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神社(或は鳥居)は南向きなんでしょうか?
- どこかのサイトで神社(或は鳥居)は南向きだとか書いてあったと記憶しております。
- 千葉県の半島は安房と呼ばれています。これは四国の阿波に通じるのでしょうか?そして安房神社がありまして阿波から由来するという内容が書いてあります。西や南から、関東や江戸、或は千葉などに来る交通の要衝だったのでしょうか?
- 葛飾にhttp://www.tesshow.jp/katsushika/shrine_tateishi_kumano.shtmlという神社があり、鎌倉からの江戸への基点だという話もあります。ここの鳥居と本殿は南向きで大きな川に向かっています。神社は水路、海路の要衝の地点だったのでしょうか?
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こんにちは。 >>1. どこかのサイトで神社(或は鳥居)は南向きだとか書いてあったと記憶しております。 これは大体においてそのとおりなんでしょうか? 以前、何かのサイトでお話をしたことかあると思いますが、「天子は南面す」の権力の象徴として、神社は一般的に「南向き」または、「東向き」で、これは、天照大御神の太陽神を源とすることから、太陽の動きに合わせて南向きや東向きが多いとされているようです。 しかし、検索してみると「北向き」などの神社も結構あるようですね。 http://www.eonet.ne.jp/~nunose/009kosya28.htm https://www.ookunitamajinja.or.jp/mame/q02.html それぞれに謂われがあって、北向きになったようです。 まだまだ探せばあるでしょうね。 2. 千葉県の半島は安房と呼ばれています。これは四国の阿波に通じるのでしょうか? そして安房神社がありまして阿波から由来するという内容が書いてあります。 西や南から、関東や江戸、或は千葉などに来る交通の要衝だったのでしょうか? すみません。この答についてはWikipediaの記載をそのまま添付します。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%88%BF%E5%9B%BD 大いに関係有ですね。 >>3. 葛飾にhttp://www.tesshow.jp/katsushika/shrine_tateishi_kumano.shtmlという神社があり、鎌倉からの江戸への基点だという話もあります。ここの鳥居と本殿は南向きで大きな川に向かっています。神社は水路、海路の要衝の地点だったのでしょうか? 全国の熊野神社の総本山は、やはり、熊野三山です。 那智の滝などで有名なように、水神を鎮めるのが起源ではないかとされています。 従って、河川や池、滝などの鎮守とされてきたのだと思います。 そして、転じて「農耕の神様」としても崇められるようになったと考えます。 下記のURLなどにそうしたことが窺えます。 http://12so-kumanojinja.jp/page-01.html >>4. 茨城の鹿島灘にも鹿島神宮があります。これもやはり関東への交通の要衝の地点だったのでしょうか? 霞ヶ浦を挟んで香取神宮もありますが、鹿島神社とともに創建は古く、神武天皇の時代とされています。 両宮とも霞ヶ浦の入江付近に利根川を軸として対座している。 「延喜式(神名帳)」(えんぎしき・じんみょうちょう)で伊勢神宮は「大神宮」と呼ばれ、その他に「神宮」と明記されているのは、鹿島神社と香取神宮だけとあります。それほど権威があった、と言うことでしょう。 鹿島神社には武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)を祀ってあり、香取神宮には経津主大神(ふつぬしのおおかみ)を祀り、両神は春日大社の祭神四座に入っている。 当初は、鹿島、香取ともに物部氏(もののべし)が武神として祀っていたといわれています。 鹿島は東北地方への古代の軍港であり、物部氏は霞ヶ浦を拠点とする「水軍」の首領だったといわれています。 しかし、六世紀後半に大和国で勃発した物部氏と蘇我氏の抗争で物部氏は敗北をし滅亡すると、その隙を狙っていたかのように、第三者であった中臣氏(なかとみし)が当地を治めるようになった。 おっしゃる通り、交通、航海、そして、武勇の神様として、中世では源頼朝をはじめ多くの武士から崇拝されたという。 なお、鹿島、香取の宮司は代々中臣氏が就任することとなっているとのことです。 また、藤原良継(よしつぐ=中臣氏の一族)が病の時、 「我らの氏神である鹿島神社に正三位を、香取神宮には正四位上を叙す」 と言ったところ病が平癒した、とも言われています。(続日本紀)
