーあ、鼻声を聞いてるのってなんだかわびしいなあー」という思いとか 「眉毛を毛抜きでつかもうとしているときのあの間抜けっぽい顔とか、抜く瞬間の痛さをこらえているつらそうな表情など」は、 しばしば無常の主要な要素とされる「万物の流転」とは程遠そうです。 だいたい、「もののあはれ」って、個人の抱く感情のことです。 何人かの人があるひとつの対象に同じような感情を抱いて、「あっ、あなたも『もののあはれ』を感じてるんだね!」「あなたも『もののあはれ』って気分?」というように心理を共有することはできますが、「もののあはれ」そのものは客観的な知識や情報ではありません。不特定多数の人が参照したり引用したり勉強して理解できたりするようなシロモノではないのです。 「無常」はもっと哲学的で客観性の高い言葉です。ほかのかたのご回答にもありますが、個人の感情というよりも、「自分自身や環境・社会はうつろうものであり、その運命に抗うことはできない」ということ(万物の流転)を現実として認識し受け入れることで理解できる観念であって、「もののあはれ」よりも客観性の高い概念です。 「もののあはれ」がよくしみじみとした感情を伴う(つまり個人的な感情の入る余地がある、というか個人的な感情そのもの)のに対し、「無常」はもっと根幹的な概念であって、個人の感情の入る余地はあまりありません。 ところで、質問者さんのおっしゃる「無常」とは、むしろ「無常感」に近いものだと思いますが如何でしょう? これは「無常」という哲学的概念よりももっと感情に近いもの、すなわち、ある対象を認知したときに「無常」を思い起こさせる感覚・感情のことだと解釈できます。 こちらなら「無常」に比べて「もののあはれ」に近いといえるでしょうね。 例えとしてこんなのはどうでしょうか。ちょうど今は桜の季節ですから桜を使ってみます。 桜の花が散るのを見て「ああ、今年の花も終わっちゃうのかー、なんだかしみじみとしてちょっと寂しいね」と思うのが「もののあはれ」。このあと葉の伸び始めた桜を見て「あー、しばらく前はきれいな花を咲かせてたのに、今の桜はなんかどどめ色の葉っぱをつけていてなんだか気色悪い感じ。もうじきしたらすっきりした葉桜になるのは分かるけれど、なんかねぇ、あんなきれいな花や葉をつける桜にもこんな見栄えのしない時期があるんだと思うと、なんだかなぁー。あと毛虫も湧いたりするんだよねー」とうずうずした気分になるとすれば、それは清少納言たんが枕草子で書いた「もののあはれ知らせ顔なる」感情と同類でしょう。 同じ桜の散るのを見て「桜が散っちゃった…これで今年の桜にはもう二度と巡り合うことはない。来年もこの木に桜は咲くかもしれないけれど、今年と同じような咲き方はしないだろうなー。今年より貧弱になっちゃうかもしれないし、今年より華やかかもしれない… でもいつかはこの木だって枯れてしまって花を咲かせなくなる時が来る。もしかしたら伐採されたり嵐で折れたりするかもしれない。それは今年ありうることかもしれないのだから、来年の花なんて見られないかもしれないんだよ。でも今咲いているこれがこの木にとっての最後の桜と決まったわけじゃない。もしかしたら今この花を見ている私が死んだ後もまだ花を咲かせ続けるかもしれない…」などという深い考え方になったら、これは「無常感」と呼んで差支えないでしょう。
お礼
丁寧に詳しく説明をしていただき、感謝しています。大変勉強になりました。
- STAX217A
- ベストアンサー率14% (64/444)
もののあわれ:物(者)の哀れ➡人間を含む、すべての物体に変化移り変わりがある事を、愛うしく思う心を、指す。 無常:人間が感じる、如何に努力苦心をしても、所詮万物には寿命あり、自然界(人間を取り巻く環境含む)の力には敵わない事を指す。前者が、観念的(人が心に感じるさま)なのに対して、後者は、諦観(虚しく、諦め境地)な情念(心の動き)的に、抽象的な表現でしょう。疑似的のようですが、明らかに、対人間と人間の間での確執と執念・信念の競合から、生れ出た言葉でしょう。そこには、明らかに短期的に感じるか長期的でないと理解不能かで大きな違いがあるでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございました。勉強になりました。
- pupPeTeer119
- ベストアンサー率30% (633/2077)
もののあわれ 世の中に存在する無常なるものを見た時に起きる「人の心の動き」を指す言葉 無常 世の中にあるものは全て移ろい行くものであるという「現象」を指す言葉
お礼
ありがとうございました。勉強になりました。
ほぼ同じ意味だと思います。
お礼
いろいろな意見が聞けて、勉強になります。ご回答ありがとうございました。
リテラルに説明すればいいんじゃね。(´・ω・`)
お礼
ありがとうございました。
お礼
丁寧に詳しく説明していただきありがとうございました。大変勉強になりました。「外国人に説明する」ことも考慮に入れて回答していただけて、大変助かりました。ベストアンサーにさせていただきます。