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創価学会の方に聞いてみたいことが・・・
インターネットで学会関連の動画ってたくさんありますよね その中でウェイン・ショーターという有名なサックス奏者の方が信者として紹介されてました その方はお子さんが小児麻痺かなんかの病気で、その事に悩み学会に入信したということでした 結局、お子さんは14歳で亡くなったんですが、お子さんは信心を通して教えてくえたことがあるそうです。それは、「人には使命があるということ」。お子さんがこの世に生まれてきた使命とは、ショーター夫妻を創価学会へ導くために生まれてきた、ということらしいんです。 しかし、創価学会の信者の目的として、「目標が信心で必ず叶う」という事で活動されていますよね だったら、当然親としては「子供の小児麻痺が治ってほしい」と信心するのではないでしょうか? 私が親だったら、当然「子供の小児麻痺が治ってほしい」と信心しているでしょう。子供が14歳でなくなってしまったら、「奇跡が起きるって聞いたからやってみたけど、子供死んじゃったじゃないか!」という気持ちで信心に対する疑念がわくと思います。 だからといって、医者に見離されたのに「寿命が延びた」「症状が改善された」などのケースをよく「信心の成功例」として取り上げています そこになんだか矛盾を感じざるおえません 創価学会の考え方って たまたまうまくいったことに「信心のおかげで奇跡がおきた」と解釈し、 どうにもできない出来事に対しては「これは宿命で信心が叶わなかったのではなくて、意味があること」と解釈しているように思えます 学会の方は日蓮聖人の教えを深く日々勉強されているでしょうから、こんな浅い解釈ではないと思うんでしょうが、どう思いますか?
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創価学会の元理事長、和泉覚の体験から行くと 古い話ですみませんがね 太平洋戦争中、陸軍将校だった和泉さんは 南方戦線で作戦行動中、前線への斥候を命じられます 本人はこのときの命令で死を覚悟しました しかし、戦闘に巻き込まれること無く終戦後復員します 部隊は、和泉さんが出発後墜落米軍機の捕虜を収容 虐待、処刑が問題となり、部隊上層はBC級戦犯として死刑になりました 本来であれば、和泉さんが将校なので責任者として処刑されるところを 斥候で部隊を離れたことによって免れたということです このように、一時的には悪いことがあっても 最後まで信心を続けていけば必ずよいことがあるということです これ以上は、NET上だと説明するのは難しいのですよね 質問のような話だと もともと日蓮大聖人の文章の中にも 信心でうまく行くかどうかは自分の信心だから 私(日蓮大聖人)が悪いのではないといっているし じゃあ、何で信心をしているのかという部分では ショーターがどう思っているかは知らないですけど お子さんが亡くなるまでに、そう思う何かがあった としかいえないですね 後、奇跡という部分で考えると 私たちが信心をしている意味は 自分の可能性を信じることで 可能性を引き出すために活動をしている その中で、病気を治す方向でも祈念をしている 要は、奇跡といっても自分で起こすものだということです その中で、不幸にもお子さんが亡くなったとして その中で、自分が何かを起こす力があると感じ取れたから お子さんが亡くなった不幸を補って余りあると思ったのでしょう
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- aerialis
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創価学会員ではありませんが。 創価学会に限らず宗教全般に言えることだと思います。 天災という字からしてそうですが、災害を神が与えた試練だの罰だのって発言はしばしば目にします。 宗教とはそういうものですよ。
- arg46496
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創価学会とは価値を創造する人々の集まり。 生老病死といった人間である以上避けては通れないものを、いかに価値的に創造するかが信心です。 いかに生きるか、いかに老るか、いかに病気と向き合うか、いかに死ぬか、 日本じゃなくてアメリカでフランスでアフリカで生まれたかった、今の親より裕福で地位や名誉ある親の方が良かった、いつまでも若く、病気にならないで長生きしたい。と言っても思ってもそれはどうしようもない事ですし 信心してようが信心していまいが全ての人に起こる事です。その中で日々価値的に幸福になるかが信心をしてる意味が有る訳です。 死は避ける事が出来ない、ましては子供の死なら尚更です。それに向き合う乗り越えるのが信心です。そしてそこから価値を見出すのが信心なんです。
- torunet0
