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なりたい自分とありのままの自分の違い
なりたい自分があって、ストイックに努力、向上しますけど、自己イメージが誇大(妄想ぎみ)的な感じもしますし、自己否定的な感じもします。自信喪失ぎみにも思えます。ありのままの自分がみえないように思えます。 これは私なりの分析ですけど、なりたい自分(ある種のユートピア)とありのままの自分の違いってなになんでしょう? 向上するからありのままの自分をわからなくなるというのは方向性に問題があり、結果的に非効率ということなんでしょうか?
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能力の問題と性質の問題を区別しなくちゃあきまへんなぁ。 能力問題とは、「100メートルをはしるのに20秒かかる」の様な例で、これは「100メートル15秒で駆け抜ける」ことが出来るよう能力向上を目指しても良い。 一方の性質の問題ってのは、例えば私の声と松たか子の声。これは全然ちゃうけど、私が努力して松たか子の声になるよう目指そうってのは駄目。無駄。 https://www.youtube.com/watch?v=cvj3-MZO9Tw 松たか子の「ありのままで~」を聞きながら良く考えましょう!
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「ありのままの自分」というのは、その一瞬、一瞬の「今、ここにいる自分」を指すのだと思います。よって、ありのままの自分になるとは、「今の自分をそのまま受け入れるということ」で、殊更否定も肯定もしないで、そういう行動も思考も生き方もあるんだと、自然体でいることを指すのだと思います。頭を使うよりも感性を大切にすることが「ありのまま」ということなのだろうと。 「ありのまま」の状態を赤ん坊に例えることはよくありますが、赤ん坊は誰に対しても策略も軽蔑もしないし、自分に対しての卑下も高慢もないですよね。 ですから、「ありのまま」というのは「初心」ということに限りなく近いと思います。 偏見や先入観を持たないで、ものごとの全体を見ることが「ありのまま」だと思います。 「なりたい自分」を思い描くのは良いけれど、それが「誇大妄想」になってしまうと、超人、別人を目指すということになり、病的なイメージがありますね。 骨太なのにバレリーナ体系になろうと過激なダイエットをするとか、英雄になりたいと考えて劇場型犯罪を起こすとか、熱狂的なファンでいるだけでは飽きたらず、本人になりたがってしまうとか…。 これらは願望に忠実ですが「ありのまま」の本来の意味とは違うと思います。 何故なら、その人は自分の現実を見ずに、現実をなかったことにしようとしている(鏡の中の自分を見ていない)からです。 その人の「ありのまま」が「欲望のまま」で「願望のまま」になってしまうと、挫折したときの反動は、周囲を巻き込むほどに大きな負の遺産になるんじゃないかと思います。 「意欲」という言葉があるぐらいですから、欲は人が生きていく上で必要なものですが、ないものねだりして、地団駄を踏んでいる状態は、仰る通り自分を見失っているということになると思います。 生まれ持ったDNAを無視して、それを捻じ曲げてでも…というのは「ありのまま」ではないですね。自分以外の何者かになろうとするということですと、「方向性に問題があり、結果的に非効率」ということになりますし、向上したと思えても、それは一時のことで長続きはしないでしょう。この人は本物だという言葉がありますが、それは志を全うすることが出来た人に対する称賛ですよね。本物になるには、並大抵の努力では成し得なかったことでしょうけれど、もし自分も他人も殊更に貶めたり、逆にものすごく理想化して見ていたら、本物と言われるような一目置かれる好人物でも、きっと何処かで挫折して、その他大勢として別の道を歩むことになったのではなかろうかと、そんな風に思います。ものごとに向かうとき「ありのままをみる(素直な気持ちで全体を見る)」ということを忘れないでいたから、成し得たのだろうと。
お礼
なりたい自分って個性化ですもんね。目立ちたいなんて近い感情なんでしょうね。 ストイックに努力していく大物か病的かは確かにわかれると思います。善い目標なら実現していけばいいんですけど。文章を拝見して一時期という解釈ってたとえ実現しても感性で違っていればなんでしょうね。 おっしゃるとおりでありのままと願望は違いますね。願望って衝動的で。ありのままってもう一度見直そうですよね。 感じるのも心ですよね。 ご回答ありがとうございます。
