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シャルリエブドの表現について

シャルリエブドでの殺人はもちろん非難されて当然です。 が、シャルリエブドがイスラム教に対して表現してきた内容と、いわゆるヘイトスピーチとはどのような違いがあるのでしょうか? 私には大差ないように感じられて、その意味ではシャルリエブドを全面的に擁護すること;私はシャルリなどとは言うことに違和感、むしろ嫌悪を感じるのです。

みんなの回答

  • hanak00
  • ベストアンサー率7% (10/126)
回答No.8

「可哀想だから止めて。」と言えば良い。

  • r5305
  • ベストアンサー率28% (34/118)
回答No.7

言論の自由にも一定のルールが必要なのは言うまでもないですよね。 福島原発事故の際に描かれた本腕や3本足の力士の風刺画、あれもフランスでしたね、たしか。 日本人には理解しがたい下劣な表現でした。 ただ、どの程度まで表現を自粛すべきかは、非常に難しい問題と思います。 今回の一件は、イスラム教に絡んだ表現だったから問題になったわけです。 これがたとえば、キムジョンウンやオウムの麻原彰晃だったら、ほとんどまったく問題になりません。 しかし、キムジョンウンも麻原彰晃も、彼らを熱烈に信望する人たちがいるわけです。 信者の気持ちに配慮すべきというなら、教祖とかリーダー的地位にいる人は、たとえ犯罪人であっても、すべて風刺画に描くべきでないということになるでしょう。 逆に言えば、麻原彰晃の風刺画が許されるなら、マホメットの風刺画も許されるべき。 イスラム教に特別な事情があるからといって、イスラムの表現だけを特別に自粛するのは、他のものに対する差別です。 いっそのこと風刺画そのものを禁じる方法もありますが、そうなると政治家の風刺もできなくなります。 信仰の対象だけ風刺画を禁じる方法もありますが、政治家など個人であっても、その人を信望する人にとっては信仰の対象となるわけですから、その色分けはほとんど不可能です。 ちょっとややこしいことを書いてしまいましたが、要は、表現の自由を尊重しながら、部分的に表現を制限するのは意外と難しいということです。 もちろん、行き過ぎた表現が非難されるのは当然ですが、「最初から描かせないようにする」というのはなかなかできません。 これは、表現の自由を尊重する民主主義を選択した社会においては、宿命かもしれません。 ちなみに、ヘイトスピーチも風刺画も批判的な意思表現と言う意味では共通点がありますが、憎しみや差別の意識をストレートに表現するヘイトスピーチと、暗に示すことで嘲笑を誘う風刺画では、攻撃性においてかなりの差があると思います。

  • neatkn
  • ベストアンサー率44% (44/99)
回答No.6

『シャルリエブドがイスラム教に対して表現してきた内容と、いわゆるヘイトスピーチとはどのような違いがあるのでしょうか?』 ⇐『シャルリエブドはマスコミ』で『ヘイトスピーチはマスコミによるものではない』という違いでしょう。   マスコミにとっては、『シャルリエブドに非がある』と言う事になると、自分たちも批判や風刺をしにくくなるから、『<シャルリが正義!!>という世論を作り上げる必要がある。』のでしょう。 でも、こんな『マスコミサイドの都合』により、『マスコミに都合のよいルール』が『マスコミによって作り上げられる』と言う事が許されるのでしょうか!?

  • ueda21
  • ベストアンサー率15% (82/542)
回答No.5

ヘイトスピーチは人種など本人がどう頑張って変えられないものを論理的理由がなく攻撃するのです。 しかしシャルリエブドは、政治家とか宗教家の行動を批判しています。これは変えられます。なので違いはあると思います。 またヘイトスピーチは、対象の前で暴力的発言が顕著です。死ねとか出てけとか シャルリエブドは広告収入に頼らない新聞で6万部と少なく廃刊も噂される状況です。 彼らの批判の対象は権力とか権威です。 なので政治家とか官僚とか大手の宗教が対象になります。古くはヒットラーからローマ法王まで多くの権力者や権威に対して批判的です。 嫌いとか不快ならその新聞を買わなければ良いのであって、大手のマスコミは自分で言えない批判をそれを利用して報道する根性なしです。そして火に油を注いています。 現在批判対象がイスラムだけという誤解が流れていますが、冷静に注意深く情報をみる必要があります。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.4

