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EQ(心の知能指数)テストしたことありますか?
元々人の心が読めない、分かりにくいです。 普段怒らない人を怒らせることも度々あります。 人から注意されて分かるときもありますが、言われてもなお分からない時があります。 そんなつもりはなかったのに…ということが多いです。 今は改善しようと努力しているので、メールなどじっくり考えられるものに限れば、前よりはマシになったかなとは思うのですが、他人からみたら変化してないかもしれません。 普通に空気読めたり、自然と他人を気遣える人がすごく羨ましいです。 学生のときに、心理テスト(たぶんEQテストも含む)のようなものをした時も、あまりにも酷かったみたいで、大丈夫か?と本気で先生に心配されました。 さっき改めて、ネットでEQテストをしてみたのですが、どれも平均値より低く大変ショックでした。 特に「自己動機付け、楽観性、自己コントロール、社会デフトネス」とやらが悲惨でした。 ちなみにIQは99です。ちゃんとした医療機関で調べたので確かです。 発達障害とは言われませんでした。 IQはだいたいが遺伝と環境だと思いますが、EQもそうだと思います。 父は天然でぬけてる上に人の心を読もうとしません。 まぁ読めないとも感じますが。 母も少し天然です。あまり人の気持ちが分かるほうではありません。 他人に素を出すことはなく、家に人をあげることをものすごく嫌がります。 二人とも普通に仕事してますが、趣味はほぼなく、友達もほとんどいません。 その上、父と母は仲が悪いので会話がありません。孤独です。 自分も天然とか変わってるとかよく言われますし、そういう環境で育って来たので、コミュニケーションの取り方が分からないんだろうなぁと。 EQが高いと生きやすくなるらしいです。 今とても生きづらいです。
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- Glory_777
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今は学生でもやるんですね。 先天的な影響よりも、後天的な訓練が人生を決める。 と言ういみでEQが開発されたのだと思いますよ。 人の心は傷つきますが、その度に交換したり、強化したりして、 心をサイボーグ化していくのが大事です。 これらはボンヤリしていると全く変わりません。 わたしも自分の人間性については悩んでいた時期があります。 ある時期に訓練が必要だと自覚し、 思い悩みながら頑張りました。 その当時は、EQなど普及しておりませんでした。 ですが、個人的に努力すると決めて、色々と自分で工夫をしていると、 体感で自分が変わるのが分かりますから、 EQのテストが受けさせられたときは、高得点になると確信しておりました。 つまりこれは人の資質ではなく、ジャンルなのです。 多くの人は、成り行き任せで心が鍛えられると信じています。 そこに警笛を鳴らし、スポーツと同じで基礎体力が必要であり、 長く継続すれば、自然に増していくという論理です。 EQでは、測定がメインではなく、意識的に高める手順を重視しています。 つまり人造的な聖人を作ろうという試みです。 人造的に作られようと、天然であろうと、どちらも聖人としてのパワーは変わりません。 そこでサイボーグと表現しました。 私の共感力は偏差値78だそうです。 感情とは別に必要な事を実践する力が偏差値75です。 その他はだいたい似たような数値になったと記憶しています。 当然ながら、意識してそれまで鍛えていたのです。 偏差値と言うのは、他との差ですから、 意識していない人が多ければ高く出ますね。 それくらい、心の中と言うのは、人に見えないので、放置されすぎているのです。 自分が気をつけて注意してからですと、 だいたい5年程度でここまできます。 それまでは、人の気持ちが分からない自分勝手な奴というレッテルで生きていました。 ですので、悩むよりも実践が大事だと思います。 ただし、本格的に開花するのが40歳を過ぎてからです。 ここで開花するための起爆剤、潜在的なパワーをそれまでに増しておくというのが 正しいと思えます。 私たちの脳は、嫌でも主体が大脳へと移行します。 ここで人格がほぼ入れ替わるため、好みも変わります。 このときが人としての完成であり、それ以前は、焼き物に例えれば、 釜にはいっている状態ですね。 取り出してみて、素晴らしくなるか、みすぼらしくなるかは、 今正に若いうちに蓄積されている思考が影響しています。 思考には習慣がありますので、これを整えておかないと、 後で損をすることになります。 40歳を過ぎると、常に人を恨んでやまず、病んでいくか、 常に人を心配し、楽しいことを思いついて、頭が良くなっていくかの 二通りの人生を歩みます。 これ以前は仮初であり、差が余り感じられません。 EQと言うのは、それ以前を測定したか、以後を測定したかで大分違うはずです。 また、 「生き易いとか、生き辛い」とか言う概念自体が嫌いに成ります。 それくらいならば、性的興奮でイキ易いか、イキにくいかを心配したほうがマシですよ。 どうせなら快感について悩みましょう。 コミュニケーションは、自分の好きな人と取れれば良いと思います。 嫌いな人と取れなくても良いじゃないですか。 60億の人が、それぞれ自分ひとりを大切にし、それだけを考えて幸せになれば、 60億人が幸せだというはずです。そして、世界は幸せなはずです。 