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27歳 男の学会員です こういう回答はかなり長文になる為読むのがしんどくなるのですが回答させていただきます。また私個人の意見です。 僕もあまり熱心なほうではないのですが、質問者様も色々な人生経験されてきたかと思いますがうまくいかなかった事もあるかと思います。 僕もそうですし、生きている以上みんなあるのではないでしょうか。 日蓮大聖人の有名な教えで過去世(前世)、現世、未来世があって過去の悪い行いを現世に出てくるという教えがあります。それの過去の悪い行いを軽減する為に信心し、よい行いをして未来世に行くという教えです。 なのでそのサックス奏者の方が本気で信心しておられるのであればそこに築くので、死んだことは少年にとって悪いことではないし、そういう考え方を自分たちにおしえてくれた子供は未来世で幸せになれるとサックス奏者の方が理解できたからあまりそういう気持ちにならないのではないでしょうか。 病死した子供は何もいえませんのでそういう考えが創価学会で勉強されたのであればサックス奏者の方にはよかったと思います。 確かに本気で日蓮大聖人の教えを信心している(まだ完璧ではないと思うのであえて創価学会=日蓮大聖人の教えとは書かないようにします。) 人はその人の願いは叶うのは間違いありません。 しかしそうでない人も大組織の中ではいるので叶わないと感じる人もいるのです。 これも本気で信心している事が前提ですがその願いが叶わないほうが後には幸せになれる願いは叶いません。 なので質問者様への回答としては質問者様の考えに加えて(これは宿命で信心が叶わなかったのではなくて、意味があること)本気で信心していればどうしてそうなったのかに気付けたり、結果を理解できるのでよい人生経験ができたと解釈できるのだと思います。
お礼
確かに、結局考え方なんですよね >>願いが叶わないほうが後には幸せになれる願いは叶いません。 という、記載して頂いた点にも象徴されていますが、みんなが願ったことがすべて叶っていないと思います。もちろん本気に信心して行動していないから、叶わないのかもしれません。それは宗教関係なく、人間として本気で考え本気で行動しているかどうかで、物事の達成に影響が出るでしょう。 こういう学会の解釈に対して、異議を論じたくなるとき自分にいつも問いかけます 「じゃあ、ショーター夫妻が信心に対して疑念を持つようになり、 それどころか、子供が亡くなってしまったことに対して、ただ若くして命を落としてしまい、尚且つ人生そのものが病との闘いで終わってしまっただけの虚しいものだったとしか考えられなくなって、うつ病などの精神疾病を起こし、そのまま荒れ果てた心で生きていくことに比べたら、良いことなのにケチをつけたいだけなの?」 と やはり、霊感商法などの詐欺が事実としてこの世の中にあったりするので(創価学会がそうだとは思ってませんが) ドライな目で宗教に対して捕らえたくなるんですよね。 だまされてたまるかという気持ちが、創価学会の方からしたらある意味心の豊かさを失う原因になっているのかもしれません 浮世離れした考えなのか、それとも豊かな心を得られない原因なのか、難しいところです
私は学会員ですが、貴方の言う通りです。私が入らされた時(今、会員ですが全く信じてません)近所で家一軒が丸焼けになる火災がありました。たまたま火災の後、私を誘った古い学会員に言ったらあそこは学会じゃないと。間違い無いと言うと学会員だから一軒だけで済んだって勝手なことばかり。学会に入信したから曲がんなかった腕、足が治った。などと。自分で思うのは勝手ですが、それを他人に押しつけるのはまずいです。
お礼
ちょっと文章がわからない点があるんで、補足して頂きたいんですが 全焼の火事があって、最初は学会員の家じゃないと思っていたときには 「学会員じゃないから火事という不幸に見舞われたんだ」 と言ってて、 後から学会員の家だいうことが判ると 「学会員だから一軒だけで済んだんだ」 って、古い学会員さんが言ったってことですか?
- shubal
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ウエイン・ショーターさんのお子さんは、亡くなるべくして亡くなったのですよ。お子さんは亡くなることで、ショーターさんの心の奥深くにある願いは聞き届けられたんです。人間が生きているということはどういうことなのか、ショーターさんは学ばれたのです。人はいつか別れなければならないこと。人はいつか死ぬということをショーターさんの心に訴えて逝かれたわけです。この世での成功は世界に善を施すために必要ですが、死も決して悪いことではない。死は終わりではないのです。人間は永遠に生きている。だから私たちが目の当たりにしている「死」は、実はひとつの区切りでしかない。私たちは永遠に生き続けるのです。さまざまな生死のドラマを懸命に演じながら。 こんな説明でどうでしょうか? 創価学会の方がいたら、添削してください。
お礼
確かに、そんな感じかもしれませんね 魂の輪廻というのが教えでありますから 本気でそう思えたら、お子さんの死も受け入れられて、良いことではあると思うんですが
お礼
なるほど まあ、不幸を嘆いて犯罪を平気で起こす反社会的な人間が育つより、人からみたら、不幸な境遇でも自分の人生が幸せに捕らえることのできる、人生の価値を創造できるのはとても良いことですよね。 しかし、学会の方っていつも自信満々で勢い良く 「信心すれば願いが叶う!」 とか、いつも言ってるイメージがあります 宗教の勧誘をするときに 「われわれの宗教は基本的には自分の願望・目標を達成するために、前向きに行動する心を人同士の交流で育むことを目標としています。ですが、必ずしも目標が叶うわけではありません。たとえば孤児で生まれ、お父さんとお母さんのいる家庭に生まれなおしたい、と言ってもそれは無理な話。この世の中にはいろんんr理不尽なことがありますよね。でも、そこで落ち込んでしまっていたは何も得ることはできません。ですから、目標が達成できないことがあっても、そこで腐らない心を育てる為の教えもありますから、目標が達成できても・できなくても幸せな気持ちになれる信心なのです」 みたいに言ってくれれば、違和感が無くなるんですけどねぇ