"シャルリエブドがイスラム教に対して表現してきた内容と、 いわゆるヘイトスピーチとはどのような違いがあるのでしょうか?" ↑ ヘイトスピーチが悪いとされるのは、それが 人間の本質を攻撃するからです。 つまり、人種はその人を構成している要素であり かつ、本人ではどうしようもありません。 そういうモノを攻撃するのは、その人の否定になるので 許されない、ということです。 そして、信教の自由もしかりです。 何を信仰するかは、その人の本質の問題です。 信仰を攻撃するのは、その人の否定になるのです。 だから、基本的には同質と言えます。 ”シャルリエブドを全面的に擁護すること;私はシャルリなどとは  言うことに違和感、むしろ嫌悪を感じるのです。”       ↑ 全くです。 あれは、表現の自由にかこつけて部数を稼ぎ、金儲けを しているだけです。 キリストをからかわれたら、彼らだって気分が 悪くなるでしょう。

  • 23tomo-u
  • ベストアンサー率27% (433/1565)
回答No.3

世の中の半分くらいの人は そう思っているんじゃないですか。 当のフランスは別として。 各国の新聞でも問題となった風刺画を 掲載するか否か対応がわかれてるじゃないですか。 フランス自体もこのタイミングで、 イスラム国の空爆参加ために 空母を派遣しましたよ。(ニュース参照) ペンは剣よりも強し。 この考えを守るためなら武力攻撃もいとわないのでしょう。

  • angkor_h
  • ベストアンサー率35% (551/1557)
回答No.2

貴方の御意見に賛成です。 言論の自由とは言っても、それが人を傷つけるならば、それは自制する(される)べきです。 暴力とは物理的な力だけではなく、言葉も精神的暴力になり得るのです。 フランス人には、イスラム教の方々が受けた屈辱感を理解(認識さえ)できないのかと思います。 人の親(或いは子)を侮辱していても「ジョークだよ。発言は自由だ。それがフランスだ」と言う感覚なのでしょう。 この「わからずや感覚」が一部の過激派に「報復殺人は正当」を理由付けさせてそれを挑発した結果、と、個人的には思っています。 某国安倍心臓首相は、靖国参拝で周辺国を刺激して緊張を誘発し、その緊張発生のために国軍が必要だとし、集団的自衛権で先手が打てるように(これが積極的平和)、…。 これは本事件とその背景の自作自演版、と言って良いでしょう。

回答No.1

>シャルリエブドがイスラム教に対して表現してきた内容と、いわゆるヘイトスピーチとはどのような違いがあるのでしょうか? シャルリエブドは「キリスト教が正しい」という、何か勘違いした上から目線で、イスラム教・イスラム教徒を冒とくしています。一方、「ヘイトスピーチ」のうち、「死ね」とか「自殺しろ」というのは明らかに言ってはいけない言葉だとおもいますが、日本及び日本人にたかりながら反日活動をするような朝鮮人に「半島へ帰ってください」というのは、至極当然なことであると考えています。こういう言葉まで「ヘイトスピーチ」とされるなら、それは言論の自由に対する挑戦であると感じます。 >私はシャルリなどとは言うことに違和感、むしろ嫌悪を感じるのです。 私も感じます。全く同感です。ムハンマッドを「風刺」する意味など全くありません。それはイスラム教徒に対する挑戦です。一方、南鮮人の大統領は天皇陛下に「南鮮に来たかったら土下座しろ」と、全く見当はずれのことを言って、南鮮人にアピールしようとしました。この様な人種を、他の友好的な人々と同列に論じることはできません。天皇陛下に来てほしければ、南鮮人こそ土下座すべきですが、私はそれでも天皇陛下など行くべきではないと考えます。南鮮人に甘い考えを抱いて油断していると、それこそケツの毛までむしりとられます。一方、北鮮人は罪もない日本人を拉致し、拉致された方やその家族の人生をめちゃくちゃにしましたが、謝罪の言葉すらないばかりか、のらりくらりとこちらの要望をはぐらかし、金品の要求までしています。朝鮮人には要注意です。

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