自分以外の別の人一人を幸せに出来たら、ノルマの倍ですよ。 こういう人が聖人なのであり、 けっして他の面倒を見れると無謀なことを考えてはいけません。 また、そうなるべきと言う人の言う事は信用してはいけません。 誰もがそんなことが出来たら、幸せが溢れているはずですね。 ノルマは自分だけです。皆がこれを満たせば、世界は幸せなはずです。 自己を犠牲にしてはいけません。それは責任を放棄したことになりますよね? 自分の気持ちを伝えるのは自分の責任です。 あえて人の気持ちを知らないといけないとするのは、不当な話なのです。 ですから、EQというのは、たまに出来たら素晴らしいという話であり、 これを見て自分が不幸になれば本末転倒ですよ。 「自分を幸せにしたいため、寂しいのは嫌だ」 これはノルマとしての目的にかなっていますよね? このとき欲張って、 「皆と」とか思っていませんか? ノルマは自分ひとりですから、自分以外に0.5人くらい入れば、立派なんです。 ということは、誰か対象を絞り、その個人と軽い会話をして、 たまに行動できることが人の限界だと言う事です。 両親であっても、人間ですから、 伴侶を丸ごと受け入れることは不可能です。 0.5人くらい分は大事にしているはずです。 これは立派なのですよ。 EQが低い人は、この相場を知らず、無謀な理想を追いかける傾向があります。 オールオアナッシングをやると、0になりますよね。 初めから自分ひとりを幸福にするとすれば、+0.5人くらいまではいけるものです。 誰からも好かれようとすると、誰からも好かれません。 力が及ばないからです。 こんな自分が嫌だという人は、それだけで自分を大事にする心が現れています。 なので大丈夫です。 問題なのは、嫌ってしまってることです。 人が他人を芯から好きになる限界が、良くて0.5人だとすると、 誰かが自分を好きだといってくれることはほとんど無いのです。 ですから、ノルマを満たすために、自分を好きにならないと、いけないわけです。 誰もが自分を好きであれば、全ての人は一人分の好きに満たされています。 しかし、 ほとんどの人が自分を好きになれません。 自分を好きに成るのに忙しい人が多い。 これに自分を好きに成ってくれと頼んだら、 相手に迷惑ですよね。 余裕が無いのですから、責めても脅してもいけませんよ。 「自分の事は自分で好きになるので、 気を使わないで、自分に集中してください」 こういう発想で冷静に相手を見ることです。 すると、誰もが自分を好きになれず、一生懸命自分を支えているのが分かります。 EQはここを見て、まず 「自分だけじゃない」 と安心することから始めないといけません。 どんなに努力して、他の人と同化したとしても、 その人達が、自分を好きになるので必死であり、余裕が無かったら、 誰も自分を好きになってくれないのです。 しかし、 (嘘でもw)「いい人だな、こんなところが好きだよ」 と言ってあげると、 相手の人も自分を好きに成りやすくなります。 これで余裕が生まれるので、 「あのときは(嘘でも)そう言ってくれて助かった (その分くらいは)俺も君が好きだ」 と言ってもらえます。 こういう交換が本当のコミュニケーションじゃないでしょうか? どんなに良い人を演じても、 どんなに自分の魅力を増しても、 どんなに素晴らしい技能や成果を残しても、 相手の人が自分を嫌いで自信が無かったら(余裕が無いため) こちらを好きに成ってくれません。嫌いなのではなく、余裕が無いからですね。 この当たり前の論理に気がついて、 相手が何を気にして余裕をなくしているのか探ってあげるのです。 それは実際に調べること。聞いてみたり、事情を想像してみたりします。 そこで、一言気が楽になる言葉はないか?と探してあげるだけでいい。 それ以上は、自分が大変に成ります。 それ以上を求める人は、お断りをするのが大事です。 それだけでも助かるという人を友達に選びましょう。 他人をきづかって自分を不幸せにすると、 自分が自分を好きに成るので忙しくなります。 すると、先ほど入ったように、余裕が無い人の一人に成ってしまいますよね? 自分のことばかり考える人を責める発想があります。 これは間違っています。 人というのは、自分が満たされた後、寂しくなって、誰かを求めます。 こうなるのを信じて、相手に時間をあたえないといけません。 また、相手に対して性急に何かを求める場合は、 一緒に手伝ってあげて、お返しをちゃんと求めればよいのです。 これが嫌な人はいませんよ。 私たちの心は全て同じ構造になっています。 誰もが苦しいと、誰もが他人に助けを求めます。 こうなると需要過多で供給が追いつきません。 ですから、まずは自分を自分で好きになり、余裕をつくり、 少しだけわけて、回復しそうな人を選びます。 その人と良い循環を作ったら、一緒に、次に分け与える人を探すのです。 これを仲間と言いますね。 楽しそうな輪に入って、幸せになろうという発想は実現しません。 なぜかと言うと、楽しそうにしているだけで、一人一人は余裕が無いかもしれません。 これだと期待しても無理ですよね。 しかし、自分に余裕がないとこれに気がつけません。 すると、 実際は苦しいのに、楽しそうに笑いあう、非常に苦しいグループが出来上がります。 ここには関わらないことですよ。 自分を好きになり、自分に余裕をつくり、余った部分で相手に余裕を作る。 互いにそれを意識して感謝すれば、 無理せずとも、楽しく生きられます。 得点を競うものではありません。 このような発想を実践できる度合いが、EQであるといいます。 以上、ご参考に成れば。