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1.神社の向きは特に決まっているわけではありません。 都の南の門を正門扱いするのは、風水など中国からきた習慣です。 君子南面す、と言って王が南向きに座るのも中国から渡来した習慣です。 これとごっちゃになって南向きが多いという傾向はあります。 山やあるいは厳島神社のように島をご神体とするようなケースも多々あり、その地域の地形によりけりです。 2.千葉県のある半島は房総半島です。安房はその半島の先端部分です。 房総半島全域と和歌山県や徳島県と共通点がある訳ではありません。 房総半島の太平洋側の地名に南紀地方と同じ音のものがあることは古くから知られています。 突端の安房は、日常習慣にも上総下総とは異なり南紀地方と類似点が沢山あります。 うつぼを食べる習慣も共通しています。 海女による潜水漁も共通しています 黒潮による文化の伝播の傍証と考えられています 四国の阿波との音の共通性については、四国阿波の斎部氏が移住したことによるという説がありますが定かではありません。 尚、半島の先端部分が上総国から分離独立して安房国になるのは天平宝字元年(757年)以降です。 房総半島の突端の海域は風向きと潮流の変化が激しく明治時代までは航海の難所でした。 交通の要衝であったことはありません。 潮流の安定する銚子岬以北の鹿島周辺から霞ヶ浦、利根川を経て関東内陸部へ往来していました。 江戸湾(現東京湾)へ入るには伊豆半島突端の下田付近から直行しました。 日本武尊も三浦半島から走水(浦賀水道)を渡るのに難儀しました。(弟橘比売伝説) 3.葛飾というのは千葉県北西部から隅田川までの広い地域の名称でした。 葛飾の中心は現在の市川市にある国府台でした。 総社である葛飾八幡宮は市川市にあります。 江戸川の西を葛西、東を東葛と呼びます。 葛飾区は1943年以降に付けられた名称です。 歴史の話題の場合には葛飾区と葛飾を使い分ける必要があるというややこしい話になっています 葛飾という駅名も以前千葉県内にありましたがややこしいので止めてしまいました。 立石という地名といいますか場所は非常に古くからの場所です。 旧中川に隣接していますが水路の要衝というわけではありません 古墳などがあった自然堤防(砂州)の上の土地です。 隅田川と江戸川に挟まれた地域は広大な湿地帯でした。 この湿地帯のところどころに砂が堆積した砂州がありました。 古墳時代にはこの砂州の上に人々が住んでいたことが知られています。 立石様|立石地名の由来となった奇石、葛飾区立石の観光名所 www.tesshow.jp/katsushika/sight_tateishi_tateishi.shtml 現在の立石周辺の京成線がやたらに蛇行しているのはこの地盤の固い砂州をつなぐように線路を敷設した為です 鎌倉と江戸云々は鎌倉時代以降の話です。 律令時代に関東東部を横断する街道がありました。 現在の千葉県市川市に下総の国府があり、現在の東京都府中市にあった武蔵の国府をほぼ直線状に結んでいました。 古代の東海道は平塚付近から北上して武蔵の国府へ向かっていました。 そのころの江戸はひなびた漁村でした。むしろ隅田川河口に開けた浅草が発展していました。 浅草寺の創建も645年大化の改新と同じ年です。 鎌倉時代も江戸は単なる寒村でした。 室町時代以降に葛西地方を拠点としていた江戸氏が現在の皇居の位置に砦を設けました。その砦跡に太田道灌が入り後に家康が入りました。 江戸に人が頻繁に往来するようなるのはそれ以降です。 江戸時代以前には江戸と浅草は別ですので注意して下さい。 関東地方には鎌倉街道と呼ばれた道が沢山ありました。 (現在も通称として残っている道もあります) 関東地方の地点の来歴にはよくこの鎌倉街道がでてきます。 江戸時代には立石周辺は江戸市中とはされていませんでした。 立石が周辺地域から江戸あるいは鎌倉へ向かう起点だったということは充分考えられます。 4.鹿島神宮というのは近くの香取神宮と並んで極めて古い神社です。奈良の春日大社もこの鹿島神宮から招聘したものです。 奈良公園名物の鹿もこの鹿島神宮の神様(武甕槌)が鹿に乗って春日の地へ移ったことに由来しています。 関東の交通の要衝と言うよりも、大和朝廷よりも古い有史以前からの土着の神社と考えられたほうがよろしいでしょう。 蛇足 村落神社の発達を交易と結び付けてお考えのようですが、交易が人々の生活の主体となるのは室町時代以降です。 人々の往来に伴って集落が発達するのは江戸時代以降です。 その土地々々で農耕や漁労を主体としていた時代の方が遥かに長いので注意して下さい。 現在の都市の発展と混同されないように注意して下さい。 個々の地域や遺跡を考える場合には時代に応じて考えませんと誤解や混乱が起きます。 黒潮による文化の伝播については下記のような動画がありますので一度目を通してみてはいかがでしょうか NHKオンデマンド 日本人はりかな旅 第1集~第5集 (有料なのでやや抵抗感があるかもしれません)
お礼
ありがとうございました。該博なお講義で通年4単位の授業に匹敵しますね。 今までの曖昧な知識が整理されてくる思いです。 何度かアクセスして勉強を重ねます。 まったく門外の領域ですので、時間がかかります。 自治体(葛飾区)の主催の勉強で関心を持ち始めたことなんです。
お礼
早速のご解答ありがとうございました。 自治体のイヴェントでの勉強からの関心でしたが、やはり奥が深いですね。 何度も読み直し勉強します。でも錯綜していた知識がだいぶ整理されてきました。 法制史や法哲学のことにのめり込んでいた青年時代から、古稀をこえて漸く日本史に目が向いた程度でして。 喜寿を迎えますが素人の早飲み込みを何度も改めさせられています。