- ベストアンサー
学会活動をしていた人が離婚しました
- 知り合いの人が離婚しました。お子さんもいて、創価学会員として学会活動を熱心に行っていましたが、奥さんの反対で説得できなかったようです。
- 彼は人当たりがよく、仕事にも真面目で学会の精神である「人の3倍努力」を実践していました。しかし、一生懸命な活動が離婚を招いた理由については不明です。
- 彼は多くの学会員からの励ましを受けながら、学会活動を続けています。信心を持っている彼にとって、抜け出すことは自分の人生を否定することとつながっているようです。
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
そこが、学会員が抱える一番の矛盾点かも知れません。 熱心にやれば願いは必ず叶うというのが前提にあって、そのために粉骨砕身頑張るんだと思いますが、願い通りにならないことも多々あります。 傍から見れば、一生懸命やった結果がこれなの?と思うかも知れませんが、当人からしたら“まだまだ熱心さが足りなかった”という理由を見つけて正当化せざるを得ないのかも知れません。 信仰を否定することはできませんから、自分の中で都合のいいように理由を見つけて消化するのかも知れませんね。
その他の回答 (5)
- titelist1
- ベストアンサー率25% (712/2750)
創価学会は日蓮宗の分派の日蓮正宗の一派だったのです。過去に両者は喧嘩別れしています。日蓮正宗は法華経の信仰よりも日蓮の個人信仰と言えるのです。それが池田大作の個人信仰にすりかわったのです。自分の苦難は日蓮の法難に喩えられ信仰心をより強くする試練と考えるのです。試練が大きければ大きいほど信仰が深まると考えるのです。このよな考えはキリストにもイスラムにもあります。また日蓮宗があの世の極楽浄土ではなく現世ご利益を願うので、社会や政治に関心を持つのです。 私は家の宗派が日蓮宗なのですが、日蓮よりも法華経に興味があります。創価学会には嫌悪感を感じます。仏の教えの心理は法華経の中にあります。
お礼
あくまで個人崇拝の形をとっているのは 心から敬愛できる、指導者だから と 学会員の人は言うでしょうね 試練という解釈は、自棄を起こすより、一見前向きでいいですけど、 別の見方からすれば、おめでたい人だなと思わざるおえませんね
- treow
- ベストアンサー率15% (14/92)
No.3です。 彼らは、自分自身を肯定したくてしょうがないから、 要するに、目の前にニンジンがぶら下がっているから、 なかなかやめられないだろう、と思います。
お礼
それが幸せならばしょうがないですよね 会合・座談会で何を得ているのでしょうか? 貴重な休みをつぶしてまで
- hyakkinman
- ベストアンサー率16% (738/4426)
★洗脳されている人間の心理として… 「ここで、折れてしまったら、これまで一生懸命やってきた自分の人生を否定してしまうのが怖くて、今更抜け出せないのかな」としか見えない。 これ、違います。 身の回りでおきるすべての出来事を、プラス思考で受け止める【心のゾンビ】です。 【強く信じるもの】がある彼らは、人間の域を越えていますから、 常識人には、理解できません。 悪い出来事は、すべて自分を成長させ、幸福な気持ちになるための試練にすぎないのです。 彼ら洗脳者の辞書に「折れる」という言葉はありません。 放っておいても、ひとりで勝手に立ち直ります。 洗脳ほど恐ろしいものはありません。 あまり、深入りしませんように。 以上、幽霊学会員からの忠告でした。 私は、人を変えてしまう【宗教洗脳】が許せません。
お礼
超ポジティブの行き着く先なのかもしれませんね 結局、輪廻転生ありきの考えですし、 人生での困窮は宿命である と考えるわけですから、自分の人生でどんだけつらいことがあっても、 これは宿命なのだ、前世で体験しなかったことを現世でやらなければならないことなのだ と解釈できちゃうわけで、どんな不幸があってもそれに耐えていることが幸せってことになっちゃうからこそ、ポジティブなんですかね
- treow
- ベストアンサー率15% (14/92)
自分自身の存在を肯定したいからだと思います。 要するに、自分がかわいいから。 彼らがいつも他人を否定して、自分たちを肯定するのは、そういう理由だと思います。 自分自身のために活動しているのであって、 他人のために活動しているワケではないからでしょう。
お礼
しかし、自分を大事にしたいのならば、 自由な時間が欲しいと思わないのですかね 彼らにとってはその時間を学会活動に費やすことで自己愛に浸れるのでしょうか?
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
”「ここで、折れてしまったら、これまで一生懸命やってきた 自分の人生を否定してしまうのが怖くて、今更抜け出せないのかな」 としか見えないのですが、そんな感じで続けているんですかね?” ↑ 少し違うと思います。 ああいうひとは、信仰第一に考えます。 何事も、信仰に合うように解釈します。 こんなに懸命にやっている俺が不幸になる訳がない。 として、何とかつじつまを合わせようとするのです。 そのつじつま合わせの一つとして、最適のパートナー ではなかった、ことになるのです。 知り合いに某宗教の信者さんがおりますが、身内に 不幸があると 「まだ信仰が足りないのだ。信仰を試されているのだ」 となって、ますますのめり込みました。 つまり、何がどう転んでも信仰に合わせて理解して しまうのです。
お礼
「信仰を試されている」はありそうですね 「ピンチの時こそチャンス」だみたいな事も言っていましたし
お礼
その通りですね 目標を掲げて、それが達成できなかったら 信心が足りないorむしろ良い方向へ導かれた的な解釈をしているのかもしれません 結局は生まれや・育ち・素養・運など様々な要素によって人生が決まっている様は学会員でもなくとも同じのではないかと、活動をしている人を見ると悲しくなります。