なりたい自分が妄想じみてるとしたら、「ほんとうはなりたくない」か 「なれると信じていない」のどちらかです。 本気でなろうと思っているなら、そのための具体的な努力をしてるはず。 妄想ではなく、目標になってるはず。 ご自分で妄想だと思っているなら、それは妄想して「アハハこうなったらいいよねぇ」で終わるものです。 方向性が間違っているか否かはそれが妄想か目標かによります。 妄想の場合、差を埋めようとしても、あなた自身が「どうせ埋められない」と思っている以上、非効率どころか無駄です。 目標でそれに必要なことをしているなら、信じている分、モチベーションも高いですから、効率的と言える。 そして、そのプロセスも楽しめます。
お礼
なりたい自分ってジェンダーから言葉を借りると構築的でなれるかもしれないですけど、頭の構築的な自分とも。 なれたとしても心の本質的な自分って別にあるように思えまして。 ご回答ありがとうございます。
自己同一性(現実・現在の自分と、内面における自己イメージの整合性)の実現という面から考えると、仰る内容は自己同一性の齟齬で、人生で何度も起こることだろうと思われます。自己同一性が不安定だと、自分がどういう存在か分からなくて不安といったことを含め、さまざまな悩みが生じます。 自己同一性の実現の問題は、全般的な傾向として、まず思春期後半(高校生の時期)で起こります。思春期前半(中学生の時期)まででは、現実の自分といったことをあまり気にしない傾向があります。思うがままに夢を膨らませている、といった感じです。それが、思春期後半になると、現実の自分との落差を意識するようになります。 膨らませていた夢の中には理想の自分がいるわけですから、現実の自分よりも魅力的です。そうなれないことに焦ったり、自分が非常につまらない存在に思えたりします。思春期が終わる18歳頃になると、おおむね折り合いがついてきます。理想は理想として、実現可能性や実現のためのプランといったことを合わせて考えられるようになります。 とはいえ、18歳の頃に思ったイメージやプラン通りに、その後の人生が進むわけではありません。理想自体も変化します。例えば、仮に理想をいったん実現できたとしても、さらに先、あるいは別のものを望むのが普通です。逆に理想と思ったことが、実はつまらないことだと学ぶことも起きます。そのたびに何らかの解決をするわけですが、それを「向上」と呼んでいます。 理想の可否、実現可能性、実現するためのプランといったことを考えるには、現状の自分を分析できなければ不可能です。ゴールだけを設定しても、スタート地点が分からないなら、ルートも所要時間も分からないわけです。 ところが、自分の現状認識を正確に行うのは極めて難しいという問題があります。シャカが修行の末に得た悟り、あるいは孔子が70歳にして到達した境地であれば、おそらくは大した間違いもなくできますが、我々のような普通の人間には無理です。将来的なプランを含む以上、一種の未来予知のようなものでもありますから。 「だいだいこんな感じだろう」という程度で妥協して、それでとりあえずやってみて、うまくいっているうちはそのまま、何かおかしければ見直し、といったことになります。ありのままの自分が分からない、というのは誰でも常に抱えている問題です。何かがうまくいかないときには、顕在化もします。 自分のことが分からないのは、特におかしなことではありません。それは「一寸先は闇」といったような、先の事が分からないのと同じようなものです。分からないということを意識できないときには向上はありません。分からなくなるということは、よいチャンスであるといえます。
お礼
世の中、新しい事象があったり、新たにわからないことはおこります。 折り合いって大事ですよね。 何事も思い通りなんてないですので。 理想は変化するというのはわかります。 ご回答ありがとうございます。
- disciple777
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理想が大きければ簡単には実現しないですよね。 多分変わっていっているのですが、自分にとっては当たり前なので、成長がわからないのでしょう。 目標は自分の牽引車ですから、差があっていいのだと思います。
お礼
日々、いろんなことを学んでます。変化もよい悪いがあるので常に正しいことを学んでいるとは世の中そうではない場合もあり、ですが。 精神の力動的には確かに進んでいたりはするとは思います。 ご回答ありがとうございます。
お礼
シンプルで分かりやすかったです。 能力は向上しても性質は変わらないですね。 ご回答ありがとうございます。