- ベストアンサー
私は全てであり、全ては私である
- 私は全てであり、全ては私である。あなたは全てであり、全てはあなたである。
- この文章で始まる、どのような世界観においても世界を認識する際に、「私」は全ての基準である。そして「私自身」は「私以外のもの」との比較によってのみ認識される。だから「私以外のもの」「私自身」を生み出す源泉でもある。また、その全ての基準になる「私」は、「私以外のもの」の中に「私」が生きることによって形成されてきたものである。だから、「私」を取り巻く全てのものが「私」の源泉でもある。「あなた」が世界を認識する際に、「あなた」は全ての基準である。そして「あなた自身」は「あなた以外のもの」との比較によってのみ認識される。だから「あなた以外のもの」「あなた自身」を生み出す源泉でもある。また、その全ての基準になる「あなた」は、「あなた以外のもの」の中に「あなた」が生きることによって形成されてきたものである。だから、「あなた」を取り巻く全てのものが「あなた」の源泉でもある。そして「私」は「あなた以外」の中に入り、「あなた」は「私以外」の中に入る。それならば、「私」も「あなた」も世界の基準であるという意味においてお互いに尊重すべき同格のものとして存在しているのだ。
- そのことがわかったとき、どうして軽々しく他人を非難できよう。否定できよう。他人の発した言葉を自分が近似的に変換し損なった可能性があるというのにどうして言葉のみによって他人を判断できよう。どうして自分と他人の世界の区切り方が異なる「言葉」を全ての判断基準とすることができよう。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
永井均のいう「独我論」だろ? 「独我論」を論破することは不可能。 この世界には私しかいない、他人は私の「影」「分身」に過ぎない。 なぜって、私には他人の心は見えないし、見えるのは外見である身体とその振る舞いや言動でしかない。 私たちはその他人の身体の、外見の、振る舞いの向こうにそれを統一し、振る舞いや言動を表出するものとしての心があるものと想像しているけど、もしかしたらそんなものはなくて、ロボットかゾンビかもしれない。 なぜって、ロボットだって身体を持っているし、振る舞いをするし、言葉も喋る、現代では人間とロボットの区別は出来ないとは言えないかもしれないけど、だんだん言えなくなるから。 私たちは他人の身体の向こうに私の心を感情移入によって「投げ入れて」、他人に心があると思っているだけです。 だから他人の心というのは私の心、私の心の分身に過ぎない。 こうして「独我論」が帰結します。 これを論破することは難しい。 たしかに、私と他人を超越した第三者の視点から見れば、「独我論」は成り立たないかもしれないけど、そんな超越者なんか存在しないから、論破するのは難しい。 たとえば、第三者として、他の人間を想定しても、その他人が私やあなたの心の存在を知りえないという意味では、同じです。 もし、神のような存在がいて、私の心も他人の心も等しく知ることができれば、「独我論」は成り立ちませんが、そんな存在は考えられない。 だげど、これを批判した哲学者がただ一人います。 ウィトゲンシュタインで、かれは私的感覚とか感覚の私秘性、私的言語の存在を否定しました。 独我論者は私的感覚があり、その私秘性は本人にしか接近できず、他人には分からないというけれど、言語というものは公共的な規範なんだから、たとえ私的感覚とか、感覚の私秘性があるからと言って、そんなものは「言語ゲーム」には入らない、と。 この場合の「言語ゲーム」とは規則のこと、規範のこと。 独我論者は私というもの、私の心というものを特権視している、そしてその心を他人は持っていない、という。 だけどそれは、私とか心が「言語ゲーム」の外だと言っているにすぎない。 だから、それは言葉で表すことは出来ず、というのも言葉というのは私にとっても、他人にとっても共通なものなのだから、言葉で表せないということは「この」とか「これ」と言って示す以外のことは出来ない。 私という言葉を使うこともできない。 独我論者は「私」という言葉を使っているけど、それは自己矛盾なのだ。 私的感覚なんて存在しない、感覚の私秘性も存在しない、私的言語も存在しない。 デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」と言って、外的世界の存在をいっさい疑い、絶対に疑えない確実的なものとして、私の思考を取り出し、私が思うことは疑えない、確実だといい、哲学を内省によって私の心に定位して、その心を真理の基準に据えたけど、ウィトゲンシュタインによれば、私とか心は「言語ゲーム」の中に入らないから、真偽の基準にはならないと言って、それを否定し、新たに「言語ゲーム」というコンテクストに真理の基準を求めました。 「独我論」はこのデカルトの私の心の存在は絶対に確実だという考えから出発し、それを前提にしているのです。 デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」と言って、私が思う以上、私の存在は確実で絶対に疑えないと言いましたが、そんなことはありません。 私の存在は疑うことができるし、存在しない可能性だってあります。 私が思うことで確実で疑えないのは、私が思っているということだけで、私の存在ではありません。 カントも言っています、 「われ思うからと言って、私が存在するとは言えない。それは単に私の思考作用があると言っているにすぎず、私の思考作用があるからと言って、私が存在するとは限らない」と。 デカルトはそれをよく知っていて、思考作用だけでは、私の存在は偶有的・蓋然的で、存在しない可能性があると思い、そのために「省察」の3章と5章で、必死になって神の存在証明を行ない、神が人間や自然を創造したといい、その神が私を欺くことはあり得ないのだから、私は絶対に確実に必然的に存在すると言いました。 つまり、神が存在して、その神が私の存在を保証しているから、私が存在するので、その神がいなかったら、私の存在は確実でなくなってしまうのです。 近代哲学はそのデカルトの私が存在する、私の心が存在する、その前提を引き継いで、私が存在する、私の心が存在することを自明な前提においていますが、決して自明ではないのです。 カントにとって、私の心とか自我が存在することは認識の成立にとって不可欠な「要請」だったからで、それがないと認識の成立を合理的に説明できなかったからにすぎず、カントにとって自我とか心は「可想的」なものでした。 つまりカントにとって、自我とか心は「超越論的な仮象」にすぎませんでした。 その「仮象」にしか過ぎないものを、私たちは現実に存在するものと思い込んでいるのです。 永井均の「独我論」を知りたかったら、かれの「<私>の存在の比類なさ」などの一連の著作を参照してみてください。
その他の回答 (1)
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
我々の見ている全ては、脳の中の現象である。 もちろん、それは“外の物”を映したものである、という 前提であるが、それを証明する絶対的手段はない。 その「脳の中の世界」に、さらに“自分(肉体)”があり、 通常それを自分だと考えるが、人は真の自分(の中)を 見る事は不可能である(見た=解体した瞬間に死ぬ)。 つまり、自分の外こそが真の自分だという事だ。 その「自分」の境界=感受表面(量子相互作用=光速)は、 外に空間(予測=未来=光速下)、内に時間(記憶=過去 =超光速)を分ける、時空の交点であり、相対性理論の 四次元ミンコフスキー空間における、時・空軸の虚数関係 において、その等距離点に生じる0の界面原点=仮想的 時空の広がりへの無の射影=階層現象表面的な定性化 (いい加減に捉える事)による「何かあるんじゃないの」と いう疑問として生じる宇宙を無に還元するものなのだ。 そこにおいて「他人」とは、そうした階層現象的プロセスの 射影として、「摂食=環境との物質循環」や「交配=遺伝子 に残された進化」、「社会=分業化による相互依存」といっ た自己存在の成立のための環境との相互作用の一環と しての、「自分のルーツの環境への射影」なのだ。 宇宙が、自己存在(肉体的自覚)の必要として対発生して いると言える時、その博愛に至る道標として他人はある。
お礼
精緻なご理論でのお教えに心より感謝申し上げます。 私自身としては質問の論文がどこのサイトからコピペしたのかを知りたかったのです
お礼
該博なご知見からのお教えを感謝申し上げます。